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「青天を衝け」幕末多摩ひがしやまと流見方⑳ 陸軍奉行添役

前回の記事で渋沢成一郎が何らかの規律違反をしたために、彰義隊が二つに分裂。
成一郎はより小さな「小彰義隊」の頭となったことを書きました。
彰義隊隊士寺沢儭太郎によれば、それは松前城の金庫から運び出した金銭の横領
だといいます。

さて、慶応4年も終わろうとしている12月15日。士官以上の入札によって、この箱館
旧幕府軍の閣僚が決められました。「箱館政府」とか「蝦夷共和国」などと云われます
が、榎本たちに蝦夷を日本から独立させる気持ちは全く無く、あくまでも部隊ごとに
分かれていた旧幕府軍を統一し、治安維持を目的にしたものと考えるのが妥当だと
思います。
誰がどの役職に就いたのかは、いろんな本に出ていますのでココでは一々書きませ
んが、成一郎がどの役職を与えられたのかだけ触れたいと思います。コレ、案外と
どの本にも書かれていないのです。

前回ご紹介した荒井宣行(額兵隊)の「蝦夷錦」によれば、成一郎は「陸軍奉行添役」
に就任したとなっています。日本国語大辞典によれば「添役」とは「主務者に付いて
補助する役、補佐役。次官。」とあります。
陸軍大臣が大鳥圭介、奉行並が土方歳三ですから、その副官に任命されたという
ことになりますね。
「新選組隊士録」(相川司)では松平太郎を大将、大鳥を中将、土方を少将と表現して
いますが、となれば陸軍奉行添役は准将でしょうか。

蝦夷錦2a
「蝦夷錦」(函館中央図書館デジタル資料館)

ただ、上の史料を見ていただければお分かりのように、添役には13人が名を連ねて
いるので成一郎だけの役職ではありませんでした。なぜこんなに「副官」が必要だった
かというと、おそらく陸軍内のバランスを考えた結果なのでしょう。
彼等の経歴を見ると

新選組系・・・相馬、大島、大野、安富
遊撃隊系・・・澤、忠内、宮路
彰義隊系・・・渋沢、津田
幕臣・草風隊系・・・牧野、堀、佐久間
伊達家臣・・・金成

このように分けられます。新選組系の相馬らは土方歳三付きだったようですし、牧野は
伝習士官隊の軍監をしていたので大鳥に近かったようです。
また、堀、忠内は江差守備隊、佐久間は松前守備隊に所属していたようですので、箱館
周辺以外にも人員を配置する関係上、これだけの人数が必要だったのでしょう。

とにかく、成一郎はこれら箱館政権の陸軍幹部の中に名を連ねたわけです。
もしも、彼が寺沢儭太郎の言うように敵から奪った金銭を横領し、それを榎本や土方らから
咎められていたのならば、このような役職には就けなかったと思うのですが、いかがで
しょうか?
彰義隊内部で何らかのトラブルがあり、その責任を取らされたことは間違いないと思い
ますが、それほど不名誉なことではなかったと推察します。

さて、箱館政権陸軍はフランス式軍制に整備もされました。
それまで彰義隊や遊撃隊、額兵隊など独立性の高い部隊の集合体だったものを再編成
したわけです。全体を第1~第4列士満(レジマン)という聯隊に分けました。
列士満とはフランス語のregiment(聯隊)をそのまま漢字に当てはめたものです。
成一郎の小彰義隊は第1列士満の第1大隊3番小隊に。
菅沼三五郎、池田大隅率いる彰義隊は第1列士満の第2大隊第4~7小隊となりました。

しかし、その後に起こる箱館戦争の記録などを見てみると、実際の戦場ではやはり箱館
以前の旧部隊ごとにまとまって戦っていた場合が多いようですね。


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[ 2022/01/30 ] 大河ドラマ | TB(0) | CM(2)

「青天を衝け」幕末多摩ひがしやまと流見方⑲ 成一郎はやらかしたのか?

