木更津史跡巡りの最終回。 最後は佐貫城跡です。 富津の海岸線、今の海水浴場のある辺りから内陸に入った所に佐貫城がありました。 佐貫は戦国時代は里見氏が領国とし、江戸時代に入ると内藤氏に領地が与えられ ましたが、その後何家かの譜代大名や幕領となる時代を経て、宝永7年(1710)から 阿部氏が1万6000石で領主となって幕末まで続いています。 幕末で阿部氏といえば、老中の阿部正弘が有名ですが、正弘は備後福山藩11万石 の藩主で、コチラが阿部家の宗家。 上総佐貫藩はその分家ということになります。 ちなみに阿部正弘は、老中時代の安政4年(1857)4月、玉川上水の羽村堰の視察 ということで多くの幕閣役人連中を連れて多摩を訪れています。 過去に当ブログでも書いたことがありましたが、内野杢左衛門も「里正日誌」の中で 接待に当ったことに触れております。 そんなことを考えると、分家とはいえ佐貫にもちょっと親近感を覚えます。 さて、戊辰戦争当時の佐貫藩ですが、藩主・阿部正恒は佐幕側に就いておりました。 遊撃隊が請西藩真武根陣屋を出発し、富津陣屋に向かう途中で、佐貫藩からの 援軍1小隊が加わります。旧幕府が手本としていたフランス式軍制では、1小隊の 人数は28名ないし40名なのだそうです。 え、援軍てそれだけ?と思われるかも知れませんが、Wikipediaを見ますと天保14年 (1843)の時点で佐貫藩の藩士総数は家老以下213名とあります。慶応4年の 時点でもそう変わりはないでしょうから、その中から戦力になりそうな者28~40名 を援兵に出すのは、むしろかなりの出血ではなかったでしょうか。 ということで、コチラがその佐貫城跡です。  わりと広い駐車場があり、建造物は残っていない(明治4年破却)ものの公園のような 形で残されているイメージです。 訪れたとき小雨がパラついておりましたが、ここが「佐貫城址入口」とあります。 かつての大手門になるのでしょうか。  夏草に覆われていますが、石垣はなかなか立派です。  大手門の石垣を通り。坂道を上っていくと目の前が開けます。 ここが三の丸です。 写真には写っていませんが表示板があるので、分かりやすいです。 ここからさらに奥へ入ってゆくと、二の丸、本丸へと続くようです。 事前にちょっと調べていたのですが、歩きやすいように整備されているとのこと。 しかし、やはり夏真っ盛りの時期だからでしょうか。草は伸び放題でした。  この先に二の丸があるのですが、この頃から雨が強くなってきまして。 本丸まで往復すると30分はかかるとのことで、断念して引き返すことにします。 まぁ、それとね。 事前に行った会津での熊への恐怖心がまだ残ってて、山の中を歩くのに少し ビビってるワタクシがおりました。 千葉には熊はいないとは思うんですけど・・・後で聞いたら、この近くには猿は 出没するらしいです。1対1になったら、猿でも怖いですけどね。  ということで、佐貫城跡巡りは途中で断念。 まぁ、東京から近いこともありますし、草が枯れる冬にでも富津陣屋とともにまた 訪れてみることにします。 最後に。 木更津東ICの近くで見つけたラーメン屋さん。  この店構え、けっこう入るのに勇気がいりましたが・・・  ラーメンは美味しかったです。 刻みタマネギが効いています。 竹岡式ラーメンというんだそうですね。そういうのに疎いので、初めて知りました。 「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」   にほんブログ村 にほんブログ村 人気ブログランキングへ
