今回の会津旅行は「新選組展2022」がメインの目的だったワケですが、 自家用車で行った最大の理由は「ついでだから母成峠も見ておきたい」と いう願望があったからです。 行きは高速道で会津若松まで来ちゃいましたが、帰路は東軍が母成峠から 滝沢本陣まで撤退してきたルートを逆に辿っていこうと、思ったのであります。 ところで、ココから先の行程は歳月堂さん発行の「ふぃーるどわーく 会津 東編」を大いに参考にさせていただきました。 この場を借りて御礼を申し上げます。 滝沢本陣は前回の記事で触れました。その前の道をそのまま東に進めば すぐ上り坂になり、峠道へと入っていきます。滝沢峠から戸ノ口原、猪苗代 へ続く道は二本松から会津若松へ至る裏街道だったようです。 旧道はそのまま西に延びて滝沢峠を越えて金堀へ伸びていくようですが、 車ではいけないので北東方面に延びる車道の峠道を上り下りしながら、金堀 へ到達。そこから強清水へ向かいます。 「ふぃーるどわーく」によれば、このルート沿いにいくつかの戊辰戦争戦死者の 墓が点在するとあります。ただ、車が入っていけそうもなく、近くに止めてちょっと 歩いて探してみたりしたのですが、夏で草も伸び放題になってるので断念して 先に進みました。 強清水から滝沢バイパスに合流して西に進めば、戸ノ口原古戦場跡です。  古戦場跡の戦死者墓群。 戸ノ口原で新政府軍と戦い、戦死した会津藩戦死者たちの墓。 この辺り一帯は開けた草原で、現在でも民家などがあまり無いので、もしかする と戊辰戦争の頃も同じような景色だったかもしれません。 戸ノ口原は会津勢が400名ほどで布陣し、十六橋を渡って進んでくる新政府軍を 待ち構えていました。この中には白虎隊二番士中隊37名も含まれています。 新選組や大鳥圭介の伝習隊はこれより先の母成峠で新政府軍と戦ったものの、 突破され多くの兵を失い、猪苗代に撤退。さらに会津藩が猪苗代城を放棄した ため、鶴ヶ城城下へ退いていました。 さて、戸ノ口原の守備隊ですが400名いた兵も、その中身は農民や神職・僧侶 などで構成された隊もあり、武器も火縄銃や刀槍が中心だったといいます。 慶応4年(1868)8月23日、夜明けとともに戦闘開始。 会津側は兵力・火力ともに勝る新政府軍に太刀打ちできず、沓掛峠、滝沢峠へと 戦いながら後退していったのです。 戸ノ口原古戦場跡を出て東に進めば、見えてくるのが猪苗代湖です。 猪苗代湖に注ぎ込む日橋川下流部に掛かる橋が十六橋です。 滝沢バイパスから北に入る細道を入ると、橋の手前まで車で行けますが、かなり 道が細いので注意です。  十六橋。向かって左側が日橋川。右側が猪苗代湖。 写真の向こう側から新政府軍が橋を渡ってきました。 母成峠を突破した新政府軍は猪苗代に進撃。会津が城を放棄したため、難なく 8月22日の昼には猪苗代城下を制圧してしまいます。 鶴ヶ城では猪苗代から若松へ敵を入れさせないため、最短ルートである十六橋を 落とすことに決めます。十六橋が渡れなくなれば、日橋川を上流まで上るか、湖を 大きく迂回するか、船で渡るか、いずれにしても時間稼ぎができます。 会津藩は佐川官兵衛らが兵を集めて戸ノ口原へ出陣。十六橋を破壊しようとしますが、 すでに新政府軍は橋の対岸まで来ており銃撃を開始。会津藩兵らは橋を落とすこと ができず、戸ノ口原へ撤退したのです。 十六橋は幕末ファンにとっては以上のようなエピソードが先立ちますが、別の見方を すると猪苗代湖の水位を調整するための水門橋でもあり、こちらの見方の方が主流 のようです。水利が悪く不毛の地だった郡山の安積地域に猪苗代湖の水を引く事業 が安積疎水で、十六橋もその一環として明治以降作り変えられたからです。 現在の十六橋前には、当時工事の指揮を執ったオランダ人技師ファン・ドールンと いう人の銅像が置かれていたりして、会津戦争に関する説明版の類はありません。 さて、このまま橋を渡って猪苗代方面に行きたかったのですが、車止めがありバイク や自転車でないと渡れそうにありません。車ならスーパーセブンあたりじゃないと 無理だと思う・・・。 滝沢バイパスに戻って猪苗代を目指します。 「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」   にほんブログ村 にほんブログ村 人気ブログランキングへ
