木更津史跡行脚に戻ります。
請西藩真武根陣屋を見たあと、向かったのは富津です。
慶応4年(1868)閏4月3日、真武根陣屋を出発した遊撃隊は房総往還を
富津に向けて進軍してゆきました。
このとき、陣屋の表門が開き、大砲1門が曳き出され富津の方角に向けて
轟音が鳴り響きました。藩内に残る家臣らから脱藩藩主・林忠崇への門出の
祝砲だったのでしょう。また、付近の村民はみな道端に土下座をして見送った
とも云われているようです。
遊撃隊が富津へ向かう途中で、旧幕府陸軍の撒兵隊の一部と上総佐貫藩の
兵の1小隊が加わってきたといいます。(「脱藩大名・林忠崇の戊辰戦争」)
やはり、房総半島には表向き新政府に恭順していても、それに不満をもつ
者たちが多かったと見えます。
即日、遊撃隊は富津に到着。富津陣屋に協力を求めます。
富津陣屋は、江戸湾防衛のために設けられた、いわば防衛基地のような
存在です。在所の富津村ごと武州忍藩、奥州会津藩などが領主となって
陣屋と江戸湾防衛を担当していましたが、慶応4年のときには上州前橋藩
松平大和守家に預けられていました。
時の藩主・松平直克は、文久3年(1863)に松平春嶽の後を承けて政事
総裁職を任命。また、先々代から品川台場の警備を幕府から命じられる
など、海防に従事した大名でした。
前橋松平家は、家祖が家康の次男・結城秀康ということもあってか、直克も
譜代の意識が強く、大政奉還後も徳川宗家に対する寛大な処置を朝廷へ
願い出ています。ついでに言うと、この歎願には本多敏三郎や伴門五郎など
後に彰義隊を結成する幕臣たちが動いたと「彰義隊戦史」には書かれてい
ます。
ただし、慶応4年3月には直克は新政府へ恭順しており、閏4月には東山道
鎮撫軍に従って上野へ出兵していました。
そんなときに富津陣屋に遊撃隊がやってきても、協力できるような状況では
なかったワケです。
ということで、そんな富津陣屋の現在の姿がコチラ。

もうほとんど、宅地化されていて、このわずかな部分に石碑や説明版が
残されている状態です。
写真の背後が海(東京湾)側という立地になります。
この場所から海岸まで直進距離で700~800mくらいでしょうか。

当時、富津陣屋には藩兵が500人ほど配備されていたようです。
遊撃隊は陣屋をぐるりと囲んで、人見勝太郎と伊庭八郎が中に入り、前橋藩家老
小河原左宮と交渉します。人見らの要求は兵と武器、食料の提供です。
小河原は藩主の命令が無ければ応じられない、と断ります。まぁ、当然といえば当然。
それに、藩はすでに新政府側についているワケですから。
しかし、人見や伊庭は要求が通らなければ戦闘に及ぶまで、と小川原を恫喝。
勝手に戦に応じるわけにもいかない小河原は退席すると、進退きわまったのか隣の
部屋で切腹してしまいました。
結局、富津陣屋は戦わずして遊撃隊に降り、大砲6門、小銃10挺、金500両と糧米
若干、さらに脱走という形で歩卒20名を遊撃隊に差し出しました。
このことにより、富津陣屋の統括官だった白井宣左衛門も自刃しています。
この「富津陣屋跡地」には、自ら責任をとって命を絶った小河原左宮と白井宣左衛門
の墓標が建てられています。

ところが、管理している人がいないのか、現場はこんな感じです。
季節的に夏草が覆い茂っているということもあるのでしょうが。
一応、右から「富津陣屋跡の碑」「白井宣左衛門墓碑」「小河原左宮墓碑」なの
ですが、小河原のものは草で見えません。
こんなことなら植木ばさみでも、持ってくれば良かった。・・・いや、勝手に切ったら
怒られるか。・・・う~~ん、来た時期も悪かったですかねぇ。
富津市教育委員会のみなさま。
時代の激流の中で非業の死を遂げられた方々の墓標です。何とか周りをきれい
にして、遺跡を後世に残していただけませんでしょうか。
とりあえずワタクシもまた、夏草の枯れた冬にでも再度訪ねてみることにいたしま
しょう。
「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


にほんブログ村
にほんブログ村
人気ブログランキングへ
スポンサーサイト