高木村の訴えは続く・・・!

前々回、「当分助郷に不正アリ!」の続編です。
高木村の名主・金左衛門さんが、民政裁判所に訴えた書状は尚も続きます。

「元々、当村々は甲州道中の裏街道で諸方への継ぎ立てを勤めており、さらに
昔から同道中府中宿へ賃高加助郷を勤めておりました。
ところが最近、東海道・東山道の両道中での御通行が集中する傾向にあり、
急用のある方々は甲州道中を往来するため、右の両道にも継ぎ立てが増えて
すでに甲州道中の宿々でも当分助郷、または増加(ましか)助郷などを願って
いる状況です。
私どもの村々が甲州道中の加助郷というのは名目で、実際には定助郷と同様の
人馬数を勤めています。」


増加助郷は当分助郷と同じく、臨時の加助郷です。
助郷は本来人馬などの労働力を提供するものですが、加助郷は定助郷よりも
遠くの村に割り当てられたために負担が大きかったのです。
そのため、時代が下がってくると労働力の代りに対価としてお金を納める、
賃高加助郷という形態が増えていました。

「ところが、去る丑年(慶応元年・1865)中、御変革御用の御旅行のため、
中山道大宮宿から当分助郷に指定されました。従来の村役も勤め兼ねるほど
だったので人馬を差し出すこともできず、仕方なく6月から10月までの5カ月限り
の賃銀勤めとすることで示談しました。
さらに、翌年寅年(慶応2年・1866)には東海道川崎宿からも当分助郷に指定
されてしまいました。そこは10里余りも離れている遠隔地であり勤めようもない
ので、仕方なく10月までの賃銀勤めとして示談いたしました。
また、今年(慶応4年・1868)3月には官軍御東下のため、東海道川崎宿から
御賄いの御用を高役で仰せ付けられました。高100石につき金3両の出金です。
尚、同じときに中山道大宮宿から同じ御用のためとして、日数に関わらず触当て
次第で当分助郷を勤めるように仰せ付けられました。
甲州道中日野宿からも同じ御用で当分助郷を勤めるよう、官軍御先鋒御用掛り
の御朱印をもって仰せ付けられました。
また、奥羽御出兵では多人数の通行になるため本街道は込み合い、脇往還を御
通行される方もあるので、当村々はじめ近村の御継場である小川村・所沢村など
へ急場の御用人足が仰せ付けられました。」


慶応元年の「御変革御用の御旅行」とは、14代家茂将軍の第2次長州征伐の
ための上洛を指しているのでしょう。
このように幕府時代から多くの加助郷を命じられていたことを、金左衛門さんは
書き上げます。

「今年の5月以来、蕨宿の差村になったので、大宮宿の御用は3里より5里まで
免除になりました。
このように近年引き続き諸方への人馬役高など勤めておりましたが、当村は元来、
武蔵野続きの悪地であるため土地の利も薄く、生活を潤す助けとなるような副産物
もありません。村々の男も伝馬役・高役・村役などに追い使われて農事余業にも
難渋しております。
そのため辺ぴの村々では脱走を企んだり、また押し込み強盗も少なからずあり、
とても難渋しています。
平年は、年貢を納めた残りを売った少しばかりのお金で、夫役代りの代金の足し
合いにしてきましたが、今年は予想外の凶作で食糧にも足らないほどです。
特に最近では人々の様子も不穏であり、全ての融通があまりありません。
高役や夫役は急激に増え、御年貢は5~6割増しにも課せられています。
蕨宿からも前書のように不正で過当な人馬を引き立てられ、本当に村々一同
暮らし向きも成り立たず、天を仰いでため息をつく他に解決法もなく、あまりの
当惑に仕方なく、この事を惣代をもって嘆願いたします。」


少し泣き落としが入ってきたでしょうか。
土地柄の問題やら、時事的な問題やらを切々と並べて訴えます。

「前述の通り蕨宿へは、これまでに特別な人馬負担もありませんでした。
私ども村々は年来引き続き、右のような諸方への助郷、夫役、高役などに苦しみ、
一同疲弊困窮している状況です。食糧も足らないほどの凶作で生活もままなら
ないほど難渋が極限に達していることを、幾重にもお考えください。
蕨宿への当分助郷は、今年10月の一の宮への行幸への御用だけにして、それ
以外はぜひ免除していただきたく、御一新の仁政のご沙汰をひとえにお願い
申し上げます。以上。
          武州多摩郡  高木村 後ヶ谷村 粂川村 奈良橋村
                 蔵敷村 芋窪村 横田村
 明治元年辰年11月17日
          右八ヶ村惣代 高木村 名主 金左衛門
民政裁判所                             」


「右八ヶ村」と書いてあるのに、村の数は7つしかありません。
そのため、もう1ヶ村含まれていたのでは、と考えられています。
杢左衛門さんが写し書きをするときに落としてしまったのでしょうか?

