当ブログでは「青天を衝け」をきっかけに、より東大和市域に関係の深い渋沢成一郎
を追って記事を書いているワケですが、栄一は自分と成一郎との違いについて、
自分は一つ一つ目の前の課題を片付けながら進むタイプだが、成一郎は一足飛び
に先に進もうとすると語っています。
なるほど、彰義隊離脱後の成一郎を見ていると、そのような性格が彼を動かしていく
ような感じにも見えてきます。
田無村に入った振武軍ですが、ここは彼らの最終的な駐屯地ではありませんでした。
軍資金を調達するための中継地だったのです。
田無は金策をするにはもってこいの場所だったからです。
それはどういうことでしょう?
1800年代中頃から幕府は関東農村の支配強化と防犯を目的に、改革組合村と
いう制度を作っていました。これは、幕領・私領・寺社領の区別なく近隣の5、6ヶ村
をまとめて小組合とし、さらに小組合を10ほどにまとめた大組合を構成させるもの
でした。小組合の代表者は小惣代、大組合の代表者は大惣代と呼ばれます。
大惣代の村は石高も多く、交通の要所となる村が選ばれました。この村を寄場と
いい、寄場村の名主は寄場名主といいました。
幕府は何か村々に命令を出す場合、寄場村に通達すれば大組合から小組合、
小組合から各村々へと迅速に廻状が届くシステムを作ったワケです。
振武軍は軍資金調達にこのシステムを使いました。
田無村に入った翌日と思われる慶応4年(1868)5月2日、成一郎は周辺の大惣代
の村々に田無村に代表者をよこすように通達を出しました。それは扇町屋、日野、
拝島、所沢、府中、田無と、主だった多摩・狭山丘陵の寄場村でした。
命令を受けた寄場村では名主らが田無に向かいます。そこで振武軍から、自分たち
の組合に入っている村の名主をリストアップするように言われました。
一旦返された寄場名主らは、自分の村に小惣代を呼び寄せ各村々の名主の名前を
書き出させたリストを作り、それを振武軍に提出します。
振武軍・・・おそらく成一郎と尾高惇忠でしょう・・・は、このリストを基に各村の
名主、組頭などに軍資金の金額を割り当て、供出するように要求したのです。,
江戸では彰義隊と新政府軍がいつ戦争をするか時間の問題という切羽詰まった中で、
如何に効率よく資金を集めるか。
武州の改革組合村システムを知り尽くした成一郎や惇忠ならではの考えでした。
そして、この成一郎や惇忠の策を後押ししたのが、外ならぬ田無村名主で、田無
組合の大惣代だった下田半兵衛だったと思われます。
飯能市立博物館の企画展図録「飯能炎上」はこのように書きます。
「高岡槍太郎(振武軍隊士)は、半兵衛という名主が旧幕府方に尽力したことを記
しているし、下田自身も振武軍賄料を田無組合の村に割り付ける際、当村は大
混雑して一統が難渋している上に出金もあって迷惑と思うが、今度のことは『別格
之次第』なので、日限を守って出金してほしい、と述べている。」
田無村は「江戸からほどよい距離」「交通の要所」「寄場村であり改革組合村の
伝達システムを使える」「名主の協力が期待できる」、このような理由で振武軍が
駐屯地に選んだものと思われます。
さて、今週の「青天を衝け」。
渋沢篤太夫が新選組の土方歳三と、大沢源次(治)郎の捕縛に向かいました。
わりと地味な篤太夫の幕臣時代で、派手な見せ場のシーンです。
そのためでしょうか、不逞浪士らと刃を交える殺陣のシーンがありました。
しかし新選組と協力しての捕縛は事実なのですが、実際には大沢は無抵抗で
縛についたため、あのようなアクションシーンはなかったようです。
このエピソードは渋沢栄一の孫、市河晴子の「市河晴子筆記」に書かれていて、
これが出典かと思われますが、筆記には「この話も有名なので、よく書いてある
から」とあります。すでによく知られた話だったようです。
ただ、この筆記、全体に小説仕立てになっているため史料とするにはどうなんだ
ろう?ってちょっと思ってしまうんですよね。まぁ、晴子は祖父様(栄一)にちゃんと
添削してもらっているようなので、ウソは書いてないと思いますが。
ところがです。
栄一の自伝「雨夜譚」には、「新選組の隊長近藤勇に引合へ」大沢をどちらが
捕縛するのかを近藤と話し合い、実際に捕縛も「自分は近藤勇と共に寺院の
中に進み入って」と、一緒に行ったのは近藤勇だと言っているんですよね。
これ、どちらが正しいのでしょうか?
篤太夫が大沢捕縛について話し合ったのが近藤で、実際に捕縛に行ったのは土方
だったとすればいいのでしょうか?