旧幕府軍、榎本武揚率いる艦隊が蝦夷内湾の鷲の木という浜辺に上陸したのは
慶応4年(1868)10月19日のことです。
今、新宿の京王デパートで恒例の駅弁まつりを行っておりますが、そこでもピカイチ
の人気商品「森のいか飯」。鷲の木はそれが売られている森駅の近くです。

陸軍部隊は鷲の木から内陸を通る本道軍と、その助力として海岸線を行く間道軍
の二手に分かれて箱館奉行所のある五稜郭へ向かいました。
本道軍は遊撃隊の隊長、人見勝太郎が新政府への嘆願書を持って進みます。
渋沢成一郎率いる彰義隊は、仙台脱走兵で構成される額兵隊らと共に、土方歳三
に率いられて間道軍に加わりました。
当時箱館府は新政府が抑えており、松前藩、津軽藩らがその守備隊にいましたが、
旧幕軍はこれを難なく破り、10月26日に五稜郭に入城します。
額兵隊にいた荒井宣行の書いた「蝦夷錦」にはこの時の彰義隊を
「二百余人ヲ四列ニ立テ、日ノ丸ノ大旗ヲ翻シ」と書いています。

翌27日から土方歳三を隊長として、彰義隊、陸軍隊、額兵隊の混成部隊で松前
攻略に向かいます。彰義隊はその先鋒を任されたと、彰義隊にいた丸毛靱負の
「函館戦史」にあります。
松前藩というのは全国でも特殊な藩で、当時は寒冷で米が収穫できないので石高
は0なんですね。で、漁業やアイヌとの交易で経営を成しており、藩士も通常は
農漁業に従事するという生活だったようです。そのため戦闘能力も低い。
11月5日には、土方軍は松前城を落とし、入城を果たします。

と、ここまでは良かったんですが、問題はこの後に起きます。
「彰義隊長渋沢成一郎、軍律ニ違反シ免官ス」
これは幕府歩兵11聯隊、12聯隊を中心に作られた衝鋒隊の副長を務めていた
今井信郎の「北国戦争概略衝鋒隊之記」に残された記述です。ちなみに今井は
かつて京都見廻り組に在籍し、坂本龍馬を斬ったことで知られる男。

これだけだと何があったのかわかりませんが、とにかく成一郎が何かをやらかして
彰義隊の隊長から降ろされたらしい。
以前ご紹介した寺沢儭太郎の「幕末秘録」には、この様子が詳しく書いてあるのですが
それによると・・・松前城を攻略した際、松前藩兵が城に火を放って逃げた。そのため
味方が消火に当たるところ、成一郎は配下に命じて金蔵から金銭を運び出し、これを
横領した・・・というんですね。
それで交代寄合の菅沼三五郎ら幹部たちは、もう成一郎にはついて行けぬと彼を
隊長にとどめることを拒否したようなんです。
なるほど、これがホントだとすると成一郎はとんでもないヤツですね。

結局、11月13日から江差方面に逃げた松前藩兵らを追討するため、土方軍は
出陣しますが、成一郎と彼に従う50数名だけは松前に残されました。
菅沼らから一緒に行動するのは嫌だと言われたのでしょう。

再び榎本が両派の間に入って仲裁しますが、ついに元には戻らず彰義隊は再び分裂。
隊長を菅沼三五郎、池田大隅とした200~230人を「彰義隊」。渋沢成一郎を隊長と
した30~80人を「小彰義隊」としたのです。小彰義隊の人数にだいぶ幅がありますが、
これは「彰義隊戦史」には「三十余人」、「蝦夷錦」には「八十人」とあるためです。振武
軍のときのように、後から移った隊士がいたのかもしれません。

さて。
本当に成一郎は松前城の金蔵から金銭を運び出し、それを横領などしたのでしょうか?
これを書いているのが、以前の記事で「成一郎が土下座をして隊長になった」と書いた
寺沢儭太郎ってのが、ワタクシ的には引っかかる所ではあります。
この人は成一郎を少し貶めて書こうとしている所があるんじゃないかなぁ・・・と思えなく
もないんですよね。天野派なのでね。
ただ、中立の今井あたりが「軍律ニ違反」したとも書いているので、何らかのシクジリ
はあったのでしょうね。

蝦夷錦a
額兵隊隊士、荒井宣行「蝦夷錦」より(函館中央図書館デジタル資料館)
2行目に「小彰義隊 八十人 頭並 澁澤成一郎」
4行目に「彰義隊 二百人 改役 池田大隅」
とあります。


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[ 2022/01/22 ] 大河ドラマ | TB(0) | CM(2)