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真武根陣屋を出発した遊撃隊が富津陣屋を目指したとき、近くを通ったものの そのまま通過した陣屋があります。 それが飯野藩2万石保科家の飯野陣屋です。 飯野陣屋は「日本三大陣屋」の一つと云われており、その面積は城に匹敵すると のこと。ちなみに他の2つの陣屋は越前の敦賀陣屋と長州の徳山陣屋ですが、 どちらも現在はほとんど遺構すら残ってないそうです。 ところが、飯野陣屋は濠もほぼ当時のまま残り、全体像がはっきりと掴めるとの ことなので、前々から行ってみたいと思っていた陣屋です。 現在の住所は富津市下富津になるのですが、行ってみて思うのは富津って古墳が やたら多いってことでした。この辺りのマップを見ると、たくさんの古墳が目につき ます。実は飯野陣屋もその敷地の中に古墳があります。  現地で配布されている飯野陣屋見取り図です。 本丸、二の丸、三の丸が濠で囲まれたままの姿で残っています。 南北280m、東西350mという大きさで、江戸時代にはこの中に藩邸や氏族邸 があったと書いてありますね。 陣屋内に三条塚古墳、稲荷塚古墳の2つの古墳があり、その周溝を再利用して 構築されているのが、飯野陣屋の特徴だそうです。  陣屋跡ですが、現在は飯野神社という神社になっています。 見取り図の「現在地」から撮った写真が、コチラです。 鳥居の手前までが本丸、その先の拝殿は二の丸ということになります。  参道の入口ですが、当時はここが陣屋の大手門でした。 見取り図を見ると桝形になっていたようですね。 ここから鳥居まで続く道は、当時の本丸。現在はその両側に民家が立ち並んで います。本丸跡に住んでいるなんて、気分いいでしょうね~。 当時の桝形の辺りには土塁が残っているらしいのですが、夏草に覆われて確認 できませんでした。人さまの敷地でもありますし、あまり立ち入るのもね・・・。  大手門前の濠はそのまま残っています。これがスバラシイ! 昭和42年(1967)に千葉県指定史跡になっています。 住んでいらっしゃる方もご苦労でしょうが、このまま残して後世に伝えてください。 ここに藩庁を構えていた飯野藩ですが、8月に訪れた会津とは深い縁があります。 会津藩の藩祖は保科正之ですが、彼は2代将軍徳川秀忠の子供でした。 それが当時信州高遠藩の藩主だった保科正光の養子に迎えられます。 正光には男子がなく、腹違いの弟正貞を養子とし嫡子としていたのですが、これを 廃嫡し、正之を本家の嫡子とします。まぁ、将軍の子、次期将軍の弟ですからねぇ。 その後、保科家は高遠から会津へと領地替えとなり、会津松平家が成立しました。 一方、本家の跡取りを降ろされた格好の正貞が、分家として独立、上総に領地を得て 立藩したのが、飯野藩保科家なのです。 まぁ、会津の方は姓を保科から松平に変えてしまいましたから、こうなるとどっちが 保科の本家かわからなくなりますが、そういうことです。 しかし、正貞の母親というのがこれまたスゴくて、徳川家康の妹なんですね。 正貞と正之は徳川家の家系の上からは血縁にあったということです。 さて、時代は流れて幕末期。 飯野藩9代藩主保科正丕(まさもと)の娘照姫が、会津藩8代藩主松平容敬(かたたか) の養女になります。容敬の養子(甥)として9代藩主となったのが松平容保です。 ここで会津松平家と保科家は再び縁戚関係を結ぶワケですね。 大河ドラマ「八重の桜」では照姫(稲森いずみ)が義弟の容保(綾野剛)にほのかな 恋心を抱きますが、ホントにそんなことがあったのかは不明w 今回訪れてみて思いましたが、当時の陣屋の大きさも分かるし、堀も現存しているし、 会津藩ファンなら飯野陣屋も一度訪れてみていいのではないでしょうか。  陣屋の西側濠。  二の丸跡。 広大な空き地になっているのは、以前ここに村立中学校が建てられていたから だそうです。 「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」   にほんブログ村 にほんブログ村 人気ブログランキングへ
