明治元年の村々の様子

新政府は慶応4年(1868)8月に「江戸」を「東京」と改称することを発表します。
その翌月には元号も「明治」と改まるわけで、表面上は日本の国がすっかり
旧時代から入れ替わった印象を受けます。
しかし、東北から北ではまだまだ旧幕府軍との戦争が続いていました。
結果的には崩壊してしまいますが、奥羽越列藩同盟内部では「東日本政権」の
樹立も話し合われていましたし、特にその時点では制海権を榎本艦隊が握って
いましたから、旧幕府方が再逆転する可能性は0ではなかったのです。

新政府は東京周辺も完全に支配下に治めていたかというと、それもまた疑問
です。
圧倒的な軍事力を見せつけて民衆を押さえてはいるものの、村々の統治シス
テムは幕府時代をそのまま踏襲しただけでしたし、ようするにまだ時間がなくて
目が届いていないという状況だったのでしょう。
狭山丘陵の村々に、蕨宿へ助郷に出すなどという距離間を無視したような
命令もそのせいなのでは、と思います。

当然、村々の反発が予想されますから、政府では密偵に探らせるクリック!)
などして村々の情勢を常に気にかけていたのではないでしょうか。
さらに新政府はこういうことも始めました。

「『目安箱創置』
  辰(慶応4年)8月 東京府日本橋に建てた高札の写し

王政御一新となったことで、それが下々にまで行き渡り、万民が安堵して各々
の生業を安心して暮らせるようにと、この上ない思し召しを仰せられている。
しかしながら、朝廷の尊厳を気にしたり、役人の権威を恐れるあまり、民衆の
実情を知ることが閉塞してしまっては仕方がない。
そこで、この度目安箱を設置するので、その間下々の者たちは右のような
お考えを謹んでいただき、朝廷のためのことは申すに及ばず、役人たちの
良し悪しや不正、民間の苦しみなどどんなことでも恐れることなく、封書をして
この箱に入れるように。
お取り上げに価する意見は、直ちに採用するものである。
   辰8月  鎮将府                     」


このように、民衆の声を組み入れようとしたんですね。
一方、支配される側の村々は新政府をどのように受け止めていたのでしょう。
慶応4年8月16日に、武蔵国の組合村々の寄場役人たちが民政裁判所に
次のような意見書を提出しています。

「去る文政10年(1827)からのご改革で、関東地域の取締りのため御代官
の手付、手代の中から取締出役(八州廻り)が選ばれました。最寄りの組合
でも申し合わせ、用件があれば寄場親村役人、大小惣代みんなで御取締り
の御用を取り扱ってきました。
現在、御一新以降は取締出役もご廃止になり、当時の村々の者たちも、もう
寄場親村や大小惣代役、組合村々といった組織も同様にご廃止になるもの
と心得ておりました。
銘々一つの村ごとに御用の筋を勤めるように心得て、村々それぞれに村立ち
をいたしました。

ところが、御一新になってもやはり前の時代通りの御触書、または御沙汰
書などが寄場親村へ書付をもって仰せ渡されます。
親村より組合村々へ、御用の筋を伝達することは差支えなく取り計らえます
が、こうすることは畏れながら、その度ごとに経費もかかり割合も差支え、
特に大小惣代たちは前書に申し上げました通り、とにかく用件を済ませること
ができず、親村にとっては困難なことなのです。

今まで通りの機構を用いるのであれば、これまで通りお取締りのために時々
御出役を派遣していただき、寄場親村名主兼大惣代、並びに組合内大小
惣代役をあらためて決めていただき、組合役人ともども以前からやってきた
通り、御用の筋、諸経費を惣高割で出金いたしますので、仰せ渡してください。

