相当遅くなりましたが、箱館戦争終戦時の渋沢成一郎を見ていきます。
「青天を衝け」を見た方ならご承知の通り、成一郎は生き残って明治の世の中を
実業家として生きています。
明治2年(1869)の3月に、箱館旧幕軍は新政府軍の最新鋭艦「甲鉄」を奪う作戦
(アボルダージュ)に出ますが失敗します。「宮古湾海戦」
しかし、この作戦に成一郎は参加していませんのでここでは省略。
彰義隊は陸軍兵なので主力にならなかったのでしょう。それでも15人が作戦に参加
し蟠龍艦に乗り込んだようですが(「上野彰義隊と箱館戦争史」 菊地明)、判明して
いる者の氏名から推察して、大彰義隊から選抜された者でしょう。
4月9日、雪解けを待っていよいよ新政府軍が蝦夷に上陸してきます。
上陸地点は渡島半島の西岸乙部。そこから二股口、木古内口、松前口の3方向から
進軍します。当初は少しでも土地勘がある旧幕府軍が優勢でしたが、新政府軍は
兵力を青森に集中させ、そこからどんどん援兵を繰り出すので、次第に優勢になって
いきます。
ちなみに、このとき新政府軍の指揮を執ったのは長州の山田顕義。後の日本大学
創立者。日大OBの方々でも、山田さんが法律家ということは知っていても、それ以前は
とても有能な軍人だったことを知る人は少ないようです。あの、例の前理事長だった人
は・・・案外そういうコトは知ってるかもしれない。

兵力の多さに、制海権まで相手に奪われていては旧幕府軍に勝ち目はありません。
さて、そんな中我らが渋沢成一郎はどこで戦っていたのでしょう。
成一郎率いる小彰義隊は、最初は湯の川に布陣していたようです。湯の川は箱館の
東側ですから、亀田半島方面から来る敵を警戒していたのでしょう。しかし、実際には
新政府軍は松前半島を攻略して西側から五稜郭を目指してきたので、湯の川は戦場
にはならなかったようです。
5月に入り、ついに難攻不落と思われていた函館山を乗り越えて新政府軍が箱館市内
に突入。箱館湾に突き出た弁天台場で戦っていた新選組を救出に向かった土方歳三が、
一本木関門で敵弾に倒れ戦死してしまいます。5月11日でした。