木更津史跡行脚に戻ります。 請西藩真武根陣屋を見たあと、向かったのは富津です。 慶応4年(1868)閏4月3日、真武根陣屋を出発した遊撃隊は房総往還を 富津に向けて進軍してゆきました。 このとき、陣屋の表門が開き、大砲1門が曳き出され富津の方角に向けて 轟音が鳴り響きました。藩内に残る家臣らから脱藩藩主・林忠崇への門出の 祝砲だったのでしょう。また、付近の村民はみな道端に土下座をして見送った とも云われているようです。 遊撃隊が富津へ向かう途中で、旧幕府陸軍の撒兵隊の一部と上総佐貫藩の 兵の1小隊が加わってきたといいます。(「脱藩大名・林忠崇の戊辰戦争」) やはり、房総半島には表向き新政府に恭順していても、それに不満をもつ 者たちが多かったと見えます。 即日、遊撃隊は富津に到着。富津陣屋に協力を求めます。 富津陣屋は、江戸湾防衛のために設けられた、いわば防衛基地のような 存在です。在所の富津村ごと武州忍藩、奥州会津藩などが領主となって 陣屋と江戸湾防衛を担当していましたが、慶応4年のときには上州前橋藩 松平大和守家に預けられていました。 時の藩主・松平直克は、文久3年(1863)に松平春嶽の後を承けて政事 総裁職を任命。また、先々代から品川台場の警備を幕府から命じられる など、海防に従事した大名でした。 前橋松平家は、家祖が家康の次男・結城秀康ということもあってか、直克も 譜代の意識が強く、大政奉還後も徳川宗家に対する寛大な処置を朝廷へ 願い出ています。ついでに言うと、この歎願には本多敏三郎や伴門五郎など 後に彰義隊を結成する幕臣たちが動いたと「彰義隊戦史」には書かれてい ます。 ただし、慶応4年3月には直克は新政府へ恭順しており、閏4月には東山道 鎮撫軍に従って上野へ出兵していました。 そんなときに富津陣屋に遊撃隊がやってきても、協力できるような状況では なかったワケです。 ということで、そんな富津陣屋の現在の姿がコチラ。  もうほとんど、宅地化されていて、このわずかな部分に石碑や説明版が 残されている状態です。 写真の背後が海(東京湾)側という立地になります。 この場所から海岸まで直進距離で700~800mくらいでしょうか。  当時、富津陣屋には藩兵が500人ほど配備されていたようです。 遊撃隊は陣屋をぐるりと囲んで、人見勝太郎と伊庭八郎が中に入り、前橋藩家老 小河原左宮と交渉します。人見らの要求は兵と武器、食料の提供です。 小河原は藩主の命令が無ければ応じられない、と断ります。まぁ、当然といえば当然。 それに、藩はすでに新政府側についているワケですから。 しかし、人見や伊庭は要求が通らなければ戦闘に及ぶまで、と小川原を恫喝。 勝手に戦に応じるわけにもいかない小河原は退席すると、進退きわまったのか隣の 部屋で切腹してしまいました。 結局、富津陣屋は戦わずして遊撃隊に降り、大砲6門、小銃10挺、金500両と糧米 若干、さらに脱走という形で歩卒20名を遊撃隊に差し出しました。 このことにより、富津陣屋の統括官だった白井宣左衛門も自刃しています。 この「富津陣屋跡地」には、自ら責任をとって命を絶った小河原左宮と白井宣左衛門 の墓標が建てられています。  ところが、管理している人がいないのか、現場はこんな感じです。 季節的に夏草が覆い茂っているということもあるのでしょうが。 一応、右から「富津陣屋跡の碑」「白井宣左衛門墓碑」「小河原左宮墓碑」なの ですが、小河原のものは草で見えません。 こんなことなら植木ばさみでも、持ってくれば良かった。・・・いや、勝手に切ったら 怒られるか。・・・う~~ん、来た時期も悪かったですかねぇ。 富津市教育委員会のみなさま。 時代の激流の中で非業の死を遂げられた方々の墓標です。何とか周りをきれい にして、遺跡を後世に残していただけませんでしょうか。 とりあえずワタクシもまた、夏草の枯れた冬にでも再度訪ねてみることにいたしま しょう。 「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」   にほんブログ村 にほんブログ村 人気ブログランキングへ
