新政府の密偵現る!

慶応4年(1868)正月、鳥羽・伏見の戦いに勝利を収めた新政府軍は、
東海道・東山道・北陸道の3ルートから一気に東国に向かって兵を進め
ました。
江戸を戦火から回避しようということで、江戸城は無血開城となりましたが、
新政府軍の東征が予定通り進んでいたかといえば、決してそうではなかっ
たんですね。

幕府の中心地だった武蔵国は幕府領や旗本領が多く、局地的な武力抵抗
やそれらに協力する民衆なども多かったのです。
これらのことは、今までもお伝えした通りです。

「この抵抗力はなんじゃろか?誰か裏で糸を引いてる者がおるのじゃろう
か、ばってんたい」(注※ ブログ内方言はファンタジーです)
対策に行き詰った新政府は、ついに苦肉の作戦を取ることにします。
それは、密偵 を農村に送り情報を収集することでした。
密偵は村々の実力者に接近し、聞き取りをして動静を探り、新政府の政治
的方針を徹底させる任務が与えられました。

その新政府軍・密偵が東大和市域にもやってきたのでした!

慶応4年9月6日、右肩に金織錦の印をつけた上着を着た男が2人蔵敷村に
現れました。彼らは名主の杢左衛門さんの家に来ると、そのうちの1人が
玄関先から声をかけました。
「拙者、兵藤雷太郎と申すが杢左衛門殿はおられるかな?」
「はぁ、用があって八王子宿まで行ってますだが・・・」
家の者が不在を告げると、
「では、お帰りになられたら、今日明日のうちに田無村の旅宿へご連絡いた
だけるようお伝えください」
と、手札を置き、雷太郎と名乗る男はもう一人と去っていきました。

杢左衛門さんが八王子から帰宅したのは、7日も夕刻になってからでした。
翌日8日の午後4時頃、小雨の中を「雷太郎の家来」と名乗る者が杢左衛門
さんを訪ねてきます。
「主人が所沢村の武蔵屋幸次郎方に旅宿しております。ご苦労ながら早速
来ていただきたい」
使いの者はそう丁寧に言ったので、杢左衛門さんは快くそれに応じます。

人足2人を連れて所沢村の武蔵屋幸次郎方に着くと、奥から男が出てきます。
「夜中に雨の中をご苦労でした。明朝ゆっくりと話しましょう」
そう挨拶したのが、兵藤雷太郎でした。
杢左衛門さんは人足たちを帰し、その晩は武蔵屋に泊まることにしました。
そして、翌日。

9日曇り。朝面会したところ、常州志筑藩兵兵藤雷太郎という者で、彼は
大総督府の密命を請けて種々探索をしたいことがあり、
行く先々で貴殿のことを調べたところ、7ケ所のうち6ヶ所
から引き合いがあったので、この人なら正絽実直と思い
ぜひ面会したかった。
そのために7日まで滞在したが、ようやくお会いでき
ましたと、とても喜んでいるように見えた。

さて、上段に雷太郎殿と御同役1人~2人の都合4人が列座し、次の間に家来2人
がいたようである。問われたことは、
第一 精勇隊の実情
第二 遠近の重立った村役人の日頃の取り扱いぶり
第三 人気の動静
第四 脱走人の金品や穀物の略奪の様子
第五 周辺の村の重立った村役人の正・不正、役立つ者か否か、気質の良し悪し
などを内々にお尋ねになったので、事実をありのままに申し述べた。
御同役はそれをいちいち書き取られた。

また、2人の質問者から、他に色々と聞いていることがあるがこれは本当のことか
嘘か、と言われたので、実は実、嘘は嘘と答えた。
また、何村の誰はこのように言っているが真偽のほどはどうなのか尋ねられたので、
潔白に弁解した。
その他いろいろと問われたが、委細をありのままに申し上げた。
すると雷太郎殿が申されるには、これまで霧が晴れず事情がわからなかったが、
貴殿の答弁で誠に明白にわかった。お陰で大総督宮へ返答ができる、と言った。

そして茶菓をくだされ、これからは懇意にしていただきたく、出府のときには芝愛宕
下町の私の家に訪ねてくるようにと申された。
この会談は早朝から昼過ぎまでかかり、ようやく終わった。午後に一同帰府された
ので、私も帰宅した。」


「里正日誌」には、この時の兵藤雷太郎と名乗る人物と杢左衛門さんの会談の
様子がこのように書かれています。
この兵藤雷太郎こそが、新政府が狭山丘陵に送り込んだ密偵でした。
彼は方々で調査した結果、蔵敷村の杢左衛門さんにターゲットを絞って、周辺の
村々の実情、思惑などを探りに来たようです。