「青天を衝け」幕末多摩ひがしやまと流見方⑱ 蝦夷と幕臣開拓

品川沖に碇泊していた長鯨艦上で再結成した、新生・彰義隊。
その頭に再び就任した渋沢成一郎です。

その後、脱走幕臣軍を載せた榎本武揚艦隊は、徳川宗家を継いだ田安亀之助(徳川家達
が無事に駿府へ到着したことを見届けた慶応4年(1868)8月19日、品川沖を出て北
へ向います。
東北戦線での成一郎及び成一郎の行動について、書いてあるものはとても少ないんですね。
ハッキリ言いまして、松島湾に着いてから彰義隊は出動はするものの戦闘には及んで
いないからでしょう。
一応会津応援のために成一郎は彰義隊を率いて進軍しますが、途中の桑折(こおり)と
いう所で会津から撤退してきた大鳥圭介率いる伝習隊と顔を合わせます。会津が籠城戦
に入ったので城外で戦っていた大鳥らは城に入れず、援軍を求めに仙台へ向かって
いたんですね。
で、彰義隊も仙台に引き返し、佐幕軍で協議に入ります。

このときの仙台は壮観だったでしょうね。
榎本率いる幕府海軍、大鳥率いる伝習隊、成一郎の彰義隊のほか、土方歳三率いる
新選組、人見勝太郎率いる遊撃隊、春日左衛門の陸軍隊などなど。
旧幕軍オールスター集結ですからね。

ただ、頼みの仙台藩はすでに白旗を上げてしまい、奥羽越列藩同盟は崩壊。
榎本と大鳥の話し合いで、希望者は蝦夷に向かうことに決します。
このように書くと、「仙台にいてもアカン」「どうするよ」「蝦夷行く?行っちゃう?」
みたいな、その場で蝦夷行きアイデアが出たように感じるかもしれませんが、さに
あらず。,

榎本は江戸にいたときから最終的には幕臣を連れて蝦夷に行きたいという
希望を持っていたと、勝海舟の日記にはあります。
「榎本釜次郎来訪。軍艦、箱館行きの事、談これあり」
(「海舟日記・閏四月二十三日」)

榎本は到底、駿河・遠江の70万石の領地では全ての幕臣の生活を守ることはでき
ないと考え、早くから蝦夷地での幕臣による開墾事業を目論んでいたようです。
では、それまでに幕臣による蝦夷地の開墾事業の先例はあったのでしょうか?
18世紀後半からロシアが南下政策をしてきましたので、幕府もそれに応じて防衛
の観点から東蝦夷地や千島を松前藩から上地して直接支配としました。
それを背景に幕臣の中から開墾と警備を願い出る者が出てきたのです。

それは八王子千人同心の千人頭である、原半左衛門胤敦という人でした。
寛政11年(1799)に上申し、翌年に幕府から許可が出ています。
なぜ、彼は遠い蝦夷地の開墾を願い出るなんてことをしたのでしょうか?
八王子市郷土資料館では「千人同心の子弟・厄介といわれるものたちの就職問題に
対する解決策とするもの、また詰席を変えられたことに対して、本席復帰を目指した
とするものなどの説がある」(「千人のさむらいたち」)と考えています。
※明暦3年(1657)12月に千人頭の石坂勘兵衛が不注意から不入の間に入室
したことにより、与えられていた躑躅之間詰席を取り上げられ、御納戸前廊下席に
格下げの処分を受けている。

寛政12年3月、原半左衛門と弟の新介が100人の千人同心を連れて津軽の三厩
まで陸路を行き、そこから船で松前に渡り、さらに陸路で箱館に入りました。
一行はさらに陸路67里を歩いて勇払(苫小牧市)まで行き、さらに半数の50人は
海岸線を144里進んで白糠まで行ったそうです。
北海道の地図を見ていただければわかりますが、白糠といえばほぼ釧路です。よく
そんな所まで歩いて行きましたよ。
さらに同年の秋には30人の後発隊が出て、勇払と白糠に向かいました。
原たちは自給に向けた開墾を目指すのですが、厳しい寒さにより病死者や帰国希望
者が続出。病死の中では野菜不足による壊血病も多かったそうです。野菜って大事
ですね。
文化元年(1804)3月の段階で130人のうち、蝦夷に残留したのは箱館9人、白糠
26人、鵡川43人、山越内1人、帰国者19人、死者32人でした。

この130人とは別に、寛政12年(1800)に千人同心3名が家族を連れて蝦夷に
渡り、山越内、七重、勇払に移住しました。

幕末に近い頃になると安政5年(1858)3月に、千人同心組頭秋山喜左衛門の倅
幸太郎ら27人が志願して蝦夷に渡りました。このときは箱館近郊の地域に居住する
ことを選択。多くが七重に入植しました。
彼らは養蚕・織物の産業化を図り、いくつかの見込み違いはあったものの軌道に乗せ、
斜子織り(ななこおり:縦横2本以上の糸で織った平織り)まで生産できるようになった
といいます。
安政期の入植が成功したのは、寛政期と異なり比較的温暖な道南での開拓を選んだ
からでしょう。.

