蕨宿、当分助郷の難渋

幕府が敗れ、新政府が江戸に入り、時代が変わってきたのか・・・と言えば
それは少しづつ目に見えてきたことでしょう。
しかし、その変化が江戸近郊の村々にとって明るいものであったかというと、
それはちょっと違っていたようです。

関西方面から多数やってくる新政府軍のために、人馬を提供しなさいという
命令が出され、東大和市域の村々も当分助郷という臨時の助郷に
借り出されます。
その場所は府中宿、日野宿。
東大和市域の村々は元々、甲州道中の助郷を義務付けられていましたから、
まぁ、この場合は負担が少し増える程度だったかもしれません。
しかし、川崎宿、さらに元号が変わった明治元年10月には小田原宿への
助郷を命じられてしまします。この二つの宿場は東海道です。ここへの
人馬供出は相当の負担になったでしょう。

そんな中で、さらに命じられたのが中山道蕨宿への助郷でした。
慶応4年5月8日に、蔵敷村に最初の回状がやってきます。クリック)
この要請に対し村では

「当方の村々では甲州道中府中宿へ定助郷、同道中日野宿へ加助郷を勤めて
いて、さらに御官軍様方が御通行されるので引き続き両宿場へ人馬を出す
ことを勤めてございます。この下げ札(甲州道中の助郷を勤めているという
証拠)を以て、お断り申し上げます。
   慶応4年辰5月8日    蔵敷村組頭 半左衛門        」 


と、お願いを出したのですが、5月13日に板橋宿に逗留中だった道中取締方
から出頭命令が出されます。なんか、イヤな予感・・・。
14日に半左衛門さんは板橋に行きますと、翌15日に北陸道総督府付目付
の大嶋健司という人物が出てきました。

「この度、北陸道御総督府様が御下向されることとなり、ついては道中に大勢の
御役人が御通行になる。蕨宿より、これまでの助郷では人馬とも不足になるので
度々願い上げの印状があった。
かねてより蕨宿は全助郷が他の宿場より少ないので、板橋宿より上りの5宿場を
平等にする。そこで蕨宿へ5~6ヶ月の間、人馬を差し出すよう目付から言い渡さ
れた。
我々の村は甲州道中府中宿へ定助郷、同道中日野宿へ加助郷、さらにまた東海
道川崎宿の御賄い所へ御用金と兵糧米を差し出している。この上の蕨宿への
助郷は格別の思し召しを以て免除していただきたいとお願いした。
すると、甲州道中ではもはや新政府軍の通行は少しばかりとなったので、蕨宿へ
勤めるように仰せつけられた。
畏れ奉ることだが3宿も勤めることは甚だ難渋である。蕨宿の役人へも勤務の
量をなるべく勘弁してくれるよう、仰っていただきたいとお願いした。もちろんの事
であると宿場役人へ分担を減らすように申し聞かせると仰ってくれたので、すぐに
宿に帰り、蕨宿の役人詰所へ行き仮受け印をした。            」


助郷が重なってこれ以上はムリ!と言っても、総督府からは却下されてしまった
ようです。
さらに、5月21日には江川代官所から次の書状が届きます。

「官軍の兵糧、その他賄いを田無村で引き受けているが難渋しているので、この
ことについて相談したい。この書付を読み次第、早々に出頭するように。以上。
    田無村御用支 江川太郎左衛門手附 大井田源八郎
 辰5月21日
          蔵敷村  名主 杢左衛門             」


田無村に呼ばれた杢左衛門さんと、大井田さんの間で話された具体的な内容は
わかりません。しかし、この記事が「里正日誌」の蕨宿当分助郷に関する記述の中に
入っているということは、おそらくこの時に大井田さんから当分助郷に協力するよう
説得されたと見ていいでしょう。代官所もすっかり新政府側です。

当分助郷の負担はどれぐらいだったのでしょう。
日誌には
「高100石に付き 人足2人 馬1疋」
とあります。
東大和市域の村々の石高は
「清水村326石、後ヶ谷村203石、高木村174石、奈良橋村167石、蔵敷村81石
芋窪村378石」