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新選組展2022や飯盛山の余韻に浸りながら、宿は東山温泉にとりました。 あ、ところで昨日あたりTwitterで回ってきたのですが、飯盛山で夜中に地元の 中高生と思しき男性らが3~4人で花火を打ち上げて遊んでいるらしい。 監視カメラの映像は山下の茶店の前でしたが、投稿では上に登って打ち上げ てもいるらしい。もし、さざえ堂にでも燃え移ったら大変なことになるので、ぜひ 止めていただきたい。いや、もちろん茶店やお土産屋にも引火したら、キミらじゃ 責任取れないでしょ。アホなことはやめなさい。こんなブログ読んでないだろうけど。 話を戻して。 会津はソースカツ丼が有名だと聞いたんですよ。 アレって山梨が元祖かと思ったんですが、違うのかな? 宿は素泊まりで取ったので、夕食は東山温泉内の食堂で、そのソースカツ丼を 食べてみました。  半ラーメンとのセット。カツはそんなに厚いわけじゃないが、衣にソースがよく 馴染んでいて美味かったです。 このお店は「卯の家」。東山温泉の中ほどにありますが、店の前まで車で行くと ドツボにハマるので、1本下の道の足湯前の駐車場に停めましょう。向かいに巨大な 土方歳三の壁画が見えるのが目印です。なんのこっちゃわからん人は、現地に行けば わかる。 翌日。今回の旅の2番目の目的地である天寧寺へ。近藤勇局長のお墓参りです。 天寧寺は東山温泉のすぐそば。武家屋敷の北側の小道を入っていきますが、温泉側 から車で走っていくと見逃がしやすいので注意です。  萬松山天寧寺。駐車場は10台くらい置けそうです。  駐車場前で案内板を確認。 以前、江戸検一級の仲間から「けっこう山道歩くよ」と言われていました。それに昨日雨だった ので真夏ではありますが、L.L.ビーンのハンティングシューズを履いてきました。  靴ヒモの結びが左右違うね。まぁ、いいや。オシャレってことで。 朝から快晴ではありましたが、昨夜も雨がまた降ったようで墓域までの道は舗装も されておらず、所々ぬかるんでいる場所もあったので、この装備は正解でした。 雨の影響がなければスニーカーで十分です。  上り坂が続きますが、ほぼ一本道ですし案内板が所々にあるので迷うことは無い でしょう。ただ、先客の方とすれ違ったとき、その人がクマよけの鈴を鳴らしながら 下りてきたので、ちょっと「マジかよ?」と思いました。出るんかい? 辺りを気にしながら5~6分ほどで到着です。  右が近藤勇墓。左が最近になって新しく建てられた土方歳三墓です。 「貫天院殿純忠誠義大居士」(近藤) 「歳進院殿誠山義豊大居士」(土方) と墓石に刻まれます。 お二人の戒名は日野の高幡不動尊でも位牌として並んで見ることができますが、 墓石として見られるのはココだけでしょう。 近藤さんのお墓の下には何も無い、とか遺髪が納められているとか様々な説が あります。一番スゴイのが京都で晒されていた首を奪い取ってきて納めたという ものですが、ワタクシはけっこう可能性が高いと思ってます。 ご存じの方も多いと思いますが、若松市長だった松江豊寿所持の日本刀「阿洲 吉川六郎源祐芳」の覚え書き「下僕首を盗み生前の愛刀になりし此の刀を持ちて 会津に走り密かに葬る」。霊山資料館がこの刀を近藤勇が所持していたと認めて いますし、下僕も会津小鉄こと上坂仙吉とわかっていますので、まんざら嘘でも ないだろう、と。 墓が作られた当時、身分の高そうな侍がここで指示を出していた、それrが土方 さんだったといいますね。どの辺りで指示を出していたんだろうと周りを歩きました。  最近、多摩から運ばれて植樹された「血梅」。 少し大きくなった頃に、また来ます。 天寧寺には会津藩家老だった萱野権兵衛のお墓もあるので、そちらにも行って みます。駐車場近くまで下りてきて別の小径を上って行くのですが、これが近藤さん のお墓より距離は近いのですが足場は悪い。樹々の根っこがあちこちに張り出して いるし、枝も張り出ているので歩きづらいです。 ここまでお参りする人も少ないのか鬱蒼としていて、さっきのクマよけ鈴を持っていた 人を思い出し、ビビリながら到着。  萱野権兵衛長修墓(正面)と次男長正墓(左)。 