密偵に様子を探らせたり、目安箱を設置したり、新政府は不安定な江戸周辺に目を
配りながら、一方で確実に支配力を強めつつありました。
旧幕勢力は徐々に崩されつつあるものの、榎本武揚率いる海軍は強力でしたし、
戊申戦争を終結させるには、まだまだ時間とお金がかかることが予想されたため,
首都周辺の地固めが急がれたのでしょう。
新政府からすれば、早く東国の民衆を味方につけたい・・・というか手なずけたいと
いう思いがあったはずです。
そんな新政府の「民衆懐柔策」と思える記述を見つけましたので、今回はそちらを
ご紹介いたします。
「『御東巡につき孝行者、忠義者、高齢者への施し』
辰(明治元年)10月25日の御沙汰書
このほど、新政府軍の東巡に際して、その道筋の孝行者、忠義者、働き者へ御褒美
を与え、70歳以上の者且つ、火災や水害に罹災した者たちへ施しが振舞われるとの
仰せが出された。
よって、皇国中遠近なく前述の通り、広く行われるとのお考えであるから、府藩県に
おいても御趣意を心にとめて、それぞれの支配所で速やかに褒賞や施しを受けて、
窮民撫育を徹底して行きわたらせるように取り計らうべし、との御沙汰である。」具体的にどれくらいの金品がいただけたのかはわかりませんが、いくらにしても
御褒美がいただけるというのは嬉しいものです。
幕府贔屓の江戸っ子や天領っ子もグラっときちゃう。
「皇国」、つまり「天皇の統治する国」であることをアピールしてますね。
薩長の政府ではなく、天皇の政府であることを前面に出すことが大事なのでしょう。
マジメに働いてればいいことあるよ、と前回ご紹介した「やさぐれ銀蔵」みたいな奴が
出るのを防ぐ意味もあったかも。
さらに、もう政権が固まった、旧幕時代は完全に終わったとアピールすることも必要
です。
実際には、まだまだ戊申戦争がもつれる可能性は大いにあったと見るべきでしょうが、
そんなコトを民衆にお知らせする必要はありません。
「『御凱旋につき御酒を下される』
一、辰11月4日晴、北陸道総督民部卿宮様の御凱旋で東京にお輿入れになったので、
朝廷より市中一同へ御酒を下されることになった。
幸橋御門内の東京府御役所へ町々の名主が麻の上下を着て、頂戴に罷り出て御酒錫
(しゅしゃく)一対づつ下された。これは、町々の名主だけだったそうだ。
その他、町内へ大樽およそ2本くらいづつ町ごとに下されるとのことで、車で引き取った。
そのとき、揃いの半纏を着てキヤリ歌を唄った人足が車を引きまわしたり、山車を花で
飾り付けたりした。各々思い思いの出で立ちで女芸者、金棒引きなど町の隅々まで賑わ
い、まるで天王祭のように本当にこれまでないほどの騒ぎのようであったらしい。」「八重の桜」で記憶にも新しいでしょうが、9月には会津戦争が終結して本州は新政府軍が
制圧したと言っていい状況になったのは、間違いありません。
そのタイミングでの凱旋です。
おそらく、「官軍大勝利」と大々的に宣伝するために、朝廷からお祝いとして民衆に御酒
が下されたのでしょう。
日記の記述を見ればわかりますが、
「誠ニ是迄ニなき勇ミ立と思わる」と書いてあること
から、杢左衛門さんはこの東京の賑わいを目撃したのではありません。
しかし、新政府軍が勝利を収め、東京の民衆が大喜びしてお祭りさわぎになっている
ことが、首都から40km圏の村々まですぐに伝わったということです。
これは、政府の宣伝策としては十分成功と言えますね。
実際にはこの半月前に榎本軍は五稜郭を占拠。府民に御酒が振舞われた11月上旬には
土方歳三らが率いる陸軍隊、額兵隊、それに彰義隊が松前城を落として、蝦夷を平定。
12月には箱館新政府を樹立し、外国の領事も祝賀会に出席しています。
まだまだ、旧幕側はガンバッておりますぞ!
北海道の厳しい冬を目前にしての、休戦状態に過ぎなかったのです。
ところで細かいことですが・・・市史によると日記にある「北陸道総督民部卿宮」とは、
当時、軍務官知事兼北陸総裁だった小松宮彰仁さんのことだそうです。しかしこの方は、
民部卿ではなく兵部卿だったそうで、これは杢左衛門さんの誤記であろうとのこと。
何か調べものをされる方がいらっしゃいましたら、ご注意くださいね。


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同時期、長尾村の記録には以下のとおり簡略な記述があります。
10/07 天皇東行のため、品川宿へ布団を差し出すよう命令がある
10/12 天皇の行列を、村人たちがこぞって見物に行く
11/01 出精の農民・老人・孝行者を申し出るようお触れがある
佐藤彦五郎の日記にも、10/13前夜に天皇の品川宿宿泊、
当日昼は増上寺で休憩、行列を柴井町にて拝したことがあります。
天皇東行こそ、新政府による最大のアピール作戦だったのかも。
メガスタ子ちゃんがミノタウロ子ちゃんに!?(笑)
そういえば、牛頭天王も新政府から不当な扱いを受けた気の毒な神様ですね。
6月の祇園祭は、賑やかに盛り上がりますように。
当時の江戸・・・もとい東京の人たちが、天皇東行をどんな気持ちで迎えたのか
とても興味があります。ちょっと前まで将軍が一番エライと信じていた人たち
ですからねぇ。
しかし、品川宿まで布団の「助郷」とは・・・慌ただしさが目に浮かびますね。
牛頭天王は、インドの神さまっていうのが明治政府の気に入らない所だったので
しょうか?日野宿でもそうだったように、八坂神社等に変わってしまった所が
多いようですね。
村を治める方法は従来と変わらなかったと伝えられますが、韮山県と品川県、武藏県の県境に置かれた周辺の村々は、次の時代への対応に大わらわで、御酒どころではなかったのではないでしょうか。
寄場組合から次はどの県に属するのか、どのような広域圏をつくるのか、その場合の村々の扱いはどうなるのか、苦労事が多かったと思います。その辺の本当の姿がどこかで見つかればいいのですが、まだ発表されていないのが残念です。
野火止用水
東屋梢風さんのコメントでは、長尾村や日野宿の人々は天皇行幸を見物できた
ようですが、杢左衛門さんは伝え聞いただけのようですし、また、武蔵村山市域
中藤村の「指田日記」には、行幸の記述がありません。行幸ルートから遠いという
のもあるでしょうが、温度差を感じますね。
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