雷太郎のいる志筑藩は、慶応4年7月にできたばかりの非常に新しい藩です。
場所は常陸国新治郡ですが、この場所を領地としていたのが本堂親久という
交代寄合でした。
交代寄合・・・なんだか聞きなれない言葉ですね。身分なの?仕事なの?
そのあたりのコトを俳優・遠藤憲一さんの声で解説してもらいましょう。

「交代寄合とは、知行高が1万石未満という旗本と同じ収入でありながら、大名
のように参勤交代を義務付けられた家である。大身の旗本と同様の役職を
勤めたが、知行地に陣屋を構え、江戸に屋敷を持って往き来するなど大名と
同じ扱いを受けた。外様大名の一族が多い。」


なるほど。
やはり、エンケンさんの声で言っていただくとわかりやすいですね。
でしょ!

本堂家は明治新政府に早くから恭順して、その功により1万110石に高直しされ
藩として成立しました。
「里正日誌」の解説によれば、この時期、戊申戦争の情報探索のために藩兵を
各地に派遣していたようです。雷太郎もその一人だったのでしょう。

雷太郎が杢左衛門さんに訪ねた各項目の中で注目したいのは、精勇隊について
最初に聞いていることです。
この部隊については、当ブログで何度も取り上げています。
精勇隊一件については6月19日に一同が江戸に送られ、審議が済んでいたと
思っていたのですが、9月になってもさらにこうして聞き取り調査が行われていたと
いうのは、何を意味しているのでしょうか。単なる確認でしょうか。
仁義隊や振武軍ではなく、精勇隊だけ。
興味のあるところです。
日誌には各項目について、具体的な話の内容が書かれていないのが残念ですが、
新政府がどのようなことを危惧していたのかが、わかります。

密偵と聞いて、鬼平犯科帳の「小房の粂八」や「大滝の五郎蔵」をイ村々はメージされた
方もいらっしゃったんじゃないかと思います。
小説は小説。実際は案外紳士的に接触してきましたね。

前回までお話したように、この時期村々は当分助郷に苦しんでいます。
新政府は実効的な支配を進める一方で、このように信頼できそうな村役人に目をつけて
いろいろと探りを入れていたんですね。
新政府の支配方法の一端が垣間見えるエピソードではないでしょうか。


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#662 韮山県だったからでしょうか
 隣の品川県では古賀一平が8月8日に知県事となり、8月27日には府中宿を巡検しています。9月2日には東京府制が制定されています。そのよう中で、わが村では密偵ですから、不思議で仕方がありません。野火止用水
#664 野火止用水さま
兵藤雷太郎が訪れた地域が田無、所沢、蔵敷ということで、やはり旧幕の
武力部隊の影響が大きかったのかな、と個人的には思っています。
真っ先に恭順した江川代官の支配地でありながら、旧幕勢力が立ち回った場所
として新政府も警戒していたのでしょうか。
杢左衛門さんは日誌に坦々と書いていますが、やはり会談はかなり緊張感が
あったのでしょうね。
#666 調査兵団?
「密偵」と言ってもスパイや忍びではなく、非公式調査団という印象を受けました。
「兵藤雷太郎」という名乗りは本名なのか、少々怪しく感じられます(笑)
それに、杢左衛門さんを信頼に足る名士とは思っていても、
「あなたのおかげで事実関係がよくわかった」はリップサービスで、
内心は「他の情報と照合してみなければ」と考えていそう。
また、杢左衛門さんを推薦した人達も「彼ならうまく対応してくれる」とばかりに
厄介事を押しつけた?などと勘ぐってしまいます(笑)

調査団が精勇隊について知りたがったのは、仰せのとおり
旗幟不鮮明なところがあったからでは、と思います。
慶応4年2~3月に上州一揆があり、新政府は一揆と旧幕勢力が結びつくのを恐れたので、
武州にも不穏な気配が残っていないか懸念したのかもしれませんね。

志筑というと、思い出されるのが伊東甲子太郎。
彼の出身地を志筑「藩」と表すのは正確ではないと、何かで読みました。
その理由がまさにご説明のとおりです。

天候不順の件、小島日記の8月18日に「当夏より長雨にて作物くさり」とありました。
#669 東屋梢風さま
そうですね。密偵というと、どうしてもスパイ的な人を想像してしまいますが、
仰るように兵藤は調査員といった感じですね。しかし、杢左衛門さんは密偵と
書いていますので、当時は非公式に活動している人のこともそう呼んだので
しょうか?
ワタクシもね、この兵藤雷太郎って名前、怪しいと思ってます(笑)

小島日記のご紹介、ありがとうございます。
地方史料は今まで日に当たらなかった歴史も気づかせてくれますが、このよう
にいくつかの資料を比較してみることが大事ですね。

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