当分助郷に不正アリ!

兵藤雷太郎なる新政府の密偵がやって来たその頃、狭山丘陵の村々は
急に往来の激しくなった街道の宿場へ、助郷に借り出されている真っ最中
でした。
東大和市域は東西に青梅街道(当時の呼称は成木道)が走っています。
この街道は甲州道中の裏街道という位置付けがありました。
ですから、東大和市域の村々は本道である甲州道中宿の助郷をする、という
義務を元々負っていたのです。

そこへ戊申戦争の東国への拡大により各街道の通行量が増えると、本来の
助郷だけではなく、離れた街道への助郷にも行くよう命令が出されました。
特に中山道蕨宿への助郷は、東大和市域から距離もあり、本来の助郷との
掛け持ちもあって、村々には相当の負担になったようです。

そんな中、慶応4年9月に元号が「明治」と改められます。そして、10月には
明治天皇が東京に入都されると、早速氷川神社(大宮市)に行幸されました。
これは宗教的意味を持つと同時に、関東の民衆にあまり現実感のなかった
「天皇」を浸透させる、新政府の政治的思惑が強かったと思われます。
しかし、それは同時に人馬の供出を増やすことにもつながります。
村々にとっては、助郷の負担が増えるだけの事に過ぎなかったのです。

ついに溜まりに溜まった村民の、不満のガスがバーストする日がやってきます。
高木村、後ヶ谷村、奈良橋村、蔵敷村、芋窪村、粂川村、横田村の7ヶ村は
高木村の名主・金左衛門を惣代にして訴願運動を起こし、民政裁判所に
訴えることに出たのです。
民政裁判所とは、かつての勘定奉行所のこと。つまり、代官支配地を管轄して
いた役所ですね。
また、訴えに出たのは廻り田村を入れた8ヶ村だった可能性も指摘されて
います。

「畏れながら書付をもって嘆願奉ります
武州多摩郡高木村ほか7ヶ村の惣代である、同村名主の金左衛門が申し上げ
奉ります。
今年5月から官軍が御東下されるにあたり、当村も中山道蕨宿より当分助郷
に指定されました。右は急場の御軍役であり、いろいろと申し上げるのは畏れ
多いことなので、難渋することながら蕨宿よりの触れ通り遅れることなく
勤めをいたしました。
ところが、引き続き際限無く多くの触当てがあります。
蕨宿までの往復は18~19里(72~76km)も離れている遠村であり、1回を
勤めるのに3~4日もかかってしまいます。
壮健な者は肝心の農作業をすることも困難で、困惑しております。
宿に最寄の村、手空きの村々もあるので、助郷の変更を願い出てくれるよう
宿方へ願い出ましたが、聞き入れてもらえませんでした。」


書状の冒頭、金左衛門さんは蕨宿までの遠距離を理由に、本来の農作業が
できないことを訴えています。
また、「高木村外七ヶ村」と書かれていることから訴えに出ているのは8ヶ村の
ハズなのですが、この書状の末尾には7つの村しか明記されていないのです。
このことは、また後に触れます。
さて、問題なのはこの次からです。

「元々当分助郷については、5月中からおよそ6ヶ月間勤めるという約束でした。
御通行量が減り次第、勤めが免除されることは承知しておりますが、宿方は
巧妙な手段で不用な人馬を過分に触当て
ております。

また、賃金勤めの分は横領しているのです。
過当の人馬を御用に差し出していることは、だいたい承知しておりますが、御通行
の多少や宿方の不正については容易に糾明もできないので、これまで黙って
おりました。」


さぁ、とんでもないことが出てきました。
蕨宿の問屋が不正を働いていたと暴露!
コレは事実なのでしょうか?
ともかく、ココから金左衛門さんの怒りのボルテージは急上昇し始めます!

「しかし、当10月中の一の宮(氷川神社)の行幸に事寄せ、左の通りの過分の
人足の触当てを申しつけてきたのです。

10月25日夕詰め
一、高100石につき人足10人  御用中は宿方へ詰め、食事は村方で用意

11月2日夕詰め
一、高100石につき人足3人余り  右に同じ

右のような触当てが村々にありました。行幸はこれまでにない有難いことであり、
御国の恩恵に報いるのはこの時とばかり小前末々までもが、生活に難渋切迫
している中でも厭わず、触れ通りに遅れることなく宿方へ詰めました。
ところが、駅逓司(えきていし 交通通信担当の役所)様からはそのような過分
の人足を出せとの命令は出していないとの回状がありました。
せっかく宿方へ詰めた人足のおよそ7割ほどが余分となり、引き返すことと
なったので、莫大な失費となりました。
右のことは、只今申し上げたような他の村からの賃金横領のために企んだこと
です。規定外の過分の触れを出した不正の始末は、今度の御一新明白な御処置
によってたちまち露見するにもかかわらず、恥じ入る様子もなく、引き続き人馬
を引き立てられとても難渋しております。」