萱野権兵衛は会津戦争の責任を一人で負って、江戸で切腹しました。墓石らしいものが 見当たらなかったのですが、この菩薩像がその代わりなのでしょうか。 長正は会津復興のための留学生に選ばれ、福岡の小笠原藩に派遣されました。少年 ながら文武に秀でた秀才でしたが、ある日突然自刃。原因は不明だそうです。 長修が切腹したため、長男以外は茅野ではなく郡の姓を名乗ったそうで、郡は茅野家 の初代長則の母親の姓だそうです。正面の石碑に茅野家のことが書かれていますが、 茅野家は元々、加藤嘉明の家臣として会津に移り住み、加藤家が転封となった後も そのまま保科正之に召し抱えられて会津に住んだとのことです。 「八重の桜」で萱野権兵衛は柳沢慎吾さんが演じてましたね。切腹シーンは辛かった なぁ。 さて、会津若松市内では他にこんな所を散策。  吉田松陰や土方歳三も泊まった旅館「清水屋」跡。現・大東銀行会津若松支店。 建物前に案内板があります。 道路の向いには会津塗のお店「白木屋」。店の奥が会津塗の資料館になって いて見学もOKです。「八重の桜」で綾瀬はるかさんが身に着けた帯留めなども 展示されていました。  中野竹子殉節の地、中野竹子像。 七日町駅前の通りをまっすぐ北上した、周りが工場か何かの建物で囲まれた 公園らしき広場の一角にあります。 車1~2台くらいなら駐車可。 地図で見ると、位置的には斎藤一が戦った如来堂の東ですね。 そんな感じで会津を後に、帰路猪苗代方面に向かいます。 「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」   にほんブログ村 にほんブログ村 人気ブログランキングへ
天気がすっかり回復したので、白虎隊で有名な飯盛山へ行ってみることに しました。  標高は314mだそうです。  正面の急な階段を登っていくと、白虎隊隊士のお墓があるんですが、階段は ツラいわぁという人のために有料でエスカレーターも装備されてます(右)。 ワタクシが行ったときは使っている人はいませんでしたけど、雨の時とか お年寄りの団体さんなどにはいいかも知れないですね。 階段の手前に青い看板(案内板)がありますが、そこから階段を登らず左に行くと もっとなだらかな傾斜で登ることができます。そのルートの先にあるのが、ワタクシ も一度見てみたかった「さざえ堂」です。  ゲゲゲの鬼太郎に出てくる妖怪城のモデルなんじゃないか?というようなこの外観。 ちょっとおどろおどろしさがあって、ワクワクしますね。 正式名称は「円通三匝堂(えんつうさんそうどう)」という、寛政8年(1796)に建立 された観音堂です。このお堂の内部が変わっていて、螺旋状の通路を上まで上って いくと、下りは上りとは別の螺旋通路を通ってくることになり、行きと帰りの参拝者が すれ違うことのないような構造になっています。 世界的にも珍しい建築様式らしくて、平成8年(1996)に国重要文化財に指定され ているとのこと。   かつては内部に三十三観音像が安置され、このお堂を一周まわることで三十三 観音巡りをすることができたそうです。 この建築様式からさざえ堂という名称と、唯一無二的な外観が生まれたんでしょうね。 1700年代の木造建造物ですからね、貴重ですよ。未来永劫大事にしていただきたい。 さざえ堂脇のお土産屋(休憩処)の前を奥に進んでいくと、白虎隊の墓域に出ます。  写真には写っていませんが、手前にお線香が1束100円で売られていて、みんなそれを 買ってお供えするので、辺り一帯煙でいっぱいです。  白虎隊の悲劇はここで語るまでもないのですが、ただ一人救助されて生き残った飯沼 貞吉氏の証言によって、その時の様子がわかっています。 ただ、彼の証言が独り歩きをしたのか、あるいはどこかで歪められたのか、「飯盛山の 上から鶴ヶ城が燃えるのが見えたので、もはやこれ迄と全員自決した」との話が巷間 伝わっていますが、これは事実ではないようです。 戸ノ口原の戦いで敗走し、隊士のうち16人が飯盛山にたどり着きます。飯盛山の中腹 (自刃の地)に着くと彼らは協議を開きます。鶴ヶ城は蒲生氏郷という稀代の名将が 築いた城なので落ちるワケがない、城に戻って新政府軍を討つべし! しかし、城の周囲は全て敵兵で囲まれていて、城内に入るのは難しい。