さもなき場合は、御用件が済まされなくなるように自然となっていくと、申し上げ
奉ります。何とぞ格別の御憐憫をもって、申上げました通りお取り計らいして
いただきたく偏に願い上げます。
右の願い通りにお聞きくだされたなら、お取締りの方もよくなり有難く幸せに
存じ上げ奉ります。以上。
   慶応4辰年8月16日  武州 布田宿組合 府中宿組合 日野宿組合
                  八王子宿組合 小仏駒木野宿組合 青梅村組合
                  扇町谷村組合 拝島村組合 飯能村組合 
                  所沢村組合 田無村組合 
                  右寄場役人連印
   民政御裁判所

右は慶応4年8月16日、御代官江川太郎左衛門様御役所より民政御裁判所
へお差出しになった                                    」


村々では、政権が替わって少しでも負担の軽い統治が行われるものと考える向き
もあったようです。しかし実際には、先ほども書いたように旧幕時代の機構が
そのまま使われ、負担はさらに増すばかり・・・というわけでこのような訴えを起こ
したのでしょう。
ほぼ多摩全域の組合の訴えです。

村々の不安は次のような形となって表れます。
以下、2例をご紹介。

「『失踪届』 
          武州多摩郡蔵敷村 百姓藤助次男 銀蔵(辰29歳)
右の者は親元で農業の手伝いをしていましたが、農業を嫌い大酒を好み、昼夜
方々を遊び歩いて金銭の無駄使いをし、親たちへたくさんの迷惑をかけました。
これまで親類、組合村役人たちからも度々意見をしましたが、聞く耳をもたず、
次第に品行の悪さも増長して、最近は4~5日も家へ帰らないこともあります。
しかしながら、これまで悪事を起こしたことは一切ありませんでしたが、このような
者がこのままいたのでは、この上どのような変事を仕出かし落ちぶれるほどの
迷惑をかけることも考えられ、心底が見届け難いのです。
この度一同相談の上、勘当して人別帳から外す決心をしましたので、このことを
もうしあげます。ついては何とぞ御慈悲をもって、前書の銀蔵の身分を勘当と
して人別帳から外すことを仰せ付けられたく願い上げ奉ります。以上。
   慶応4辰年9月23日     右 藤助 
                     親類組合惣代 親類 籐七
                     村役人惣代 杢左衛門
 江川太郎左衛門様 御役所                     」


おおおーーーッ! 銀蔵ーーーッ!
みなさん、覚えていますか?
以前、このブログでご紹介した銀蔵が、また登場です。
ご存知ない方、忘れてしまった方は「銀蔵ものがたり」こちらをクリック!
コイツ、更生してなかったんですねぇ・・・。

「『〇』
        武州多摩郡蔵敷村 百姓徳兵衛(辰60歳)
右の者は石高1石3斗1升5合を所持し、家族2人暮らしで農業を営んでいます
が、先月27日ふと家を出たまま戻らないので心当たりの所々を訪ねましたが、
さらに行方がわかりません。
もっとも、これまで悪事出入りなどは一切ないものの、右の者は実際借財が嵩み、
返済手段に差支え出奔したのかと思われます。右のようなことで行方知れずと
なって余儀なくこのことを訴え奉り申し上げます。以上。
  慶応4辰年9月23日   右徳兵衛親類組合惣代 親類勘兵衛
                  役人惣代 名主 杢左衛門
 江川太郎左衛門様 御役所                       」


こちらは欠落(かけおち)といって、領民が勝手に土地を捨て出奔
してしまう状況です。江戸時代には重税・飢饉・貧困でこのような人が多数出て
無宿人となって都市に流入し、犯罪を犯すなど社会問題になったこともあります。
銀蔵の場合も「失踪届」とあるので、以前のように素行不良というだけでなく、
家を出てしまったので犯罪者となる前に家族の者が勘当したのではないで
しょうか。
徳兵衛さんは60歳という、当時でいえば高齢者。家族2人とはもう1人は女房
でしょうか。年寄りが2人土地を捨てて何処へ行ったというのでしょう?
慶応から明治へ切り替わった時期、江戸周辺の村々では新政府の支配は
まだ確立せず、かといって旧代官所はその機能を失い、不穏な空気に包まれ
ていたように思われます。

