8月22日から江戸楽アカデミーの講座が始まりまして、そちらのレジュメ作りなどで
ブログも滞りがちです。
講座は9月まで計3回ありまして、過去記事にもありますように「渋沢成一郎から見た
戊辰戦争」をテーマにお話しています。
第1回は、渋沢栄一と喜作が一橋家に仕えるところから鳥羽・伏見の戦いを経て、
須永於菟之輔らが幕府撒兵隊に檄文を廻すところまでをお話しました。
2回目は彰義隊と上野戦争についてお話します。
さて、そんなワケで今回の記事は、前回久しぶりの放送となった「青天を衝け」に
ちょっと触れる感じでお送りします。
コロナやオリンピックの関係で、全体の話数がかなり少なくなりましたから、予想通り
彰義隊の辺りは激しくカットされちゃいましたねぇ・・・^^;
一応、彰義隊を結成する場面は描かれてましたけど。
浅草本願寺ってテロップが入ってましたが、なんか場末の荒れ寺感が否めないw
当時、本願寺には200名が収容できる大広間がありましたからね、もうちょっと
ゴージャスだったと思います。

ホラ、今だってこんなに立派な浅草本願寺(東本願寺)
於菟之輔の他に、成一郎に我々の頭になってくれと頼む侍が2人いました。文字
放送にしているとこの2人が天野八郎と伴門五郎だと分かるのですが、アレだけ
では役名があってもなくても一緒ですね。
まぁ、そんなことはドラマの都合上どうでもいいことですけど、かなり大きなフィクション
がありましたので、今日はそこを書き出しておきましょう。
帰国した栄一に川村恵十郎と於菟之輔が面会に行きますね。
成一郎や平九郎のこと、戦ってきた戦争について話しますが、あそこは創作です。
彼は上野戦争にも飯能戦争にも参加していないのです。
これはどういうことかと言いますと・・・。
慶応4年(1868)4月11日に慶喜は寛永寺を出て水戸に向かいます。
江戸の庶民はみな涙を流して前将軍を見送ったと云いますな。
このとき慶喜の護衛を務めたいと彰義隊は願ったのですが、これは聞き入れてもら
えませんでした。
この頃、彰義隊の内部は渋沢成一郎派と天野八郎派に分かれ、主流は薩長への主戦
論を唱える天野派となっていました。成一郎は於菟之輔に命じて(従弟だから頼みやす
かったのでしょう)、慶喜護衛の責任者である山岡鉄舟や高橋泥舟に会って、我々渋沢
派も慶喜警護をさせてくださいと頼むように言ったのです。そして於菟之輔は単身
水戸に向かいました。
水戸に着いた於菟之輔は泥舟から
「警衛を願うなら取り次いでやろう」との言葉をもらいます。
「ありがとうございます。では、頭の渋沢が参りましたらそのようにお取りj計らいを」
「いや、待て須永・・・実はその前にな、聞いてもらいたいことがあるのだ」
「何でござりましょう」
「実はな、幕府脱走兵が鹿島神宮に武装して集まっておるのだ。これは君公恭順の妨げ
となってよろしくない。解散するよう説得してはくれまいか?」
「は、わかりました」
於菟之輔は鹿島神宮に行き、脱走兵らを説得。解散させるのに成功します。
そして水戸に帰り、報告をすると、また泥舟が
「実はな、白河城で官軍と会津が戦っておる。敗走兵がこの水戸を襲ってくるかも
しれん。視察に行ってはくれまいか?」
「は、わかりました」
行ってみると、しかし白河口はすでに新政府軍の手に落ちています。水戸に引き返そう
とするも棚倉も落ちてしまい、仕方なく於菟之輔は須賀川に戻り、そこでの逗留を余儀
なくされてしまいます。この間に上野戦争も飯能戦争も終わってしまいました。
その後白石に出た於菟之輔は、水戸から同道していた加藤木賞三から「フランスにいる
お前の従兄の篤太夫に頼み、フランスに幕府と新政府の仲介をしてもらってはどうだ
ろう?」との意見を聞きます。なるほど、その手があったかと於菟之輔。
ちょうど佐幕派外国商人のスネルの船が来るというので塩釜まで行ってみると、すでに
二本松も落ち、米沢も恭順したとのこと。さらに仙台にスパイが入ってるとの話も聞き
うかつに動けません。
ところが江戸を脱出した榎本艦隊も松島湾に入ってきたため、於菟之輔はようやく成一郎
と会えることになりました。
「もう・・・泥舟さんのおかげで、エライ遠回り・・・(汗)」by於菟之輔

