「青天を衝け」も平岡円四郎が亡くなってしまいました。篤太夫も成一郎もショック
だったことでしょうし、また武家の世界のことは平岡が頼りだっただけに不安にも駆ら
れたハズ。
ただ、この後平岡の後任を務めた黒川嘉兵衛が親切に対応してくれたので、大いに
助かったと「雨夜譚」に書かれています。
ここまでのドラマのちょっとこぼれ話。
篤太夫が薩摩藩士・折田要蔵の元にスパイとして潜り込む話がありました。
篤太夫がどのようにして折田の信用を得て、その屋敷に入れたのかはドラマでは
何となく簿化されておりました。
実は川村恵十郎の知り合いに小田井蔵太という者幕臣がいて、この小田井が折田と
親しく、篤太夫のことを紹介してくれたのだとか。
で。この小田井蔵太。後に成一郎が去った後の彰義隊の頭に就任しております。
渋沢家一族とは縁のある人ですね。
もう一つ。
篤太夫、成一郎を「兄イ~」と慕う伝蔵という若者が出てきました。
作男のような形をしていますが、彼もまた篤太夫、成一郎の従兄弟であります。
上州新田郡の農家須永家に生まれましたが、父親が早くに亡くなったので、母親の実家
である渋沢中の家で育てられたというワケなのです。
篤太夫らの推挙で一橋家臣、後に幕臣。名前を於菟之輔に改めます。伴門五郎、本多
敏三郎と共に彰義隊の発起人となったのは、この人。注目していてください。
さて本題。
上野を離れた渋沢成一郎らの一派は成木道(青梅街道)を西に進み、田無村(西東京市)
に現れます。高岡槍太郎の日誌には一行が田無に入ったのは、慶応4年(1868)閏
4月19日としていますが、田無村を支配している江川太郎左衛門代官所が総督府に届け
出たところでは、それは同年5月1日としています。
ここに一つの謎があるのですが、上野から田無まではそれほど長い距離ではなく、当時の
人なら1~2日あれば来れる距離です。その間、成一郎らは何をしていたのでしょうか?
コレといった記録もなく判然としません。
実は以前、当ブログでも取り上げましたが、この当時多摩・狭山丘陵各地で旧幕府方、
新政府方、そのほかよく分からない多くの部隊が出現していました。中には仁義隊と
名乗る間宮金八郎率いる一隊が八王子や所沢に現れ、地域の村々に金穀を要求して
います。仁義隊はのちに名前を臥龍隊と改め、上野の彰義隊に合流しています。
そんな状況の中ですから、成一郎たちも何かしら他の部隊と連絡を取り合っていたのかも
しれません。
田無で成一郎らは隊号を「振武軍」と改めました。
振武軍は田無村の西光寺、密蔵院、観音寺に屯集。前出の江川代官所から総督府への
届け出には、人数はだんだんと増えて5月8日頃までには250人になっていたとか。

西光寺、密蔵院、観音寺は、明治8年(1875)に3寺合併して田無山総持寺となり
ました。現在、総持寺のある場所は西光寺のあった場所です。

境内にある大ケヤキは、嘉永3年(1850)に西光寺本堂を再建した際に記念として
植えられたもの。
渋沢成一郎も見ていたはずです。
振武軍はなぜ田無に屯集したのか?
彼らの最終的な目的地は他にあったと思われますが、「江戸より余り遠く隔離れぬ形勢
の地を占得て物の成行を窺う」との理由があったと、成一郎は後年語っています。
西光寺の正面には田無村名主の下田半兵衛の屋敷がありました。半兵衛が単なる豪農
というだけでなく、周辺の村々を統括する田無組合の惣代であったことも理由の一つ
だったかもしれません。
振武軍はこのまま田無村に5月12日まで滞在します。
彰義隊は旧幕府から市中警備の任務を与えられてからは、旧幕府からの賄料や経費が
出ていたはずで、慶喜が水戸へ去って勝海舟らが解散を促した後でも、寛永寺から
十分な資金が出ていました。
ところが、成一郎らはそこから(言い方は悪いですが)脱走してきたワケで、軍資金が十分
ではありませんでした。
田無村滞在中に振武軍が行ったこと。
それは、周辺の村々からの軍資金集めでした。
「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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