前回に引き続き、木更津方面の史跡行脚の記録を書こうと思ったのですが、 今回は別の話題で。 先日、日野市の大昌寺で佐藤彦五郎120回忌が行われました。 佐藤彦五郎は幕末期の日野宿の名主で、新選組土方歳三の従兄であり、義兄 でもあります。新選組を陰で支えた人物として知られています。維新後は 初代南多摩郡長を務めるなど、多摩の名士として活躍しました。 ご子孫の方が、「佐藤彦五郎新選組資料館」を運営していらっしゃいますが、 ワタクシも何度か資料館にお邪魔して、貴重な史料を拝見させていただいたり、 お話を聞かせていただいたことも。 その縁あって、今回の120回忌にもお声掛けいただき、当日の法要に出席 させていただきました。  まぁ、歴史上の方ですから、参列者も平服で。 本当は昨年が120回忌だったのですが、コロナ禍もあり今年に伸ばしたそうです。 ちなみに大昌寺は浄土宗。芝増上寺の末寺にあたります。 写真だと分からないと思いますが、本道の屋根に三つ葉葵の紋が入っています。 法要は厳かに行なわれ、ワタクシもご焼香をさせていただきました。  本堂で法要を済ませた後は、墓前にもお参り。 歳三さんのお姉さん(彦五郎の妻)のぶさんも、ここに眠っています。 この後、午後から日野市の市民会館にて講演会があるというので、そちらにも 出席してきました。  講演は彦五郎ご子孫で資料館の佐藤福子館長、歴史タレントの小栗さくらさん、 そして幕末ファンにはお馴染み伊東成郎先生の御三方。 佐藤館長は「土方歳三取り違い写真について」のお話。 幕末当時、土佐藩に土方久元という藩士がいて、この人は新政府でも要職を 務めた人なんですが、歳三さんの写真に久元さんの名前をつけてしまった写真が 明治時代にお土産として売られていたらしくて、その実物を発見したというお話。 小栗さんは自著について話されてました。 で、メインイベントが伊東成郎先生。 この方のお話は何回か拝聴したことがあるんですが、ホントに面白い。 まぁ、新選組にまつわるマニアックな話が中心なんですが、それぞれのエピソード についてのご自身の解釈がわかりやすいし、けっこうオチをつけたりもするので、 話が飽きないんですよね。 ワタクシも人前で話すことが多いので、参考にさせていただいてますが、なかなか 先生の域には行けないですね。 今回もかなりの分量の、新選組に関するエピソードをご用意されていたのですが、 ワタクシが最も引かれたのは、新選組と歌舞伎についてのエピソードでした。 先月、歌舞伎座で手塚治虫原作漫画の歌舞伎「新選組」が上演されたことは このブログでもご紹介させていただきました。  新選組の歌舞伎舞台化は、今回以前にもあったのか? 気になる所ですが、それについては、ワタクシにこのような記憶があります。 それは平成19年(2007)4月に、中村信二郎丈が2代目として叔父の名跡 中村錦之助を襲名する襲名披露公演が行われたときのこと。 (初代錦之助は映画界に転出し、その後萬屋錦之介と名前を改める。) 当時の歌舞伎座は建て替える前であり、2階のロビーがギャラリーになっていて、 毎月そのときの公演所縁の衣装、小道具、写真などが展示されていました。 この時は「亡き初代錦之助を偲ぶ」と題して、歌舞伎役者だった頃のヨロキンさん (萬屋錦之介)の歌舞伎座舞台写真が飾られていたのです。 アッと思ったのは、その中に新選組隊士を演じるヨロキンさんの舞台写真があった こと。写真はモノクロだったと思うのですが、ヨロキンさんの他、数人の役者 さんたちが隊士に扮し、話し合いをしているシーンのようでした。 「歌舞伎で新選組をやったことがあるんだ」 と初めて知り、帰宅してから、どんな舞台だったんだろうと調べてみましたが、コレ が一向にわからない。 どんな歌舞伎関連の本を当たっても、出てこない。タイトルもわからない。 やがて、ネットでそれらしい情報に行きつきました。 