当分助郷除外嘆願の裏で見えたモノ

蕨宿への当分助郷から外してくれるよう、高木村の名主・金左衛門さんが
中心となって嘆願が行われました。
村々からお上へこのような訴えがあるときは、まずすぐ上の役所に届ける
ことがルールです。
東大和市域は天領でしたから、代官所ということになりますね。
当時はすでに多摩の江川代官領は「韮山県」と改まっていましたから、韮山
県役所
に届けなければならなかったのです。

ところが韮山県役所が、この問題解決に消極的だと見た金左衛門さんらは
さらにその上の機関、民政裁判所に直訴という強行手段に訴えます。
民政裁判所とは、江戸時代の勘定奉行所です。
さらに、駅逓役所という元の道中奉行所に当たる役所にも、この訴えを届ける
のです。

当時、このような「代官」を無視するような行為は許されない違法行為。
助郷を外してもらうどころか、不届き者として処罰されても仕方のない行動です。
よく、ここまで思い切ったと思います。
それほどこの「当分助郷」は村々の生活に与える影響が大きかったのだ、と
想像できるのですが、しかしここまで思い切った行動に出るにはそれなりの
計算があってのことでしょう。
「里正日誌」を読むにつれて、当時の名主たちのしたたかさはだんだんと知り
つつあります。

嘆願書が出された日から一月後の12月16日、「里正日誌」には今回の嘆願に
掛かった経費と、その額を村々でいくらづつ分担したのかが書きだされています。

金16両   廻り田村名主太郎右衛門出府入用(11/7~12/8迄)
金4両3分1朱と1貫300文   太郎右衛門出府中臨時入用
金13両2分   高木村名主金左衛門出府入用(11/9~12/5迄)

金1朱   御腰掛入用(11/11)
金1両1朱   鰹節両人(11/12)
金3分   御先々方へ
金1分   蕨宿まで平重郎が向かったので飛脚賃
金1両1分   その筋へ肴代
金3朱   後ヶ谷村まで飛脚賃
金1分   和泉屋下代 仁平を遣わす
金1朱   紙代

金1分   御腰掛入用(11/17)
金3両   その筋へ酒食代2回分

金1分1朱と200文   御腰掛入用(11/25)

金1分2朱   御腰掛入用(11月晦日)
金2朱   和泉屋下代 長蔵を遣わす
金1分   右定宿 菓子代
金5両   先方
金5両   先方 
金3分   同
金2分   同

金4両2分   後ヶ谷村平重郎出府入用(11/17~11/25迄)
金6両2分   中藤村市郎右衛門出府入用(11/19~12/1迄)

合計 68両3分3朱と1貫500文   」


ちょっと計算が合わないのですが、日誌の記載をそのまま書き出してみました。
この合計金額を、訴え出た村々で分担した額が以下の通りです。
村の生産高ごとに平等に振り分けたようです。

「金1両3分3朱と660文   横田村
金13両1分3朱と453文   中藤村
金9両3朱と470文      芋窪村
金4両2朱と100文      蔵敷村
金4両1分3朱と251文    奈良橋村
金3両2朱と610文      高木村
金3両3分2朱と304文    後ヶ谷村
金7両2朱と303文      清水村
金8両と404文        廻り田村
金13両3朱と453文     久米川村」


ここで前回ご紹介した訴状に記載されていなかった廻り田村の名前が出てきま
した。ということで、訴え出た村の中に廻り田村も入っていたことがわかります。

この書き出しを見ると、訴状の代表は高木村の金左衛門さんですが、各村々の
代表者らが江戸の宿(和泉屋)にほぼ一月の間滞在して交渉に及んでいた
ことがわかります。
腰掛というのは、役所内で訴え出た人たちが控えている場所のこと。
つまり、この腰掛入用のあった日にお上との交渉があったのでしょう。

さぁ、問題は太字で表した部分、「その筋」へ掛かったお金です。
交渉の行われた日にかかった酒食代金ということは、間違いなく接待費です。
しかも「民」から「官」への接待ですから、贈賄が公然と行われていたという
ことになりますね。

明治新政府は、徳川政権下とは違う新しい地域支配制度を作ろうとしました。
かつての天領や旗本支配地を改め「県」を置く、というシステムです。
しかし、わずかの時間でそんな大がかりな改革ができるわけがなく、名称が
変わっても中身は旧幕時代と同じというのが実情だったのですね。
「東大和市史」では当時の状況について、このようにまとめています。

『特に韮山県の場合、それまでの寄場組合という村どうしのつながりをその
まま継続し、地域の村むらを支配するという方法をとったため、代官の支配
地域が県と呼び名を変え、代官が知県事になったに過ぎなかった。しかも村の
内部では、これまでどおり「名主」「組頭」「百姓代」が村の代表としての仕事を
担う状況に変化はなかった。』


ところで、この金左衛門さんらの訴えを政府はどう処理したのでしょう?
残念ながら、その後のことは不明なようです。
「里正日誌」にも記載がありません。
しかし、この「接待作戦」などが功を奏し、特にお咎めはなかったのではないで
しょうか。

メガ3


「シレーヌ、そんな姿で押しても君は美しい・・・」


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#698 これって、凄い話
 だんだん真相が浮かび上がってきました。時代の区切りの潮目をとらえるのに、村の指導者達がどんなに苦労したかが教えられます。特に、韮山県のように、上層部から半ば放り出されたような立場に置かれた名主達の行動は、読ませて頂いて心に響きます。
 政府がどのように処理したのか知りたいです。 野火止用水
#699 野火止用水さま
韮山県の設置は謎が多いですね。
穿った見方をすると、江川代官・英武が(その手代・手附たちが)自分らの
支配地域を守るために、新政府と取引をしたのではとさえ思ってしまいます。
支配下地域の村々はその取引の道具に使われてしまったのでしょうか?
維新を迎えても、その恩恵を与えられることはなく、返って負担が増えていった
村々を思うと、ここが正念場という名主たちの気持ちが伝わってきます。
#700 過渡期
助郷負担が多少なりと軽減したのかどうか、結末がわからないのは残念です。
ただ、金左衛門さん達が罰せられたりしなかったようなので、安心しました。
接待は褒められたことじゃないけれども、
彼らにはそれしか自衛の手段が残されていなかったんでしょうね。
この手の官民癒着の構造は、このあと新政府の体制が整っていっても
無くなりはしなかったんじゃないかな~と感じます。

和泉屋が公事宿営業を続けているのも、支配制度が変わっていないことの証左でしょう。
旧幕時代、庶民が法律に通暁しているのは良くないこととされ、
公事師もお上には不正な存在とみなされていた、
しかし明治5年、司法職務定制の発布により「代言人(弁護士の前身)」が規定され、
やっと訴訟代理人が公認された、と聞きます。
公事師から代言人に転身した人もいたらしいですね。
#701 東屋梢風さま
蕨宿の助郷自体は、翌年の明治2年5月あたりまでは続いたようです。
ただ、その負担の軽減があったかどうかは、よくわかりません。
東屋さんの仰るように、政権が変わっても社会構造にあまり変化はなかった
ので、賄賂にしても残っていったのでしょうね。

公事宿についても、その通りだと思います。
詳しい解説をしていただき、ありがとうございます。
確かに公事宿の仕事って、今の弁護士とあまり変わりませんね。

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