嘉永7年1月23日、代官の江川太郎左衛門さんは幕府に呼ばれます。
「おめでとう、江川くん。ペリーとの交渉にキミが当たったよ!」
当初、幕府はペリーの金沢沖への退去交渉を、江川さんにさせる予定でした。
ところが、前回でも書いたようにペリーさんはノリノリで待ち構えています。
「ワレワレは日本の近海に軍艦を50隻待たせてありマース。さらにー、
カリフォ-ルニアにも50隻の軍艦をスタンバイさせてマース。連絡すれば
20日以内には来ちゃうのココロヨー。 シェゲナ・ベイベー!」
もちろん、ハッタリなんですが、アメリカの軍事力は認めざるを得ない幕府は
開国交渉をしないわけにはいきません。
幕府は林大学頭(はやしだいがくのかみ)に交渉を命じます。
彼は昌平黌という幕府の学校の学頭、今でいうなら東大の学長でしょうか。
なぜ、一国の命運を賭けた大事な交渉に、政治家ではなく学者先生にその全てを
任せたのでしょうか?
万が一交渉が失敗に終わったとしても言い訳が立つから、という考えもあります。
しかし、林家は代々外交文書を扱ってきた家でした。出島から入ってきた海外
情報も把握しています。
一方のペリーはゴリゴリの軍人ですから、交渉は脅迫交渉の一手です。
そこに情報分析能力の長けた先生を持ってくるのは、幕府の作戦でもあったの
でしょう。
大学頭と幕府の間には江川太郎左衛門が入り、綿密な調整役を果たします。
さぁ、この林大学頭・江川VSペリー提督の交渉は、とても面白いのですが、
それはまた別の機会に譲りましょう・・・。
日米交渉の間にも、台場建設は続いていました。
江川さんの計画では、台場は1号~11号まで作る予定でした。
ところがこれ、皆さんも大概想像がつくと思いますが、かなりの建設費用がかかり
ます。幕府が計上した予算は1号~6号の台場建設だけで、なんと76万3871両
2分。これに大砲、砲弾、大船製造費用なども入れると、約91万6500両もの予算を
計上したといいます。
このころの幕府には、もう金蔵に余裕はありません。
幕府トップ(今でいえば首相)の老中・阿部正弘は、立案者の江川さんを呼んで言います。
「キミ、言い出しっぺなんだから、なんとかして。」
西洋通で開国に積極的だった江川さんと、開国慎重派だった阿部ちゃんは、あまり仲が
良くなかったみたいなんですね。
仕方なく江川さんは、自分の支配地に献金を呼びかけました。
「なぜ、ワシらが払う?」そういう思いも村民にあったでしょうが、献金は集まるんですね。
東大和の蔵敷組合6ヶ村も44両のお金を献金しました。
確かに全体から見れば微々たる金額ですが、満足な米も生産できなかった土地からこれ
だけの金額を出すのは大変だったと思います。
特に村民から反対の動きがなかった所を見ると、「江川代官の頼みなら仕方ない」という
気持ちがあったのでしょう。江川さんは領民に慕われた代官だったそうですから。
献金は江戸の町人、豪農商層にも命じられました。
すると、嘉永7年2月に、老中の阿部ちゃんから「献金ありがとう」のご褒美が出されま
した。
里正日誌には、所沢村の名主から以下の通達があったことが記されています。
「ご褒美の件だが、上納金高に比例してくだされるので、来る7日に出金人一同へ割
渡す。請取り証文の連印を役所へ出さねばならないので、お金を出した人全員にもれなく
通達し、当日の12時までに御出会いくださるように。」ご褒美は献金1両につき銀1匁8分5厘だったそうです。
こうまでしてガンバッテ作った台場ですが、嘉永7年3月3日に日米和親条約が締結
されたため、台場建設は中止となりました。江川さんとしては欧米の技術を取り入れ、
台場に強力な大砲を据えて海防を充実させたいという思いがあったでしょうから、
台場中止はとても残念だったと思います。
ところが、この伝達がうまくいかず、資材の伐り出しが続けて行われていたのは、前に
書いた通りです。
そして、ペリー来航や台場建設の騒動から、江戸では米の売り惜しみや値段の高騰が
起きる事態となりました。幕府は江戸近郊の村々へ、米価高騰抑制の命令を出した
ようです。まぁ、この頃からの幕府は外から内から次々と問題を抱え大変です。
里正日誌には嘉永7年2月12日に、幕府の命令に対し所沢村の名主が了承したという
請書が書かれています。
「異国船がやって来て、船中廻りの改め方や入港に関して特に問題はないのに、関東
近郊の者で考え違いをして、米相場で一儲けを狙い売り惜しみする者がいる。
そうすると江戸で米不足となってしまう。自分たちが食べる分を除き、米穀承認が
蓄えている米は勿論、百姓達の持つ余剰米をできるだけ多く江戸へ正しい値段で
販売するよう勘定奉行からの命令なので、村々はよく相談して行き届くようにせよ。
もしこの趣意に背くものがいたら早速訴えよ、とのご命令は承知しました。」
さかなクンも食べることは供養・・・みたいなコト言ってましたね。
惣次郎は総司を名乗る前の、沖田さんの名前です。
蔵敷地域
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