それは「明治零年」という演目で、昭和28年(1953)11月に歌舞伎座夜の部で 上演。歌舞伎公演データベースによれば、主役は川村隼人で17代中村勘三郎 (現勘九郎・七之助の祖父)、近藤勇が8代目松本幸四郎(初代白鸚。現幸四郎の 祖父)、永倉新八が3代目市川段四郎(現猿之助・中車の祖父)と、確かに新選組 中心の芝居のようです。 ストーリーは不明ですが、「大坂城書院」「武州日野宿」「甲州柏尾山の戦」「笹子 の落陽」という場面があることから、鳥羽・伏見の戦いから甲陽鎮撫隊あたりまで と推察できます。 原作は高橋丈雄という小説家。「明治零年」はこの年の文部大臣賞受賞作との こと。この先生、よほどの新選組ファンだったのでしょうか?主演(であろう)が監察 の近藤隼雄の別名・川村隼人ですからねぇ。 それはともかく。 その中でヨロキンさんは、なんと島田魁を演じた、となっているのです。 「しまだかい~~~??」 と、ちょっとキャスティングに違和感を感じました。 当時ヨロキンさんは女形を中心とした役者でした。この芝居でも立役とはいえ白塗りで 出ていたハズ。一方、島田魁といえば新選組イチの巨漢として知られた人物。 どうにもミスキャストとしか思えません。  歌舞伎から映画に転出したばかりの頃の萬屋錦之介。 こんな島田魁、とても新八っつぁんを塀の上に引き上げられそうにないのですが・・・。 さて、この歌舞伎の一件で成郎先生。歌舞伎座や松竹以外のルートから、この公演 の情報を持ってきてくれたのです。 それは、この昭和28年の公演を、佐藤彦五郎の孫の佐藤仁氏が観劇に歌舞伎座を 訪れ、楽屋で新選組隊士を演じた役者さんたちと談笑したというエピソードでした。 佐藤仁氏がこのときの様子を手記にまとめていらっしゃるようで、今回の講演で成郎氏 が紹介してくれました。 注目したのは、ヨロキンさんこと中村錦之助さんが演じていたのは島田魁ではなく、 中島登と、仁氏は書かれているようなのです。 これは驚きました。松竹の公式発表と観劇した人の記録が違っているのですから! しかし、島田魁ではなく中島登であれば、女形だったヨロキンさんの配役としては返って 納得がいきます。昭和28年当時、二人の人相、体格がどの程度流布していたかわか りませんが、中島は「戦友姿絵」を残すなど、芸術家っぽい一面があり、女形の若い 役者が演じるようなイメージはあります。  島田魁  中島登 講演後、不躾ながらも成郎先生に、ヨロキンさんが演じたのはどちらが本当なのか を聞いてみました。先生はハッキリと「中島です」と仰いました。 佐藤仁氏の手記にそう明記されていることに、間違いはないようです。 一方で歌舞伎データベースは「島田魁=中村錦之助(初代)」と、これまたハッキリ 明記されてるし・・・。ん~~、どっちなんだ? これはもう、当時の台本でも見るしかなさそうですねぇ。 松竹大谷図書館でも行ってみれば、わかるかな?  この頃のヨロキンさんだと、島田魁もまぁアリかな・・・と。 それにしても顔色悪そう。当時の時代劇メイクは、みんな病人みたいですねw 「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」   にほんブログ村 にほんブログ村 人気ブログランキングへ
8月の後半、千葉県は富津に出かけまして、ついでなのでいくつか史跡に寄って まいりました。 東京から車で東京湾アクアラインを通り木更津へ。 昨年、大河ドラマ「青天を衝け」に関連付けて、渋沢成一郎を中心とした幕末、戊辰 戦争の話を講座等で取り上げることが多かったのですが、その中で旧幕府側の 軍隊として遊撃隊も取り上げました。 遊撃隊は幕臣の人見勝太郎と伊庭八郎が中心となって、講武所出身の隊士らに よって組織された部隊ですが、木更津にも所縁の史跡があるため、一度訪れてみた かったのです。 遊撃隊についてざっとお話しますと、幕府の武術学校である講武所の中から特に 優秀な者が「奥詰」として抜擢され、将軍の身辺警護に当たりました。