となっておりまして、そこから割り出される人足は
「清水村8人、後ヶ谷村5人、高木村4人、奈良橋村4人、蔵敷村2人、芋窪村9人」 
と決められたようです。
ご覧になってお分かりかと思いますが、端数は全て繰り上げなんですね。
小さな村々でこの人数は、相当な負担だったことでしょう。

思い出していただきたいのは、この時期です。
慶応4年5月といえば、狭山丘陵一帯に仁義隊、精勇隊、振武軍などの武装部隊が
次々とやってきて「金をよこせ」だの「炊き出しをしろ」だのと迷惑を押し付けてきた
時と重なります。
さらにこの年は天気の悪い日が多く、武蔵村山市域中藤村の名主指田家の「指田
日記」によれば慶応4年5月はひと月のうち22日が雨と記されています。当然、作物
にも影響があったことでしょう。

元号が明治に変わろうとしていたその頃、多摩・狭山の村々は非常に厳しい状況に
置かれていたようです。


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#646 猛烈な人数
 蕨宿助郷は全容がつかめませんが、里正日誌を元に東村山市史が人足数と経費を一表にまとめられています。
 例えば607石の久米川村では900人、一番石数の小さな蔵敷村(81石)でも115人と、凄い数です。人足だけならまだしも、馬と食料持ちですから、これは一大事件だったと思われます。
 野火止用水
#647 野火止用水さま
粂川村では人足15人を出して5人は翌朝帰村し、10人はそのまま残って
交代が来るまで詰める。蔵敷村は人足2人のうち1人が翌朝帰村し、1人が
詰める・・・というようなローテーションだったようですね。
仰るようにコレは出稼ぎではなく、出費は全て村の負担ですから相当キツかった
だろうと思います。
さらに、行く先が蕨宿という遠い宿場。
村民たちは旧幕時代以上の政府の厳しさを知ったことでしょうね。
#656 混乱つづき
慶応4年5月は、新暦の6月20日から7月19日にあたるので
関東地方では梅雨だったと思われますが、
その前後も含めて天候不順はどの程度のものだったのでしょう。
手元の日記史料を見ると、雨や曇りがやや多そうに見受けられるものの、
前年や翌年の同時期と比較してみないと、はっきりとはわかりません。
気温が例年より低めだったのかもしれませんが、
具体的な数値の記録が残っていないと判断しようがないですね。

長尾村の記録では、5月9日、6月23日、7月18日と多摩川出水があるので
たびたび大雨が降ったのかもしれません。

また、この時期は打ち壊しが起きたり泥棒・強盗が横行したりと物騒だったのも
村々にとっては頭の痛い問題だったことでしょう。
5/27、田安家の取締役人が二子村で盗賊を斬った、とか。
代官や八州廻りが通常の機能をはたせず、新政府も手が回らず、
やむなく同家が治安維持に当たった側面もあると思われます。
#659 東屋梢風さま
ご指摘ありがとうございます。
確かに前後の年月のデータがなければ、正確な事は言えません。失礼しました。
ただ、東大和市史によれば、慶応4年の東大和市域は凶作だったようです。
また、砂川村の名主・村野源五右衛門は「雨続きで玉川上水が大水」により
取水口でも壊れたのか「羽村で普請のため」蕨助郷の会合を欠席すると、杢
左衛門に訴えてきています。これは7月9日のことですが、東屋さんの出された
多摩川出水と関連がありそうですね。
さらに、その4月には砂川村の「種屋老母」という人が上水に入水して亡くなって
いることが「指田日記」に書かれています。相当水嵩が増していたのでしょう。

治安の悪化も仰る通りです。東大和近辺でも、閏4月17日に芋久保村の村民が
青梅橋と小川の間で追いはぎにあう事件が発生。犯人はすぐに捕まりますが、
村民たちが自らの裁量で犯人の首を刎ねるという手段に出ています。
これも、代官や関八州が機能していなかったことの一例でしょう。

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