捕縛した大沢を江戸に護送する役目を成一郎が命じられ、ここで成一郎は土方と
初対面。「そなたも渋沢か?」と土方は笑い、成一郎は不思議そうな顔をします。
これは創作かと思います。
後の土方と成一郎の未来につながる伏線としたようですね。
「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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「青天を衝け」も平岡円四郎が亡くなってしまいました。篤太夫も成一郎もショック
だったことでしょうし、また武家の世界のことは平岡が頼りだっただけに不安にも駆ら
れたハズ。
ただ、この後平岡の後任を務めた黒川嘉兵衛が親切に対応してくれたので、大いに
助かったと「雨夜譚」に書かれています。
ここまでのドラマのちょっとこぼれ話。
篤太夫が薩摩藩士・折田要蔵の元にスパイとして潜り込む話がありました。
篤太夫がどのようにして折田の信用を得て、その屋敷に入れたのかはドラマでは
何となく簿化されておりました。
実は川村恵十郎の知り合いに小田井蔵太という者幕臣がいて、この小田井が折田と
親しく、篤太夫のことを紹介してくれたのだとか。
で。この小田井蔵太。後に成一郎が去った後の彰義隊の頭に就任しております。
渋沢家一族とは縁のある人ですね。
もう一つ。
篤太夫、成一郎を「兄イ~」と慕う伝蔵という若者が出てきました。
作男のような形をしていますが、彼もまた篤太夫、成一郎の従兄弟であります。
上州新田郡の農家須永家に生まれましたが、父親が早くに亡くなったので、母親の実家
である渋沢中の家で育てられたというワケなのです。
篤太夫らの推挙で一橋家臣、後に幕臣。名前を於菟之輔に改めます。伴門五郎、本多
敏三郎と共に彰義隊の発起人となったのは、この人。注目していてください。
さて本題。
上野を離れた渋沢成一郎らの一派は成木道(青梅街道)を西に進み、田無村(西東京市)
に現れます。高岡槍太郎の日誌には一行が田無に入ったのは、慶応4年(1868)閏
4月19日としていますが、田無村を支配している江川太郎左衛門代官所が総督府に届け
出たところでは、それは同年5月1日としています。
ここに一つの謎があるのですが、上野から田無まではそれほど長い距離ではなく、当時の
人なら1~2日あれば来れる距離です。その間、成一郎らは何をしていたのでしょうか?
コレといった記録もなく判然としません。
実は以前、当ブログでも取り上げましたが、この当時多摩・狭山丘陵各地で旧幕府方、
新政府方、そのほかよく分からない多くの部隊が出現していました。中には仁義隊と
名乗る間宮金八郎率いる一隊が八王子や所沢に現れ、地域の村々に金穀を要求して
います。仁義隊はのちに名前を臥龍隊と改め、上野の彰義隊に合流しています。
そんな状況の中ですから、成一郎たちも何かしら他の部隊と連絡を取り合っていたのかも
しれません。
田無で成一郎らは隊号を「振武軍」と改めました。
振武軍は田無村の西光寺、密蔵院、観音寺に屯集。前出の江川代官所から総督府への
届け出には、人数はだんだんと増えて5月8日頃までには250人になっていたとか。

西光寺、密蔵院、観音寺は、明治8年(1875)に3寺合併して田無山総持寺となり
ました。現在、総持寺のある場所は西光寺のあった場所です。

境内にある大ケヤキは、嘉永3年(1850)に西光寺本堂を再建した際に記念として
植えられたもの。
渋沢成一郎も見ていたはずです。
振武軍はなぜ田無に屯集したのか?
彼らの最終的な目的地は他にあったと思われますが、「江戸より余り遠く隔離れぬ形勢
の地を占得て物の成行を窺う」との理由があったと、成一郎は後年語っています。
西光寺の正面には田無村名主の下田半兵衛の屋敷がありました。半兵衛が単なる豪農
というだけでなく、周辺の村々を統括する田無組合の惣代であったことも理由の一つ
だったかもしれません。
振武軍はこのまま田無村に5月12日まで滞在します。
彰義隊は旧幕府から市中警備の任務を与えられてからは、旧幕府からの賄料や経費が
出ていたはずで、慶喜が水戸へ去って勝海舟らが解散を促した後でも、寛永寺から
十分な資金が出ていました。
ところが、成一郎らはそこから(言い方は悪いですが)脱走してきたワケで、軍資金が十分
ではありませんでした。
田無村滞在中に振武軍が行ったこと。
それは、周辺の村々からの軍資金集めでした。
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