前回、話が横道に逸れましたが元に戻します。
渋沢成一郎が頭取、天野八郎が副頭取となり彰義隊はスタートしました。
しかし、この体制はすぐに問題を起こします。
それは成一郎と天野の立場の違い、あるいは性格の違いから来たのかもしれません。
まず成一郎ですが、彼は慶喜に見いだされ側近に抜擢された人間ですから、なんとか
慶喜の名誉を回復したい。彰義隊の隊士も一橋家臣や幕臣に限る、と彼は考えています。
慶喜に対する忠誠心が何よりも必要と考えたのです。
成一郎にとっては慶喜が謹慎することさえ納得できず、薩長と一戦を交えても構わない
くらいの覚悟でした。
ただ、江戸で官軍と戦っても不利なので、日光へ退却して立てこもることも考えました。
そのためには資金がいります。
成一郎は資金集めのため、江戸の豪商を呼び、金穀の供出を依頼したといいます。
一方の天野。こちらは一応幕臣ではありますが、慶喜との接点はほとんどありません。
彼が残した「斃休録」を読むと、天野の目には官軍とは暴徒が幼帝を擁して徳川を
朝敵と唱えたものに過ぎないと見ています。そして、主家が恭順謝罪をすると、幕閣の
賊吏は自分の安全を図って薄情柔弱であり、肚に据えかねる。越前や尾張といった
親藩までもが砲玉を向けることに耐え難い思いを抱くのです。
天野は浪人であろうが他藩の家臣であろうが、自分の考えに共鳴するものであれば
彰義隊に迎え入れました。
徳川家の存続こそが、多くの幕臣・徳川方の藩士たちを救うと考えたのです。
両者の考え方は似ているようで違います。
成一郎は慶喜の命と名誉が何より大事ですが、天野はそうでもありません。天野に
とって大事なのは徳川家の存続であり、そのトップは慶喜でなくとも徳川家の人間で
リーダーにふさわしければ良いのです。
アタマがそんな感じですから、彰義隊はすぐに成一郎派と天野派に分裂します。
隊士の数は当然ながら天野派が圧倒的に多い。天野派は浅草本願寺が手狭になった
ので上野寛永寺に移ります。慶喜警護のためでもありますが、寛永寺座主を務める
輪王寺宮公現法親王を味方に引き入れるというのも、その理由にあったと思います。
一方、成一郎派は寛永寺に入れず、本願寺に留まりました。
成一郎派は来るべき時のために、江戸の町家を回って軍資金を調達しました。
これが天野派には許せなかったようで「主君が恭順を示しているのだから、軍費を募る
のはやめろ」と申し入れました。
当初寛永寺では彰義隊を厄介に思っていたのですが、輪王寺宮が新政府から冷遇
されるや彰義隊にいろいろと便宜を図るようになっていったようです。なにせ寛永寺は
敷地も広いし金は唸るほどある。天野派は江戸市中から金穀を集めることは無かった
といいます。
それでも成一郎が軍資金を調達することをやめなかったため、両派は度々衝突。
と、以上は天野派の視点から見た両派の対立の理由。成一郎のカネにこだわる姿が
クローズアップされています。
しかし一方で、当時の彰義隊は市中で乱暴狼藉をはたらく者がいて、成一郎はその
ことに頭を悩ませていたといいます。つまり、天野は隊士の人選について非常にユル
かったので、身元の怪しい者もずいぶん集まってきていたのです。
この無秩序ぶりに嫌気がさした・・・というのが成一郎派の視点です。
両派の対立はどんどん深刻化してゆき、成一郎が天野派に拉致され軟禁されたり、
襲われたりする事態に。
そしてついに二派は分かれることになりました。
ちょうど慶応4年(1868)4月11日、慶喜が寛永寺を出て江戸から水戸へ退いた
タイミングでもありました。彰義隊は慶喜についていくことを許されませんでした。
どこから見ても好戦的集団ですから、謹慎を貫く慶喜の側に置くことはできなかった
のでしょう。
成一郎派の隊士高岡槍太郎の日誌には以下のようにあります。
「ある日彰義隊へスイス製の銃と弾丸が渡ってきたので、これらを持って上野を脱出
して志を立てようと渋沢成一郎より相談を受けた。これに同意して閏4月11日夜半に
上野の周囲板塀を乗り越えて、同志の者が弾を込めた。もしこれを見咎める者がいれば
撃ち殺してでも脱出する覚悟だったが、幸いに見咎める者はいなかった。」
かなり緊迫した脱出時の様子が語られています。また、高岡の証言によればこのときの
同志は20人だったとのこと。
また「彰義隊戦史」には
「成一郎曰く、誓って官軍とならざる事。誓って降伏せざる事の二項を(天野に)約し、
己と意見を同じくするする者と共に彰義隊を脱し去れり」
ともあります。
天野派はそのまま輪王寺宮警護の名目で寛永寺に駐屯し続けましたが、成一郎らは
何処へ向かったのか?
高岡槍太郎の日記には
「ここにおいて官軍に抗することを議論した。一つは会津に至り援助しようという意見。
一つは近郷に至りて多くの味方を募って官軍に抗しようという意見で、ついにこちら
に決した」
とあり、佐幕好戦的集団としての成一郎の立ち位置が見て取れます。
この時点で成一郎がどこを拠点にしようと考えていたのかは、分かりません。
ひとまず四谷の茶屋にて集会をしたようですが、いつまでも江戸にいては危険だと
判断したのでしょう。
新宿から成木道(青梅街道)を西へ。
向ったのは田無村(西東京市)でした。