メガ4
この2人は誰?ご存じない方は
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コメント一覧

#720 こんばんは^^
イッセーさま、こんばんは。
こうして振り返ると、東京に改名されてから、まだ150歳に満たないのですね。
美雨はやっぱり天下の「お江戸」の響きがいいなぁ。(>_<)
欠け落ち、という名前というか事象を初めて知りました。
私も、慶喜さえ将軍にならなかったら、東日本の歴史はもっと変わっていたと思います。
奥羽越列藩同盟の「東日本政権」、ハイ、可能性ゼロではないですね。
生まれ育った土地を離れ、老人までが失踪・・・求心力のなくなっていた当時の東日本はどこもアナーキー状態だったのかもしれませんね。
年寄りだけでなく、欠け落ち便乗した駆け落ちメガ子ちゃんみたいなヤングもいたかも(?)笑
#721 美雨さま
徳川慶喜については、いろいろと評価が分かれますね。
素質は間違いなく優秀な人物だったと思います。彼が水戸の出身でなかったか、
あるいはもっと早く将軍になっていたらもう少し違った結果になっていたと
思います。
幕府側でいえば、阿部正弘と江川太郎左衛門英龍が早死にしてしまったのが、
決定的に痛かったですね。生きていれば幕府内改革を断行して欧州の政治スタイルを
日本に導入していたと思います。

まぁ、時代の流れからして幕府はいずれなくなり、議会政治へと移行していった
でしょうけど、薩長だけではなく、旧幕側の政治家がその中に入っていれば、
維新ももっとスムーズに進んだのではないかなぁ、とワタクシは思っています。
#722 飴と鞭
銀蔵、懐かしいですね~(笑)。逮捕されてもなお行状を改めなかったとは、
彼が元来そういう性格だったからか、あるいは幕権凋落の影響なのか…

新政府が民衆に経済的負担を強いたのは財政難、
つまり戊辰戦争がまだ続いており、莫大な戦費を必要としたからでしょう。
とは言え、負担ばかりで民心が離反してしまってはいけないので、
慰撫のため案出した方策のひとつが目安箱設置か、と思いました。

ちなみに長尾村の記録によると、9月22日(新暦では11月3日)、
天皇誕生日のため江戸市中では商売を休業したとか。
これも天皇&新政府の示威と同時に、民心慰撫の一環かと感じました。

「東京」への改称が発表されているにもかかわらず、
まだ「江戸」と表記されているあたりもご愛敬でしょう(笑)
#723 文化14年には効果も
 少し次代が遡るのですが、清水村で、この頃まだ村を治めていた地頭がいて、乱行をつくすので、名主が目安箱に訴えた結果、「行跡宜しからず隠居」の断が下った例があります。
 目安箱が機能していて、流石と思ったのですが、慶応になってのは眉唾ですね。いい例が出るといいのですが・・・。 野火止用水
#724 東屋梢風さま
銀蔵、覚えていらっしゃいましたか?
たぶん、この人はそーゆー性格だったのでしょうね。ただ今回は、「失踪届」と
ありますので、銀蔵自身なにか村を出なければならない理由があったのかも
しれません。

新政府が人心掌握のために、いろいろと策を出したことはまた書いていきます。
おそらくこの時期は、新政府も不慣れな土地の支配に手さぐり状態だったの
では、と想像できます。
#725 野火止用水さま
清水村は天領と私領が入り組んでいてわかり辛い所ですが、幕末の動乱期に
入る前までの農村は、行政が比較的うまく機能していた印象がありますね。

慶応4年の目安箱は、市史によれば「偽訴」も交じっていたようで、村民も
新政府に対してまだ信頼を寄せていない状況が想像できます。

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