この中に 心形刀流宗家の伊庭八郎も含まれていました。 遊撃隊は京都に派遣され(人見勝太郎は京都で合流)、慶応4年正月の鳥羽・伏見 の戦いにも参戦しますが敗れて江戸に帰還します。 将軍慶喜は勝海舟や大久保一翁らの建議を容れ、恭順の上謹慎に入りますが、 人見や伊庭らは恭順に納得せず、遊撃隊の中から賛同者を連れて脱走します。 脱走した人見ら遊撃隊が向かったのが房総でした。千葉県は譜代大名や旗本の 領地が多く佐幕の土地柄だったからです。この地で先ず協力者を求めたかったの です。 彼らが向かった先が請西藩真武根陣屋でした。 請西藩は木更津のやや内陸にあった石高1万石の小さな藩です。しかし、歴代藩主 は若年寄や伏見奉行を務めるなど幕閣に重用された譜代大名です。 慶応4年当時、藩主の林忠崇は若干20歳の若者でした。 新政府はすでに全国の大名に対し、新政府に恭順するよう命令を発しており、房総 の諸藩もそれに従っていたのですが、請西藩だけは違っていました。 忠崇は新政府への恭順を良しとはせず、態度を保留していたのです。 そこに遊撃隊がやって来ました。忠崇と人見、伊庭らは共鳴し合い、ともに戦うことを 誓い合います。 しかし、藩として新政府軍に抵抗すれば、多くの藩士やその家族、領民に多大な苦難 を強いることにもなる。そこで忠崇は自ら脱藩することで、あくまでも個人の戦いで あることを強調。遊撃隊に加わったのです。 ここに全国でも珍しい脱藩大名が誕生しました。 実際には忠崇に賛同する藩士も多く、59人の家臣たちを連れた林忠崇が慶応4年 閏4月3日、真武根陣屋を遊撃隊と共に出発してゆきました。 その請西藩真武根陣屋の跡がコチラです。  住宅地から外れた空き地の中にポツンと、石碑と説明版だけが残されています。 元々間舟台という地名に武家好みの文字を当て「真武根陣屋」と称したようです。 総面積24000坪以上あった(「脱藩大名・林忠崇の戊辰戦争」中村彰彦)といいます から、小藩としてはかなり立派な陣屋だったと推測します。 この場所から脱藩大名・林忠崇は出陣していったのですね。 当時、多くの藩士、領民が涙を流しながら見送ったといいます。  石碑の背後。もう、まったく何もない。 東京ドーム何個ぶんだろう?広大な草原が広がっています。 何かの建設予定地なのかなぁ・・・何もそれらしき案内板もありませんでしたけど。 ちなみに向かいには霊園がありました。  忠崇がこんなにも佐幕を貫こうとしたことの一つには、こんな理由もあります。 林家と徳川家の繋がりは古く、家康からさかのぼること8代、松平家の初代親氏の頃。 親氏が放浪の途中、林家の先祖林光政の家に立ち寄ります。光政も貧しい中、なんとか 旅人をもてなそうと自ら弓矢でウサギを仕留め、吸い物にして饗応しました。 やがて親氏が三河で頭角をあらわすようになると、あのウサギの吸い物が吉兆で あったと光政を侍大将に迎え入れます。 松平が徳川となり幕府を開いた後も、将軍家では正月は林家から献上されたウサギで 吸い物を作り、祝いの席に出すことが年中行事となりました。 室町時代から続く徳川家と林家の、特別な縁が忠崇の心を動かしたのかとも思えます。 「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」   にほんブログ村 にほんブログ村 人気ブログランキングへ