ということで、この飯能山中の於菟之輔はフィクションです。
さて、もう一つ。
ドラマをご覧になった方、みなさん言葉を飲み込んだ平九郎の戦死シーン。
もちろんドラマなのでちょっとは盛ってるだろう・・・とは思いますが、わりと史実に近い
かんじだったのではとも思っています。
平九郎の最期の様子については「渋沢平九郎昌忠伝」に詳しく書かれています。
この伝記は藍香選とあるので、実兄の尾高惇忠が正式に認めたものでしょう。
それによると平九郎は成一郎や惇忠とはぐれたあと、ドラマでもあったように農家に
匿われます。そのとき持っていた銃と太刀を置いてゆき、月代を剃って町人風の変装と
なっています。農家を出た平九郎は峠の茶屋に寄りますが、平九郎が江戸の脱走兵
と察した店の主人から官軍の通行しない間道を進むことを勧められます。しかし、平九郎
はこれを聞かず北に向かって進み、敵に遭遇してしまいます。
平九郎が会ったのは芸州広島藩の神機隊です。彼らは飯能戦争には参加しておらず、
残党狩りに出されていました。彼らは薩摩や長州と違って、戊辰戦争の早期解決を目的
とした部隊だったので、ドラマのような平九郎をなぶり殺しにするようなことはしなかった
はず。悪く盛り過ぎ、との意見をTwitterでも見かけました。

ただ、「渋沢平九郎昌忠伝」には、「盤石ニ踞シ前ニ臥シタル昌忠ノ屍ニ銃丸ヲ乱発シ」
とあるので、演出もまぁ、わりと合っているのかなと思っています。
平九郎は変装を見破られて、すぐに敵兵の腕を斬り落としているので、仲間をやられた
方とすれば頭に血も上るでしょう。神機隊の組織がどうであったとしても、個々の戦場に
おいてはそれぞれだと思います。
だけど、惇忠はその場にいなかったのだから想像で書いたのではないか、と思われる
方もいるかもしれません。
ですが、このときの平九郎の強さに感服した神機隊の河合鱗三という隊士が平九郎の
遺品を保管しており、明治26年(1893)になって渋沢家に返却されているのです。
兜町にあった栄一の屋敷で栄一や惇忠らと、その河合氏らが歓談したとのことです
から、平九郎最期の様子はおおむね正しく伝わっていると思います。
さて、松島で成一郎と再会した於菟之輔ですが、やはりそのまま箱館に渡ったので
しょうか?
答えはNO。
彼はフランスに渡って仲介を頼む目的を捨ててなかったのですね。
スネルの船で横浜に着いた於菟之輔は、しばらく隠れたあと、小石川の高橋泥舟
の屋敷に向かいました。え?やめときゃいいのにって?
泥舟は諭すように言いました。
「君公は今、駿府に謹慎しておられる。幕臣だった者は無禄でもいいからと駿府に
移住を願っている者が多い、なぁ、須永よ、お前は彰義隊に関係あるによって、
この江戸におっては捕縛されてしまう。すぐに拙者と駿府へ参ろう」
この言葉が効いたのか、於菟之輔は駿府へ移住。以降名前を以前の伝蔵に戻し、
明治13年からは箱根仙石原での牧場経営などに従事しました。
「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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PC閲覧での当ブログのテンプレートが崩れてしまいまして。
フォロワー様からもご指摘いただいていたのですが、以前もこんなことがあり、
ひと月ほどで直ったりしていたので今回もやがて直るだろうと軽く見ていたの
ですが、どうも直る気配が無いようです・・・。
そこでテンプレートを変えてみました。
以前も1回変えたことがあるんですが、見づらくなったとの意見もあったので、
今回はすごくシンプルなものにしてみました。
しばらく、コチラでいってみます。
・・・と、今回の記事がこれだけだと寂しいので。
「青天を衝け」オリンピックで中断中ですが、渋沢成一郎について小ネタを一つ。

成一郎はこのように本人の写真が残っているのですが、これはおそらく大蔵省に
出仕してイタリアに行ったときのものと思われます。
全身が写ってはいますが、一人でいるためどれくらいの身長だかわかりません。
実は成一郎についてはこんな証言もあるんです。
「渋沢は身長高く、頭は丸坊主で、眼光炯々(けいけい)人を射て、一見上野
山王台にある、彼の西郷の銅像と云ったような偉丈夫であるから、皆その威風
の堂々たるに壓(お)されて」
これは彰義隊にいた寺沢儭太郎が「幕末秘録」の中で書いている一節です。
かなり体格がよく、目つきも鋭かったようですね。坊主頭だったというのは意外
です。高良健吾、再現する?
写真を改めて見るとスーツの着こなしもジャストサイズで、なるほど体格は立派
だったのかなと思えます。
寺沢は続けて「我々の首領と仰がんには、かかる人をこそ」と書いており、その
姿もリーダーに推された理由としています。奥祐筆という役職だけが成一郎を
彰義隊頭取にさせたのではなかったのですね。
人間、やはり見た目も大事ね。
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