このようにいくつかの失敗や犠牲はありながらも、幕臣による蝦夷地の開拓は成功例
も出ていたことになります。
後の話になりますが、蝦夷地に渡った榎本は、オランダ留学仲間で片腕的な存在の
沢太郎左衛門を開拓奉行としてモロラン(室蘭)に駐在させます。
蝦夷地でも十分な開拓成功の目算があったのでしょう。

IMG_0794a.jpg
「八王子千人同心屋敷跡記念碑」(八王子市)

千人同心解説版
八王子千人同心解説版の蝦夷地開拓の部分


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[ 2022/01/11 ] 大河ドラマ | TB(0) | CM(2)

「青天を衝け」幕末多摩ひがしやまと流見方⑰ 新生・彰義隊

飯能戦争に敗れて故郷の血洗島に逃れていた成一郎ですが、慶応4年(1868)7月中
には江戸へ舞い戻ってきたようです。
彰義隊が上野に屯集していた頃から、陸軍奉行だった松平太郎を通して榎本武揚に
いざというときには艦隊に合流するという話がついていたようで、各地に四散していた
彰義隊の面々が品川に集まってきていたんですね。
成一郎も同志(おそらく振武軍隊士)35名を連れて、榎本の艦にやってきました。
その輸送艦「長鯨」上で、寛永寺で袂を分けた天野八郎派と顔を合わせます。
ちなみに天野は江戸潜伏中に捕まってしまい、榎本艦隊に合流はできませんでした。

このときの様子は彰義隊隊士で天野派だった寺沢儭太郎が「幕末秘録」の中で書い
ています。当初、寺沢たちは成一郎らと再び手を組むのは嫌だったらしいのですが、
榎本の説得で再び彰義隊として再結成しました。
そのとき成一郎は寺沢らにこれまでの経緯を謝罪し、天野の代りとなって誠意を
尽くすことを約束し甲板に頭を擦り付けた・・・というのです。

コレ、ホントでしょうか?
それで成一郎は再び新生彰義隊の「頭」に収まったというのですが・・・。

成一郎は上野を去ったとき、後から追いついてきた者を含めてその後300人の
隊士で構成される振武軍の隊長になったほどの人物です。
彰義隊の頭取として隊を分裂させてしまったことに責任はあったとしても、土下座
までして新生彰義隊の頭になったとは思えません。

寺沢は一方で「渋沢は身長高く、頭は丸坊主で、眼光炯々人を射て、一見上野山王台
にある、彼の西郷の銅像と云ったような立派な偉丈夫であるから、皆その威風の堂々
たるにおされて、我々の首領と仰がんには、かかる人をこそ」(「幕末秘録」)
と言ってます。
成一郎の見た目が立派で威圧感がスゴイので、リーダーになってもらわないワケには
いかないよ、って自分で言ってるんですよね。

おそらく、成一郎はその場にいた隊士たちの総意で頭に推されたのだと思うんです。
再び結成された彰義隊を率いていける人物として、成一郎以外いなかったのではない
でしょうか。
寺沢はあまりそれを認めたくなかったのかな?
ただし、頭の成一郎以外は、「頭並」(おそらく副長の地位か)に菅沼三五郎、「改
役」に小林清五郎、「頭取」に織田主膳、大塚霍之丞、新井鐐太郎、木下福次郎、
松平篤三郎と、幹部には振武軍関係者以外の彰義隊士が名を連ねています。
このことから、寺沢ら天野派は全面的に成一郎を信用したわけではなく、隊の全体
も天野派が握っていた印象を持ちます。

頭並に推された菅沼三五郎は7000石の交代寄合表御礼衆です。
交代寄合というのは石高は1万石未満で旗本の地位ではあるけれど、老中支配に
属し(通常旗本は若年寄支配)、参勤交代を義務付けられている家のことです。
つまり、準大名といってもいい旗本でしょうね。30家余りがありました。

交代寄合はさらに表御礼衆(20家)と四衆(12家)に分かれます。
四衆は参勤交代はするものの、当主が江戸に滞在するのは数日だけで家族を領地に
残すことが許されていました。その代わり幕府の役職に就くことはなく、知行地の関所
や河川の管理を幕府から委託されるのが仕事でした。
一方、表御礼衆は大名と同じく正室や嫡子を江戸屋敷に住まわせる義務があり、幕府
の役職にも就任しました。