長くなりましたが、会津旅行編の最終回です。 最後に訪れたのは母成峠。車で来た最大の理由がこの場所を見てみたかった からに外なりません。 猪苗代は城跡や土津神社ももうちょっと見たかったし、土津神社の近くにある 西円寺というお寺にも戊辰戦争戦死者のお墓があるというのでお参りしたかった のですが、午後3時までには母成峠に着きたかったので後ろ髪引かれる思いで 猪苗代を後にします。ここだけ見に今度来よう。 国道115号線を福島方面に向けて走り、沼尻(でいいのかな?)から母成グリーン ラインに入ります。 しばらくすると左側にわりと広い駐車スペースが見えてきますが、その手前に山中 へ入ってゆく小道があるので、まずそこへ進入していきます。 「ふぃーるどわーく」によれば、この小道の先に「東軍戦死者埋葬地」があるとの ことなので、先にそちらにお参りに。対向車が来たら絶対に避けられないような 細道を100mほど進むと少し広い駐車スペース。 そこで車を降り、山中を20mほど進むと、土饅頭と石碑が建つ場所に出ました。  左手に見える土饅頭が、戦死者を埋葬した墓らしいのですが、その後草に覆われ 長く所在不明となっていました。昭和53年(1978)に発見され、同57年(19 82)に周辺を整備して、新たに慰霊碑が建立されました。写真の右側にある のが、その慰霊碑です。裏側には会津藩士38名、二本松藩士8名、唐津藩士 6名、新選組6名の名前が刻まれています。 その他、同じ敷地内に西郷頼母の歌碑も建てられています。 周辺を整備して・・・と書きましたが、真夏のせいもあるんでしょうが、かなり山の 中という感じで、あまり長居はしたくはない感じです。 再びグリーンラインに出て、すぐ駐車場に車を止めれば、そこに「戊辰戦役古戦場 の碑」が建てられています。  あぁ、やっと来られた・・・という感慨で、しばしその場に佇みました。 で、暑さで正気に戻る。 以前は売店やトイレなども建てられていたらしいのですが、現在は撤去されていま す。(土台跡のみ残る)ワタクシの他、誰もいない。 母成峠は猪苗代と郡山の境界にあたり、峠を通る道は二本松領から会津領に入る 街道だったようです。「ふぃーるどわーく」によれば大正の頃まで茶店があったとか で、ところどころアカマツの灌木が生えた草原だったとのこと。 ところが今は、立派な森林となっています。 コレ、明治以降の植林の結果なんだそうです。  本来の峠道はグリーンラインが開通して、所々分断されているのですが、駐車場の 奥から山の中に遊歩道が伸びており、その先に戊辰戦争当時の塹壕跡が見られ るらしいんです。 これはぜひ見なくては!と、遊歩道を入っていきます。  いや、あのね。 遊歩道なんてもんじゃないの。もう、けもの道。 いや、道なんて無いな。 先ほども書いたように、真夏ってのもあって草も伸び放題。 全然周囲がわからない。 で、気になるのがクマですよ。 どこかから見てるんじゃないかと、そればかり気になっちゃう。 クマの「オレ、見てるよ」オーラをビンビン感じるんですよ。 で、遊歩道の入口から20mくらい入った所で挫折。引き返してきました。 ワタクシ、東京でも多摩育ちですから、子供の頃から狭山丘陵の山の中が 遊び場で、森林の中を怖いと思ったことは一度も無かったんですけど、まぁ 狭山丘陵なら出てもタヌキくらいなモンですが、クマはねぇ・・・初めて森の中 が怖いと思いました。 実はワタクシが東京に戻った2日くらいあとかな、仙台に住む友人からLINE がはいりまして、「近藤勇の墓のすぐ側にクマが出て、散歩中の人が襲われた」 とニュースが報じられたらしいんです。 もう、冷や汗ですよ。 ほぼ同じ場所にワタクシもいたわけで・・・局長や萱野さんの墓参のとき、きっと クマに見られてたに違いない!ましてや、母成峠ではロックオンされてたかも しれん・・・! 塹壕跡見られないのは残念だったけど、引き返して正解だったかも。 まぁ、当時はこのような風景ではなかったにせよ、この場所でかつて戦闘があり、 多くの人が戦死したという事実は、胸に重く感じます。 この場所から山中を会津若松まで戦いながら撤退した東軍を思うと、ワタクシ なんぞにはほぼ絶望感しかありません。この場所から猪苗代までだって、かなり の距離がありますもんねぇ・・・。 しかし、国道115号から母成グリーンラインを通り、郡山まで出る道はとても いい道で、ドライブを楽しむには最適なルートです。 ワタクシは磐梯熱海ICから高速に乗って、そのまま東京まで帰りましたが、また 猪苗代まで車で来るときはこのルートを通ってみたいと思います。  母成グリーンラインを郡山方面から見る。郡山市熱海町石筵付近。 後方の山が母成峠。 クマが出ない時期ってやっぱり冬かなぁ。 「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」   にほんブログ村 にほんブログ村 人気ブログランキングへ