明治天皇の行幸でも、それに事寄せて不正が行われていると訴えていますね。
さらに、このことは担当の役所とも確認済みのような記述です。
確かにここに書かれていることが事実だとすれば、苦労をして人馬を出している
村々はバカみたいですからねぇ・・・。

さらに金左衛門さんら村々の訴えは続きます。
長くなりますので、「次回へ」でございます。


文字ばかりだと退屈かもしれませんので・・・
アノ方々にご登場していただきます。

メガ1


「次の停車駅は『ポチっと押す星』。停車時間は42時間25分5秒。」



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コメント一覧

#674 このとき江川役所はどのように対処したのか
 切々たる文言が、村人達の憤りを超して綴られます。ここまでくると、御支配の江川役所が表に立って調整してもいいはずなのに、さっぱりしません。むしろ、5月の段階では従わさせるような立場が垣間見られます。しっかりして貰いたいものです!!
 野火止用水
#675 助郷
イッセーさま、こんにちは。
助郷・・・って用語、はじめて知りました。
一見すてきな言葉だけれど、土地の人たちからするとキツいお役目だったのですね。
そういえば八王子や多摩地区のロケーション、主要幹線であちらこちらのルートと繋がる交通要衝にあると、従来の助郷だけでなく掛け持ち助郷もあって、金左衛門さんたちもさぞ困窮したことでしょうね。
行幸は誇りあるものですが、役人たちの横領が当たり前のようにはびこっていた当時、農民たちにとっては辛くて痛い命題だったのですね。
ここいら国分寺や小金井も似たような経緯があったのだと想像しました。
土地の歴史を教えて下さってありがとうございます。

でも、最強の密偵にして、頼れるメガ博士がいるかぎり、多摩地区の安全もきっと・・・
う~~ん、v-403怪しい!?(爆)

#676 管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
#677 野火止用水さま
全くその通りですね。本来であれば、まず代官所が中心になって調整をして
いかなければならないことだと思います。
後に述べるつもりですが、この訴願にしても代官所は傍観者のような態度を
見せています。
英龍さんがこの時まで存命であれば、維新後の多摩地域もここまで村々が困る
ことはなかったでしょうね。
#678 美雨さま
助郷はもしかしたら、農民にとって一番負担のかかる義務だったかもしれませんね。
基本的に街道筋の村々が助郷を受け持つのですが(定助郷)、足りなければ離れた
村から応援に出されるのです(加助郷)。
東大和の村民はこの加助郷でしたから、今でも車で40分はかかる府中まで行かさ
れていました。さらに、もっと離れた蕨ですから「冗談ぢゃないよ」となるワケ
ですね。

目賀はかせがやって来たら、戸締りしっかり、窓には鍵をかけ、用心した方が
いいでしょう!
#682 続きが知りたいです
助郷役を課される村々も大変ですけど、
宿場は宿場で「負担が増大し、このままでは伝馬業務に支障が出るから
なんとか助郷を増やして欲しい」と、行政に要請していたのでしょうね。

テレビの時代劇では、年貢の重さにあえぐ農民の話を見かけるものの、
実は年貢より助郷役の負担のほうが大きかったのでは……と感じます。
助郷役をめぐる紛争があちこちで起きていたのも、
今回の不正が事実なら、そういう手段で利益を得ようとする者が出るのも、
苦しみから逃れたいからこそ、かも。

中山道の状況はどうだったのか確認していませんが、
甲州道中の場合、慶応4年中に往来が激しかったのは1~6月で、
それ以降は意外に減っていた、とか聞いたことがあります。
だから、東大和地域の村々が掛け持ちさせられるはめになったのだろうか?
などと憶測してしまいました。
#684 東屋梢風さま
仰るように、助郷の負担は年貢を超えていたのでは、と感じています。
貴重な労働力を取られるということは、特に小さな村の場合、深刻なこと
だったでしょう。

江川代官がいち早く新政府に恭順したように、幕臣の中で保身に走る者が出て、
村々がその煽りを食っているようにも感じます。

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