菅沼家は交代寄合の中でも最も石高が高く、三五郎は慶応2年(1866)には静寛院
(和宮)と天璋院(篤姫)の用人を務めています。
上野戦争では自ら竜虎隊という別働隊を率いていたといいます。

家柄などでは明らかに勝る菅沼などがいても、成一郎が頭になったのですから、彼の
リーダーとしての資質は一目置かれていたといって良いと思います。

彰義隊旗a


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[ 2022/01/06 ] 大河ドラマ | TB(0) | CM(2)

オレデミー大賞 2021年 年間大賞

年賀状2022

本年一回目の記事は、オレデミー大賞2021年の年間大賞です。

10位 群青領域 NHK 10月期  シム・ウンギョン、若林竜也ほか
9位 監察医 朝顔 フジ 1月期  上野樹里、風間俊介、時任三郎ほか
8位 コントが始まる 日テレ 4月期  菅田将暉、有村架純、神木隆之介ほか 
7位 最愛 TBS 10月期  吉高由里子、松下洸平、井浦新ほか
6位 イチケイのカラス フジ 4月期  竹野内豊、黒木華、小日向文世ほか
5位 TOKYO MER TBS 7月期  鈴木亮平、賀来賢人、石田ゆり子ほか
4位 天国と地獄 TBS 1月期  綾瀬はるか、高橋一生、北村一輝ほか

3位 大豆田とわ子と三人の元夫 フジ 4月期
 松たか子、松田龍平、角田晃広ほか

2位 青天を衝け NHK 1年間 吉川亮、草彅剛、橋本愛ほか

1位 ハコヅメ 日テレ 7月期 永野芽郁、戸田恵梨香、ムロツヨシほか

深夜枠

3位 ここは今から倫理です NHK 1月期  山田裕貴、茅島みずき 池田優斗ほか
2位 東京放置食堂 テレ東 10月期  片桐はいり、工藤綾乃ほか
1位 直ちゃんは小学三年生 テレ東 1月期
 杉野遙亮、前原滉、竹原ピストルほか

主演男優賞 鈴木亮平(TOKYO MER)
主演女優賞 永野芽郁(ハコヅメ)
助演男優賞 草彅剛(青天を衝け)
助演女優賞 黒木華(イチケイのカラス)

美術賞 スナックキズツキ テレ東 10月期  原田知世、浜野謙太ほか
撮影賞 大豆田とわ子と三人の元夫
主題曲賞 「PresenceⅠ~Ⅴ」 STUTS&松たか子 with 3exes
   大豆田とわ子と三人の元夫
新人賞 関水渚(アノニマス、八月は夜のバッティングセンターで)

{総評}
「青天を衝け」は近年の大河ドラマでは「真田丸」「いだてん」に匹敵する面白さ
でした。今までのドラマは薩長歴史観からなかなか脱却できませんでしたが、
幕臣なくして日本の近代化は為しえなかったという歴史観を初めて見せてくれたと
思います。ただ惜しむらくは、コロナ禍で開始がひと月遅れたことと、オリンピック
での中断で通常の大河ドラマより10話も短かったこと。もし通常通りの話数が
作られれば戊辰戦争ももう少し描けたのではなかったかと、残念です。
ただ、その中で徳川慶喜を演じた草彅剛はすばらしい。それほどセリフは多く
ありませんでしたが、抑えた表情がひたすら恭順を貫き通し隠者に徹した慶喜を
よく表わしていたと思います。まぁ、慶喜の評価というのは、ワタクシも未だに
よくわからないでいるのですが。

「ハコヅメ」は刑事・警察ドラマの新しい方向性を表してくれたように感じます。
警察官の普通な日常をより突っ込んで描くということですね。まぁ、警察官が
みんな「アバランチ」や「ボイス」みたいなハードな職場にいるワケではないんで。
これから刑事モノの幅が広がる可能性を感じました。
また、キャスティングが素晴らしくハマってました。これはドラマでは大事ですよね。
山田裕貴は「倫理です」での神経質な教師、「ハコズメ」での後輩気質、単発ドラマ
での志村けん、ちょっと前の「先生を消す方程式」でのサイコパスなどかなり器用
そうで、今後が楽しみ。

テレ東は「直ちゃんは」みたいな、絶対に他局ではこんなのやらないよねという
ようなドラマをどんどん作って欲しいです。


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[ 2022/01/02 ] オレデミー大賞 | TB(0) | CM(0)