神明社の大木

いろんな事があった嘉永年間でしたけど、いろんな事があり過ぎたので嘉永7年
11月27日に改元することになりました。
新しい元号は安政です。
ワレワレが知っている改元といえば、昭和→平成ですよね。それ以前の大正→
昭和とか明治→大正を目撃した人ってのは、おそらくこのブログなんか見て
ないでしょうな。
平成になる時、小渕さんが「平成」って書いたボードを持って全国にテレビ中継
されましたが、江戸時代は改元というとどれくらいの速さで全国に伝わったので
しょうね?
ちなみにこの時、東大和地区には12月5日に改元の知らせが届いたそうです。
なんかノンビリした感じですが、当時の情報伝達はこんな程度だそうです。

元号が安政に変わってすぐの12月21日、アメリカ、イギリスに続いてロシアと
幕府は和親条約を結びます。(イギリスとは前年の8月23日に締結)

そんな頃の東大和です。

今回は市内の史跡を、一カ所ご紹介。

006.jpg

こちらに見えますのが、安政2年に建てられました「消防第二分団」です。
・・・・ってそんなワケは有馬温泉、ありません。

場所は東大和市狭山の志木街道沿い。
この場所にかつて「神明社」という神社がありました。
現在ではご覧の通り、まるっきり跡形もありません。私も小学生の頃はこの辺りを自転車に
乗り遊んだものですが、神社があったとは最近まで知りませんでした。

神明社

平成7年に碑が建てられ、今は神社があったことが確認できます。
ここから西に少し行った所に「狭山神社」という神社があり、ご神体はそこに合祀されて
います。

ところで、神明社の周りには何本もの巨木が生えていたそうですが、今ではそちらの痕跡も
見ることはできません。
ここにあった木は、元号が安政と変わってすぐの安政2年3月4日に伐り倒されてしまい
ました。
えッ! なぜ!?

里正日誌ではありませんが、杉本家の日誌には「神明宮の欅を御用船に用いるため、深川
原屋角兵衛に25両で売り渡した」と書いてあるそうです。

「当社の神木欅は周囲が1丈2尺余あるが、立ち枯れとなりキツツキの巣食いなどもあった
が、文政の頃の大風でついに倒れてしまった。他に周囲1丈4尺の欅があり神木と呼ばれた
が、文化年間に別当である円乗院の本堂建て替えのための建材にしようとした。住職が
読経し、吉凶2本のおみくじを神前に供えて無心無垢の小さい子供に引かせたところ、凶
と出たので伐採を中止した。
ところが嘉永に入り異国船が来航してきたので、幕府も蒸気船を作ることになり、具合の
良い木が急遽必要となった。御用商人の原屋角兵衛がやって来て商談したが、おみくじの
事を話し応じなかった。さらに、江川太郎左衛門にも伐採赦免の願い出をした。しかし、
幕府で使う用材なので理由はあろうが、相当の代償を支払うので売り渡すよう命令があった
ので、代金25両で売り渡し、角兵衛の手代である粂川村の升五郎が伐採し用材とした。

村内の関田忠右衛門は根っこの切り屑をもらい焚き木にしたら、火事で隠居家が焼失した。
その後盗賊が質蔵に入り家財を奪った上、火を掛けた。久米川村の升五郎は大熱病を患い、
これは神罰だと悟り毎日お参りをしたが妻が死んでしまった。
当時の村用掛だった真野彦四郎ら役人一同、氏子一同もこれらの事に大いに驚いて、売却
金25両で25座の神楽を演奏して神にお詫びしたが効果なく、疫病が流行し村民も次々と
患い、5年後にようやく収まった。
あまりの不思議さ、恐ろしさに境内の落ち葉や下草、枯れ枝などが溜まっても誰も取る人
がいない。まして他の大木は立ち枯れのまま残ったが手をつける者はいなかった。現存
するのは周囲9尺3寸の楢の大木である。」


幕府も欧米に負けないような蒸気船を作らなければならなくなり、その建材が江戸近郊
の村々から調達されたことが表されています。
この記述がおもしろいのは、後半がちょっとオカルトになっているところ。
実際にこの後、安政3年には赤痢、5年にはコレラが流行します。

こういった外国から持ち込まれた病気にも、ご神木の祟りと考えているところに庶民の
「目に見えぬものへの怖れ」が見てとれて興味深いですね。



20120807.jpg

「しれば迷い・・・」は土方さんの有名な句ですね。
「燃えよ剣」では沖田さんに苦笑されてますが。

「とうかん森」も木が弱ったことから最近伐採されて、
ちょっと寂しくなりました。

狭山地域
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