旧幕府軍は一本木関門奪還のために出陣しますが、この戦闘に出たのが仙台藩出身
の額兵隊、見国隊、そして小彰義隊でした.。湯の川から箱館に戻っていたのですね。
しかし、一本木関門は奪還できず、小彰義隊は五稜郭との中間にある千代ヶ岡陣屋に
入ります。
しかし、13日の夜頃から五稜郭を抜け出して、新政府側に投降する兵士が相次いだと
いいます。まぁ、伝習隊などは幕臣ではなく、金で雇われた者が多かったのでもう先が
見えたとなると逃げる者も多かったのでしょう。
さて、成一郎らが立て籠もった千代ヶ岡陣屋も16日には陥落してしまうのですが、この
前後に成一郎はとある行動に出たようです。
「(成一郎らは)五稜郭裏門の番兵たりしが、隊長渋沢成一郎、兵隊ことごとく引き集めて
郭内を忍び出で、義に背いて官軍に降る。」(「蝦夷錦」)
小彰義隊は千代ヶ岡から五稜郭に移っていたようですが、なんと成一郎は部下を引き連
れて投降してしまったというんですね。驚きです!
ところが一方でこのような証言も。
「その夜、渋沢成一郎、松平・中島の問答を聞き黙し居たりしが、如何思いけん、部下の
士林清五郎初め数十人を随え、湯の川に脱走す」(「蝦夷の夢」)
これは衝鋒隊の今井信郎の記録です。千代ヶ岡陣屋で松平太郎と中島三郎助が撤退
するかどうかについて議論していたところ、その様子を聞いていた成一郎らがいつの間
にか脱走していた、という内容。
これと似た証言は、
「渋沢成一郎、津田主計等最初より衆に先達て激論せし者なるが、此隙に至り竟に臆い
念発り窃かに脱出す」(「説夢録」)
こちらは上野戦争に参加したあと、一聯隊に所属していた石川忠恕の記録。
これらを総合的に見ていくと、小彰義隊は五稜郭か千代ヶ岡陣屋にいた(あるいは両方)
が、敗戦の決まる少し前に成一郎が部下を引き連れ脱走した、ということになります。
今井信郎は逃げた先は湯の川であると、具体的です。
箱館戦争は5月18日に榎本武揚らが降伏したことにより、終結しました。
しかし、同日に箱館政権幹部の全員が降伏、出頭したわけではありません。
開拓奉行の沢太郎左衛門らはモロラン(現室蘭)にいたために、彼等が五稜郭の降伏
を知ったのは5月22日。箱館に出頭したのは6月11日になってからでした。
そして、渋沢成一郎もまた、新政府軍に出頭したのがその頃だと思われます。
というのも、榎本や大鳥らに遅れて、沢と成一郎は7月5日に一緒に東京に送還され、
辰口の糺問所に入れられたからです。
成一郎らはやはり湯の川に潜んでいたようです。(「上野彰義隊と箱館戦争史」)
ということは今井信郎の証言がかなり的を得ているようです。
ただ、ここにもう一つ成一郎の行動についての記録があります。
「澁澤成一郎ハ湯ノ川ト申所江出張致シ居、六月十八日伏罪仕」(「陸軍裁判所記」)
これは明治4年12月の陸軍裁判所の記録です。
ここには成一郎が出頭したのは6月18日であるとし、また湯の川へは脱走ではなく
出張だったと記されています。これは裁判所の正式な記録であるため、成一郎だけ
ではなく榎本や大鳥など他の幹部らの証言を入れた上での記録でしょう。
これを信じれば、理由はわかりませんが総裁の榎本か、陸軍奉行の大鳥に命じられて
湯の川に配置されたことになります。
成一郎ら小彰義隊が最後にいたのは湯の川に間違いないようですが、はたしてそれが
脱走だったのか出張だったのか?
どちらなのでしょう。
遊撃隊にいた間宮魁という人が大正6年に「箱館脱走人名」という名簿を著しています。

「函館市中央図書館デジタル資料館」より
これを見ると、榎本武揚、松平太郎、大鳥圭介に続いて渋沢成一郎の名前が出ています。
「監軍」とあることから目付をしていたということでしょう。
「脱」とあることから終戦前に脱走していたと間宮も思っていたようですが、No.4の位置に
成一郎を書いたということは、彼は旧幕府軍内部で高い地位にいて、周囲もそれを認めて
いた可能性があったのではないでしょうか。
繰り返しになりますが、渋沢成一郎は自ら戊辰戦争中の日記、自伝、記録の類を残して
いません。地元の深谷に書簡集のようなものもあるようですが、明治になって実業家に
なってからのものだそうです。
成一郎が彰義隊を組織し、振武軍、榎本艦隊に合流、箱館戦争に至るまでその行動の
記録は同じ旧幕府軍にいた人の記録によってのみです。
山崎有信は「彰義隊戦史」の中で本人に取材をしていますが、天野八郎や菅沼三五郎
らとの分離について詳細は語っていません。
今までご紹介してきたように、渋沢成一郎という人物は一橋家に仕官以降、将軍慶喜の
側近にまで出世。彰義隊結成時もリーダーに推されました。しかし、転戦の都度再結成、
分裂を繰り返します。
優秀な素質がありながら、組織のリーダーには向かなかったのかなぁと思うところも感じ
ます。
渋沢栄一が成一郎のことを一足飛びに結果を求める性格だったと評していますが、そう
いう所なんでしょうか。
大河ドラマのレギュラーキャラになったことで、今までほとんど研究されなかった成一郎に
初めてスポットが当たったようです。
今後、新史料が発見されるかもしれませんし、新たな研究を待つことに期待したいと
思います。
「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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