総持寺(西東京市)
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前回の「青天を衝け」で、渋沢栄一と喜作は突然平岡円四郎から一橋家の家臣に
ならないか、と声を掛けられました。いよいよ二人の運命が動き出しそうです。
平岡に「なかなか見どころのあるヤツがいますよ」と栄一・喜作を紹介したのは、同僚
の川村恵十郎だといいます。前回の放送で栄一を円四郎の待つ長屋に引っ張り込んだ
人物、あれがそうですね。波岡一喜さんが演じています。

でも、ドラマでは栄一・喜作が川村恵十郎と知り合った話ってありましたっけ?
実は川村が二人を平岡に紹介したのは史実なのですが、川村がどこで二人を知ったのか
は、「渋沢栄一伝記史料」によっても不明なのだそうです。
そこで今回は、川村恵十郎がどこで栄一・喜作を知ったのかを推理してみたいと思います。
川村恵十郎は天保6年(1835)小仏関所番の幕臣川村文助の長子として、武州多摩郡
上長房村駒木野(現八王子市裏高尾町)に生まれます。(天保7年生とも)
21歳で小仏関所番見習となりますが、その後慶喜への建白書や平岡円四郎への農民募兵
の建言で才能が認められ、一橋家臣となります。慶喜が将軍になるとそのまま禄高
1000石を賜る旗下に列し、維新後は新政府に出仕しています。
彼の経歴の中で見逃せないのが、18歳の嘉永5年(1852)9月、天然理心流の松崎
和多五郎に入門しているということです。
天然理心流は二代目宗家近藤三助のあと、幾つかの派に分かれました。
新選組の知名度が高いので、試衛館の近藤派が中心だったと思われがちですが、八王子に
拠点を持っていた増田蔵六・松崎正作派に多くの門人が集まりました。
その理由としては、三助が八王子の戸吹村出身であったこと、増田・松崎が八王子千人
同心であり、千人同心が多摩各地へ拡散するに従い同派も広がっていったと思われます。
惠十郎は千人同心ではありませんが、同派に入門するのは自然な流れだったのでしょう。
天然理心流では上達の段階を示す伝授として切紙、目録と続きますが、平均して入門から
目録まで3年を要したようです。しかし惠十郎は入門から1年半で目録伝授まで行って
ますので、剣の技術は高かったものと推察します。
なお、後に同じ天然理心流の小野田東市に入門していますが、この移動の理由はわかり
ません。小野田は天然理心流の系統上は浦賀奉行所の中島三郎助と兄弟弟子になります。
また、講武所師範にもなっていますので相当な遣い手だったのでしょうね。天然理心流で
講武所師範となったのは小野田だけです。
さて、ここでもう一人。
血洗島で栄一、喜作、尾高惇忠らの横浜外国人居留地襲撃計画に参加していた人物。
剣術師の真田範之介です。ドラマでは板橋駿谷さんが演じています。