不可能ではない かもしれないが、捕まって捕虜になる確率が高い。そうなった場合、主君やご先祖に 対してどう申し訳が立つだろうか?潔くここで自刃し、武士の本分を明らかにしよう! これに全員が賛成し、一同鶴ヶ城に向かって自刃した、ということだそうです。  階段の下が自刃の地。 もう少し冷静な判断ができていたら・・・と思うのは、現代人の視点ですね。 特に会津のような「家訓」を小さい頃から徹底的に教え込まれた彼らに、負けて その恥を晒すというのは死ぬよりも辛い屈辱だったことでしょう。 その選択に肯定も否定もできませんが、明治維新という日本史史上最大の転換期 に多くの犠牲が払われたことだけは、後の世まで語り続けなければなりません。 700年続いた武士の世界の終焉が、戊辰戦争を辿るといろいろ知らされます。 白虎隊のエピソードもまた、その中の一部です。 ところで、白虎隊のお墓前で感慨に耽っていたら、階段を登ってきた観光客らしき 30代くらいの人たちが「ココって何ー?神社?何があるのー?」と言っていたので ちょっとビックリ。 いや、すべての日本人が歴史好きで戊辰戦争に興味があるとはいいませんが、 飯盛山に登ってきたのなら、ココがどんな所かわかって来たと思うのがフツーだと 思うのですが・・・いやいやワタクシの考えなど、まだまだですね。 さて、飯盛山のふもと、すぐ南側にあるのが「旧滝沢本陣跡」です。  「旧滝沢本陣は、1678年(延宝6年)、滝沢組郷頭を務めた横山家の住居として 建築され、その後は、歴代会津藩主が参勤交代や、藩祖保科正之公を祀る、土津 神社の参詣に出向く際の、休息所として利用されておりました。 戊辰戦争の際、時の藩主松平容保公の出陣により本営とされ、白虎隊もここで 出陣を命じられました。 座敷には、当時の戦闘による弾痕や、刀傷が、今でも生々しく残っております。」 (パンフレットより) 戸ノ口原から滝沢街道を逃げてきた白虎隊も、おそらくこの本陣に向かうつもり だったのでしょう。しかし、街道で銃撃を受けたので飯盛山に入ったそうです。 本陣近くも敵に固められたとあっては、城に帰ることはできないと隊士たちが 考えたのも無理はありません。  手前が御次之間、奥が御座之間。  こんなのが10ヶ所くらいあります。 明治14年には有栖川宮熾仁親王、昭和47年には三笠宮崇仁親王、同53年 には秩父宮勢津子妃が御休息されているようです。 ところで、ココの参観料金は400円なのですが、  受付に人はいなくて、賽銭箱みたいのが置いてあるだけ。誰ーれもいない。 これなら子供料金でも入れちゃうし、いや、お金を払わない人もいるのでは・・・? モチロン、ワタクシは正規の料金を払って拝観いたしましたけどね。 会津、なんと大らかな。 「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」   にほんブログ村 にほんブログ村 人気ブログランキングへ
福島県の県立博物館で行われている「新選組展2022」を見て参りました。 会津は遠いなぁ、とは思いましたが、東京、京都、会津に残る新選組資料が 一度に見られるということで、えいやッの決断で車を飛ばし(安全運転ですが) 行ってきました。 この企画展は秋以降、京都でも開催されますが、京都よりはまだ会津の方が 近いですからね。 当日はけっこうな雨。 圏央道から東北自動車道、郡山から磐越道に入って博物館のある会津若松 まで4時間でした。宇都宮から雨も上がったのですが、会津に着いたらまた雨。 まぁ、博物館に入っちゃえば関係ないです。  入館したのは11時くらい。お盆休み過ぎて平日もけっこう混雑しているとの情報 を得ていたのですが、この雨で比較的空いてました。返ってラッキー。  展示品は軍旗、刀剣類、衣服、写真などのほか、古文書類の種類が多かった です。特に書簡が多く、興味深く拝見しました。 近藤勇、土方歳三、沖田総司など個別に見たことはありますが、一度に見比べる のは初めてです。また、佐藤彦五郎日記が見られたのも良かったです。活字翻訳本 は持っているんですけどね。 ワタクシは古文書は読めないのですが、少し勉強したことがあります。古文書学習 では御家流の文字を解読しますが、少々カジった者の目から見ると、やはり幕府や 藩から出された公文書は見やすい文字。