猪苗代湖まで来て、ちょっと休憩。 道の駅などもあるので、お土産など買い物。 少し戻るような形で、猪苗代城址に向かいました。 戦国時代は芦名氏系である猪苗代氏の居城。近くには伊達軍と芦名軍が戦った 摺上原の戦いの古戦場跡もあるようで、そちらも行ってみたかったのですが、 時間がないので断念しました。 江戸時代には猪苗代城は若松鶴ヶ城の支城として存在し、鶴に対しての亀ヶ城 とも呼ばれました。 慶応4年(1868)8月21日に、猪苗代と郡山の間にある母成峠が突破されると、 そこを守備していた山口次郎(斎藤一)ら新選組や、伝習隊、会津藩兵らは猪苗代 に退却してきました。猪苗代は平地ですし抗戦するには兵数も足らず、勝負になら ないと判断したのでしょうか。東軍同盟軍は会津若松方面に撤退。猪苗代城は 火を掛けられ焼失しました。 母成峠を破ってからの新政府軍の進撃スピードは、エラく早かったそうですからね。 現在の猪苗代城は公園になっており、桜の名所でもあるそうです。 城址の西側は石垣なども残っており、往時を偲ばせます。  城跡の雰囲気を感じたいなら、この西側から城内に入るのがいいのですが、けっこう 足元は悪いので注意が必要です。 城の北に土津(はにつ)神社があります。  会津守護神で、会津藩初代藩主・保科正之公をお祀りしています。 拝殿の奥をずっと上ったところに正之公のお墓があるのですが、そこまで歩いて いくと時間がかかると思い、断念しました。しかし、後で車で近くまで行くことが 出来ることを知りましてメチャ後悔・・・う~~、またいずれ行く! ちなみに、なぜ初代藩主だけ松平ではなく保科かというと、正之は2代将軍秀忠の 子として生まれたのですが、正妻のお江ではなく他の女性に産ませた子でした。 これが嫉妬深いお江に知られたら殺されかねないと恐れた秀忠は、正之を家臣の 保科正光に預けました。正光は正之を養子として迎え、それまで弟の正貞を嫡子と していたのを廃嫡して、正之を嫡子としたのです。 後に正之は3代将軍家光から、松平を名乗ることを許されるのですが、正之は恩の ある養父を思い自らは生涯保科で通し、3代藩主から松平を名乗ることになります。 家光は同母弟の忠長は大ッ嫌いで、メチャいじめて、最後は殺しちゃうような形に なったワケですけど、異母弟の正之のことはとても可愛がり、また頼りにしました。 決して出しゃばらず、生涯将軍の弟ではなく家臣として仕えた正之の姿勢が、家光の ハートをガッチリ掴んだのでしょうね。 家光は4代将軍家綱の後見を正之に頼み、他界します。 明暦3年(1657)あの有名な明暦の大火が起こり、江戸城の天守も焼失してしまい ました。幕府は新しい天守を建てるために天守台を作りましたが、ココで正之が 「戦時ならともかく、今の城に天守など不要。そんな金があるなら江戸復興のために 使いなさい」と一蹴。江戸は見事復興を遂げたのです。 もう10年くらい前ですかね。 保科正之を大河ドラマの主人公に、という活動が会津とか高遠などで起こっている という話を聞いたのですが、アレってどうなったんでしょう。ワタクシは賛成ですよ。 「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」   にほんブログ村 にほんブログ村 人気ブログランキングへ
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