斎藤一、戻る!

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すでにご存じの方も多いと思いますが、4月20日の読売新聞に「署員・斎藤
一」の名簿発見
という記事がありました。
ご覧になっていない方に、どのような記事だったかを説明しますと・・・。

斎藤さんは明治以降、警視庁に出仕して西南戦争に参加したことなどはわかっていた
のですが、正確にどの部署にいたのかはわかっていませんでした。
ところが、このほど彼が警視庁のどの部署に配属されていたのかを書いた名簿が
発見されたというのです。
名簿は警視庁第六方面第二署のもので、その中の「書記兼戸口取調掛」という役職
の中に「斎藤一」の文字があることがわかったのです。
第六方面第二署は現在の小松川署(江戸川区)にあたるそうで、名簿には当時の
同署員174人の名前が記載され、斎藤さんの名前もその内の一人として載っていま
した。斎藤さんの所属先が公文書で確認されたのは初めてだそうです。

名簿は京都市にある霊山歴史館が、明治期に警視庁に勤めた関係者のご子孫から
昨年末に入手したものだそうです。
名簿の冒頭には「署長 永田盛庸」とあり、この方が第六方面第二署の署長だった
時期は明治8年(1875)12月~明治9年6月までだったそうなので、名簿はその頃
のものと考えられます。

西南戦争が起きたのは明治10年(1877)ですから、斎藤さんはここから戦地に赴い
ていったのかもしれません。

ところで、不思議に思ったのは名簿にあった名前が「斎藤一」と書かれていたことです。
斎藤さんは「幕末出世魚」と言いたいくらい名前を変えた人です。
本名は山口一、新選組時代は斎藤一、会津戦争では山口次郎、斗南に移されるとき
一瀬伝八、そして明治以降の藤田五郎
会津の阿弥陀寺にある彼の墓の墓石には「藤田家之墓」と刻んでありますし、ご子孫
も藤田姓を名乗られています。
明治以降は松平容保公から賜ったという、この「藤田五郎」の名前で生涯を過ごして
きたと思っていたのですが、この名簿には「斎藤一」という新選組時代を一番象徴
している名前を提出。これは意外でした。

霊山歴史館副館長の木村幸比古氏は、名簿の名前は新選組にいた斎藤本人に間
違いないだろうとした上で、「時代とともに新選組が忘れられ、もとの斎藤姓を名乗り
やすくなったのではないか。」と仰っているのですが、どうなんでしょう?
確かに明治7年の太政官達で、戊申戦争で幕軍側につき死んだ人たちの慰霊など
が認められるようになりました。
しかし、たとえば日野高幡不動にある近藤・土方の忠節を讃えた「殉節両雄之碑」は
明治9年に完成しても、建設許可が下りたのは明治21年だったというようなことが
あるワケです。
とても、新選組が忘れられた・・・とは、まだ言えない時期だったと思うのです。

この名簿以降、彼はまた藤田五郎で生涯を過ごしていますし、なぜこの第六方面
第二署時代は斎藤一を名乗っていたのか、非常に興味のある所です。


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コメント一覧

#680 警視庁第六方面第二署
現在の小松川署ですね。う~ん、今の感覚では、斎藤一は他にいてもおかしくない感じなんですが。Junpei
#681 Junpeiさま
確かにどこにでもいそうな名前ではありますね。
斎藤は警視庁で諜報活動に関わっていたと云われています。
霊山歴史館の木村副館長は、名簿の「斎藤一」が所属していた時期や書記兼戸口取締掛
という諜報活動を連想させる役職名から、新選組の斎藤一に間違いないと言っています。
しかし、藤田五郎と名乗っていた時期とも重なりますし・・・。
もう少し検証してみていいかもしれませんね。
#683
なぜ、この時に斉藤一の名前を使ったのか。なぞですね。
今日の4コマも面白かったです。
#685 たっつんさま
仰るとおりです。
まだこの時期に新選組時代の名前を使うのは、しかも新政府役所内で使うのは
よほどの後ろ盾がない限りマイナスだと思うのですが・・・。
#686 刀架も装備?
名簿の件、報道を見る限りは精査が必要と思料します。
名前があったというだけでは、同一人物説は可能性のひとつに過ぎません。
同姓同名の別人という可能性を排除できる根拠があるなら、それを提示すべきでしょう。
話題を作って来館者を誘導したいのはわかりますけどね。

屯所の厠ってどういう構造だったんだろう?と思いました。
不動堂村では、大寺院の東司のように多人数が使える仕様かも?
昔の人は袴(襠あり)を下ろさなくても用を足せたとか聞きますが、
チェンジングボードか着替えスペースがあったりして(笑)
#687 東屋梢風さま
ワタクシも、新聞記事に新選組関連のニュースが出たのは嬉しい反面、
明治初期の段階での「斎藤一」の名前は、違和感を感じています。
仰るように、もう少し検証が欲しいところですね。

以前、とある集まりで寛永寺の「慶喜謹慎の間」を見学したことがあります。
当時のまま、というわけではなく改築はしてあるそうですが、廊下を出た所に
「厠」もありました。
用をたすそばに、T字型の手すりのようなものがあり、そこに着物の裾をかける
そうですね。
ワタクシのイメージとしては、屯所ではこのような構造の個室が3~4つ並んで
いたのかな・・・と思っているのですが。
時代劇ドラマでよく見る奉行所の厠ってのは、あれで正しいんでしょうかね?
#688 真実はこの世の中で一番面白い冗談である
藤田五郎=斎藤一ではないからですよ。

史実と虚像を巧みに織り交ぜることが上手な司馬さんが、
自分の小説に信ぴょう性を持たせるために
赤の他人に子孫を名乗らせたことが始まりです。
出自も、会津で局長になったことも誤りです。
斎藤一は、斗南から北海道に渡り、一生を終えていますが、
警官時代は東京に住んでいた事もあるみたいです。
名前は死ぬまで変えることはありませんでした。
#689 こんにちはさま
司馬遼太郎氏は「燃えよ剣」の中で、斎藤一を一諾斎としていましたが・・・?

いろいろな説があるということを拝聴させていただきました。

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