当然ですが。 それで新選組のメンバーだと、近藤さんの文字が一番几帳面に丁寧に書かれている ように見えました。土方さん、沖田さんの文字は読みづらい・・・正直言ってw まぁ、近藤さんの書簡は私信とはいっても報告書、他の2人の書簡は年賀状だったり するんで、その辺の気楽さから脱力してる部分はあるかも知れませんが。 昼過ぎてから入館者が多くなってきました。 やはり人気があるのは土方さんの和泉守兼定などの刀、鎖帷子などの武具ですね。 ただ、多摩在住のワタクシとしては、日野の土方歳三資料館で何度も拝見させていただ いているので、むしろまだ行ったことのない京都霊山歴史観所蔵の島田魁の大幟旗や 英名録、北海道博物館所蔵の永倉新八の胴衣などを見ることができて、テンション 上がりました。写真ではなく、実物は大きさがわかりますからね。 昨年、講座で渋沢成一郎をテーマにして、その中で史料として触れた「蝦夷錦」を見る ことができたのも、嬉しかったですね。 2時間以上、ゆっくりと見学できました。 外に出ると雨はすっかり上がっていたので、博物館の隣りの鶴ヶ城にも行ってみます。  博物館の駐車場は無料なので、博物館側からお城へ入るのはいいですね。 裏門から入るルートですが、すぐ目の前に天守が現れます。  天守の内部は資料館になっていて、葦名、伊達、蒲生、上杉、そして保科・松平 の各時代の解説や資料の他、もちろん幕末の戊辰戦争資料なども展示されて いるので、新選組展と合わせて見学するとコンプリート感が増しました。  鶴ヶ城の天守はコンクリ製ですが、お城の醍醐味はやはり石垣ですよね。 追手門側の駐車場から城内に入る石垣よりも、むしろ裏門の石垣の方が 苔生していたりして趣があります。打ち込み接ぎの布積みでしょうか。 さて、博物館や企画展といえば、そこならではのグッズ販売も楽しみですよね。 こんなカワイイ、Tシャツがあったので思わず買ってしまいました。  この元絵がコチラ。  鳥羽伏見の戦いで、伏見奉行所から撤退する新選組を描いた絵。 当時、新選組の様子をスケッチしたものは少ないので、貴重な絵としてわりと 知名度のある絵ですよね。 馬上の武士こそ、有名なあの方。 この絵をTシャツにしちゃうセンス、好きだなぁ。 「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」   にほんブログ村 にほんブログ村 人気ブログランキングへ
今年の夏、ごく一部の人たちの間で話題となっているのが、歌舞伎座で新選組を 主役にした舞台が掛かることでした。 手塚治虫原作の漫画「新選組」を舞台化した新作歌舞伎。歌舞伎ファンの中で、 また新選組ファン、手塚漫画ファンの中で早くからSNSでも盛り上がっておりました。 ワタクシ、その三つのカテゴリーのいずれにも属しておりますので、こりゃ観ないワケ には行かないと、先日観劇して参りました。  実はワタクシ、手塚先生のこの「新選組」という作品は未読であります。昭和38年 (1963)に「少年ブック」1月号~10月号に連載されていたということで、ワタクシの 生まれる前の作品。手塚治虫全集で見かけたことはあるような気がするのですが、 読んではおりません。 この漫画を読んだ中村勘九郎さんがぜひ舞台化したいと思い立ち、従兄弟である 中村福之助、歌之助くんの若手兄弟を主演につけた、というのがワタクシの聞いている 流れです。福之助、歌之助兄弟の父は中村芝翫さん。芝翫さんと勘九郎さんは従兄弟 です。勘九郎さんは勘太郎時代に大河ドラマ「新選組!」に出てますね。 さて、物語は深草丘十郎(歌之助)と鎌切大作(福之助)という二人の若い隊士が主役 です。父親を土佐藩士に殺された丘十郎が近藤勇に誘われ新選組に入隊。そこで 大作と知り合い友人となります。その後、友情や復讐への疑問、別離など、原作の 少年マンガらしいテーマがふんだんに描かれるという内容です。 丘十郎と大作は架空の隊士で少年剣士という設定。手塚先生自身がこの作品を 「いたってフィクショナル」「異次元の世界の新選組物語」と語っているようで、話の展開 はエンタメに徹した作りになっています。  劇場前の看板も、通常の鳥居派とはちょっと違うタッチの絵 では観劇後の感想をつらつらと。 