日米和親条約

以前、少し書きましたけど、日米和親条約をちょっと補足して
おきましょう。
学校の日本史の授業で必ず取り上げますので、皆さんご存知だとは
思いますが、どのように先生に教わりましたか?

「アメリカのペリーの武力交渉に屈する形で、幕府は開国をせざるを
得ませんでした。ここに250年に渡る鎖国は終わったのです。」

こんな感じじゃないでしょうか。

でもホントにそうなの?
幕府が弱腰外交の末に開国させちゃったの?

そこンところを、新選組総長で物知りの山南さんに語ってもらい
ましょう。
教えて、山南さん!

20120806.jpg

アメリカ側の最大の要求は通商です。しかし、ペリーは日本側の交渉相手を
過小評価していました。
条約を結ぼうというのに法律の専門家を連れてきてはいなかったのです。
「艦砲で脅せば楽勝ッス」とばかりに、アヘン戦争でアメリカが得た利権の
部分だけを抜粋して、これを日本にも当てはめようとしたのです。

しかし、以前もお話したように、幕府側代表・林大学頭は外交のプロ。
アヘン戦争の情報も長崎経由で入手し、すべて理解していたと云います。
「漂流民の救助や、燃料・食料の補給については人命尊重の考えから幕府も
理解している。長崎だけでは不便というなら箱館と下田を開港しよう。
しかし、交易と人命は全くカンケイない話!断固、お断り!」
こう言って貿易を拒否したのです。

江戸時代も日本は完全に外国と交渉を絶っていたわけではありません。
皆さんもご存知の出島がありますよね。
幕府としては、時代の趨勢として長崎一港主義は捨てざるを得ない。しかし、
箱館も下田も江戸から遠いへき地(地元の人ゴメンね)であり、外国人の
移動距離を制限すれば開国を許した事にはならない、という認識でした。
交渉は日本側の成功だったと言ってもいいんです。

では、なぜ私たちは「アメリカに屈して和親条約を結ばされ開国した」
というイメージを持っている・・・ていうか、歴史の授業でそう教わった
のでしょうか?

一つには、その後安政5年に締結された日米修好通商条約とセットになって
覚えてるから、というのがあるでしょうね。歴史って、同じような名称の
事柄をまとめて暗記しますからね。
もう一つ。
明治に入ると歴史はすべて薩摩や長州が書きました。その中で、自分たちの
敵だった幕府はなるべく「マヌケで腰抜け」である方が都合が良かったのです。
腰抜け幕府は倒されるべきであり、倒した薩長こそが正義である。だから政権を
担うのである、という理由付けが必要だったのですね。
幕府にも有能な人はいたけど、国民は知らなくていいから・・・てなもンです。

明治に薩長が「作った」歴史を、私たちは基本的に今でも学習し続けていると
いうことを念頭におかないと、本当の歴史は見えてこないと思います。

だって、日本のほとんどの人がペリーを知ってるのに、その交渉相手の日本側・
林大学頭や江川太郎左衛門を知らないって・・・日本人としてヘンだと思いません?




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#29 これが自由民権運動に繋がるんですね
 薩長にやりきれなかった多摩の人々は鬱々としていたんだと思います。やがて神奈川県知事に新しい空気を運んできた人がつきました。多摩の人々は燃え立っています。石田薬局はどのように調合したんでしょうか!!
#30 野火止用水さま
自由民権運動といえば土佐の板垣退助や、肥前の大隈重信が教科書の常套ですが、多摩でも盛んだったんですね。その民権運動の中心になった人たちが、天然理心流の門下生だったことはとても興味深いことだと思います。

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