朝ドラ「なつぞら」で主人公なつ(広瀬すず)の通う高校の番長を、30歳という年齢で
演じて話題になった板橋さん。
ドラマでは北辰一刀流の達人と紹介されていますが、その経歴を見てみましょう。
範之介は天保5年(1834)、武州多摩郡左入村(現八王子市左入町)の名主の子
として生まれます。本名は小峰軍司。
当時多摩の村役人の子弟には必然的かもしれませんが、彼も剣術を習います。
流派は北辰一刀流かと思いきや、実はそうではないんですね。
嘉永5年2月、彼もまた天然理心流松崎和多五郎に入門するのです。
つまり、範之介と惠十郎は年齢も近く、同じ時期に松崎門下生だったことになります。
範之介は1年2ヶ月で目録、さらにその1年7ヶ月後には目録の上の中極意目録まで
伝授されています。通常目録から中極意目録までは平均3年2ヶ月かかったらしいので、
範之介の技術の高さが伺えます。
安政2年(1855)正月に、増田蔵六の高弟である山本満次郎に入門。
ところが、翌3年(1856)4月、相州鎌倉郡平戸村の直新影流萩原連之助道場を訪
れた際の剣客名簿には「北辰一刀流千葉周作門人 真田範之介」と記しています。
つまり、何があったのか分かりませんが、山本道場に通う1年の間に流派と名前を
変えたということになります。
千葉周作の玄武館では塾頭を務めていたので、やはり技術はあったのでしょう。
安政7年(1860)3月、秋川神明社に松崎和多五郎が奉納額を納めていますが、客分
として範之介も名を連ねていることから、流派は変えても天然理心流とは円満な関係
であったようです。
「青天を衝け」の中で触れられてはいませんが、川村恵十郎と真田範之介は顔見知り
だった可能性は非常に高いといえましょう。
その確証を高めるもう一つのポイントがあります。
それは「武術英名録」です。
これは万延元年(1860)8月に刊行された、江戸市中を除いた関東各地の名前の
知られた剣術家を載せた、まぁ今でいえばプロ野球選手名鑑のようなモノです。
この編集をしたのが、無双刀流の江川主殿輔と北辰一刀流の真田範之介でした。
英名録というのは、編者が過去に手合わせをした人から選ぶのが通例だそうですが、
この「武術英名録」の中に「天然理心流 川村恵十郎 駒木野宿」という記載がある
のです。
恵十郎を選んだのは範之介で間違いないでしょう。
範之介が恵十郎の剣の実力を認めているということは、和多五郎道場にいた入門
当時ではなく、範之介が北辰一刀流に流派を変えたのちもお互いの交流があった
ことを匂わせます。
ここで一つの推論ですが。
渋沢栄一・喜作の存在を川村恵十郎に教えたのは、真田範之介ではないでしょうか。
栄一は範之介のいた千葉道場に通っていましたし、千葉周作が剣術師範をして
いた縁で千葉道場と水戸藩は繋がりが深い。
慶喜が優秀な家臣を探していると聞けば、範之介は栄一らを恵十郎に紹介したの
ではないでしょうか。範之介は慶喜が斉昭の意を継ぐものと思っていたでしょうから。
以上はあくまでもワタクシの妄想でありますが、さて「青天を衝け」ではどんな説明を
つけてくれるのでしょうか?
さて、ここからは蛇足。
真田範之介には年の離れた弟がいました。安政元年(1854)生まれ、範之介が
元治元年(1864)に新徴組と斬り合って死んだときにはまだ11歳だったので、
もしかすると顔も覚えてないかも・・・ですが。
弟の名前は敷島文雄といい、彼もまた北辰一刀流の剣を学びます。
後に八王子で「錬武館」という道場を開き、多くの門弟を育てたようです。
敷島が明治19年(1886)9月1日に埼玉県所沢市の山口千手観音に奉納額を
納めていると知りました。
山口観音といえば、東大和市のワタクシの自宅から自転車ですぐの距離。
早速見に行ってみました。

正式には吾庵山金乗院。弘仁年間(810~824)に開かれた伝承をもつ古刹です。
新田義貞が鎌倉を攻める途中で立ち寄り、勝利を祈願したといいます。

本堂にはいくつもの奉納額がありますが、書かれた文字がすべて読めなくなって
います。
しかし、お目当ての錬武館の奉納額は人目につかない壁の奥(矢印)にありました。

コチラがその奉納額です。
かなり文字が薄くなっていますが、陽に当たってないだけうっすらと文字が見えます。
門人230人の名前があるそうです。
かなり遠ーーーーーーい関係ですが、真田範之介と地元との縁を見つけました。
「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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