全体を覆っているのは、新選組というよりも手塚治虫漫画に対する圧倒的なリスペクト。 舞台の背景に使われている書割りが、まさに手塚漫画の背景そのもの。草原の風に なびく草、雪をかぶった松、大海原の描写など、よくまぁココまで手塚タッチを模写した なぁと、感心しました。 さらに随所に見られる手塚キャラまつり。 あまり言うとネタバレになりますが、ブラックジャック、ヒゲおやじ、ピノコ、三つ目、アセ チレンランプが登場。お座敷の襖には火の鳥が描かれ、長唄で鉄腕アトムが流れる といった具合です。 主演の二人ですが、さすが兄弟だけあって息の合った掛け合いを見せてくれました。 ただ、殺陣のシーンにぎこちなさがあったかな。まぁ、通常の歌舞伎と今回の芝居の 立ち回りは全く違う形だったので、仕方のない部分はあるでしょう。それ以外は花形 歌舞伎(若手中心の芝居)らしく、初々しさを感じた良い芝居でした。 勘九郎が近藤勇、七之助が土方歳三。普段は女形の七之助の土方はちょっと意外な キャスティング。勘九郎は大河の藤堂平助から出世ですねw 最近知名度が爆上がりの坂東彌十郎が芹沢鴨。これが良かった!体が大きいので 押しが効きます。時政で彌十郎を知った方は必見よ。  座席は1階の一番後ろ。花道をハケる演者を最後まで見られます。 課題としては・・・。 史実と違うのはエンタメだから良いんですが、それでも新選組が人斬り集団という部分 で語られていて、ファンの方々はどう受け取ったのかなぁと思いました。 ただし、これは原作がそうであり、それに忠実に従ったということはあるかもしれません。 まぁ、ワタクシ原作は未読なのでわかりませんけども。 先ほど書いたように原作は昭和38年の作品。すると、新選組に関する研究も今ほど 解明されてないでしょうし、一般的には新選組=人斬りは大方の人の認識だったのかも 知れません。鞍馬天狗などの時代劇では完全なヒールですもんね。 「新選組血風録」がドラマ化されるのが昭和40年ですから、それよりも前の漫画です もんね。(ちなみにドラマの新選組血風録は斎藤一が箱館に渡ってたりする) それと漫画をリスペクトする余り、原作を追っただけの展開と言えなくもないような印象 も受けました。例えば、仏南無之介(演じたのは福之助、歌之助の実兄中村橋之助)と いう侍が出てきますが、原作に出てくるキャラなので出しましたみたいな薄い印象なん ですよね。わりと大事なヒールキャラだと思うので、もっと描きこんで欲しかった。 ほぼ唯一のヒロインで丘十郎の命を狙うお八重(中村鶴松)が丘十郎への気持ちを 変える過程もちょっと唐突。 これらは全て、上演時間が短かったことが原因でしょう。コロナ禍で歌舞伎座は現在 三部制で行われており、「新選組」は一部での上演でしたが。もう1本「闇梅百物語」と いう所作事の芝居との2本立てだったため、上演時間が1時間ちょっとだったんですよね。 原作通りに作るなら、これはちょっと短いなと思いました。 とまぁ、好き勝手に言わせていただきましたが、トータルとしては面白かったです。 元々、新選組をテーマにした歌舞伎芝居があってもいいんじゃないかと思っていました ので。先ず若手を中心に漫画原作というファンのすそ野の広い題材でできたことは とても良かったと思います。 ワタクシは持論として、歌舞伎はどんどん新作を作っていくべきだと思っています。 古典を守りつつも、さらに進化していかなければ「生きた舞台」は作れません。そもそも 江戸時代の歌舞伎が新作の連続だったワケですから。 ただ、新作歌舞伎は再演されることが少ないのが惜しいところです。 ぜひ手塚版「新選組」も再演を。そして「新選組血風録」や「新選組始末記」あたりを 原作に、もう一丁お願いいたします。  実は今月の歌舞伎座の目玉は三部の「弥次喜多流離譚」。 東海道中膝栗毛を原作に、猿之助と幸四郎がギャグ満載のドタバタを繰り広げる シリーズものの新作歌舞伎。これも観たかったんだけどチケット取れなかった。。。 「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」   にほんブログ村 にほんブログ村 人気ブログランキングへ
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