さて、本来であれば、村々の問題は江戸時代であれば代官所に訴え出るのが
スジってもんでございます。
新政府は慶応4年に、江戸周辺地域を「府」、その他の天領を「県」と改めます。
全国的な廃藩置県はまだ先の話ですが、江戸=東京は早くから手が付けられ
たんですね。
東大和市域を含む江川代官領は、江川太郎左衛門さんの所領があった「韮山県」
に入ることになりました。
ちなみに、江戸周辺の私領(旗本領)は政府に没収されたのち、「品川県」に改め
られます。
つまり、金左衛門さんたちの訴えは、先ず韮山県役所に出されなければならなかった
のです。
ところが・・・

「前書の通り嘆願いたしたいと存じますが、ご支配所である韮山県役所では、『各
宿場の助郷については検討中なので、書状の提出は差し控えるように』と仰せ渡され
てしまいました。
畏れ多いことですが、蕨宿から厳しい触れ当てがあり、村々一同本文の通り非常に
難渋しております。
書状の提出を許していただけなければ、惣代に不行き届きがあると村民一同が
騒ぎ出し、まことに進退差し迫ってまいります。
重々恐れ入りますが、御一新の折、お上の慈悲にすがり御愁訴申し上げます。
なにとぞ格別の御慈悲をもって受理していただき、本文願いの通り御仁政のご沙汰
をいただけますよう、お願い申し上げます。以上。
                       右 金左衛門
 辰11月17日 
   民政裁判所                            」


どうも、韮山県役所ではこの問題を取り上げてくれなかったようなんですね。
「世直し大明神」と呼ばれた江川代官も、遠い昔の話になってしまいました。


メガ2


「次の停車駅は『ポチっと押す星』。停車時間は42時間25分5秒。」


にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村

にほんブログ村 漫画ブログへ
にほんブログ村

スポンサーサイト

トラックバック一覧

コメント一覧

#690 先行き不安
金左衛門さんたちがやむにやまれぬ事情で訴え出たのはよくわかりますが、
何だか心配になってきました。訴えを聞いてもらえるかどうか以前に、
「不届き者」などと怒られて罰されないか?と…

新政府が多摩地域を韮山県と品川県に分割したのは、
どういう意図があってのことでしょうね。
民衆の団結を妨げ自治力を削ぐつもり、だったり……

メガスタ子ちゃん、おっしゃる意味がよくわかりません(笑)
そのポーズ、都美術館でバルテュス展を観てきたとか?
それとも、イレギュラーな「かて」が入った村山うどんでも食べちゃいましたか?
#691 東屋梢風さま
「不届き者」・・・その通りですよね。
実際にこの訴状は民政裁判所に箱訴という形で提出されたようですし、さらに
駅逓役所(旧道中奉行所)にも出されたようです。
で、「ナニ考えておるか、キサマらはッ!」と怒られないように、金左衛門さん
らも対策を立てていたフシがあるのですが・・・ソレは次回に。

多摩地域は地理的には、そのまま品川県か、あるいは後にそうなるように
神奈川県になった方が自然なカンジがします。
ワタクシは、江川氏が旧支配地をそのまま自分の行政化に置いてもらうように、
新政府に根回しをしていたのでは・・・と思っているのですが。
東大和市域の中でも、同じ村の中に代官領と旗本領がある場合では、そのまま
韮山県と品川県が一つの村の中にできてしまったようで。慶応4年時点での
韮山県の設置はムチャクチャです。
#692 金左衛門は天領名主
 天領名主が直接の上司である代官にたてつくなんて、当時では考えられませんが、実際に現場に踏み込んでいるところが凄いですね。
 里正日誌を書いた杢左衛門さんと金左衛門さんは親密で、さらに、杢左衛門さんは英龍からもらった掛軸などから、代官とは相当懇意であったと思われます。この人達が、腹を決めたのですから、この事件はただならぬと思います。
  野火止用水
 
#693 野火止用水さま
掛け軸の話は初めて知りました。
杢左衛門さんは、相当英龍さんの信頼が厚かったのでしょうね。
その人らが代官所は頼りにならぬ、とばかりにさらに上へ箱訴に及んだの
ですから、事態は相当切迫していたものと思います。
地方史から明治維新を見ていくと、今まで気がつかなかったモノが色々と
見えてきそうです。

コメントの投稿

名前

タイトル

メールアドレス

URL

本文

パスワード

非公開コメント管理者にだけ表示を許可する