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和歌山城と郵便保護銃

東京の緊急事態宣言が解除になったから、というワケでもないのですが、和歌山に
行ってきました。

昨年秋に大学時代の後輩が病気で亡くなり(新型コロナではない)ました。
ワタクシの1学年下で、住んでいたアパートも隣の部屋。同じ演劇部で一緒に芝居
をつくった仲間でありました。
すぐ葬儀に駆け付けたかったのではありますが、昨今の世の中の状況とご親族から
家族葬で行うのでとの連絡もあり、お別れを言いたい気持ちをずっと抑えておりました。
しかし、宣言が明けたタイミングでもあり、ご親族の了解を得て他の友人ら4人とで
後輩の故郷和歌山へ、最後のお別れに行ってきたのであります。

土曜日に和歌山の簑島に行きました。
そこが後輩の実家で、ご親族に温かく迎えていただき、最後のお別れをしてきました。
まぁ、その話はこのブログではいいでしょう。

その日は和歌山市内に宿を取り、翌日は少し観光でもして帰ろうということになり、
向かったのが和歌山城であります。

当日は桜が満開!
ただ、朝から雨が降ったりやんだり・・・という天気だったのが残念ではありました。
その代わり観光客も少なめで、ゆっくりと見学できましたけど。

和歌山城天守

天守は空襲で焼けて、戦後の再建なのが残念ですが・・・

和歌山城石垣2

この野面積みの石垣はスゴイね。迫力あります。
駐車場から天守台まで登る新裏坂から見上げた天守台の郭の石垣。
これだけ石と石の間から木が生えているということは、豊臣秀長時代の古い石垣なので
しょうか?

和歌山城石垣3

この木はいつ頃から石垣と一緒に?

所々、ミドリ色に見える石は緑色片岩という石。紀州青石ともいって地元で取れる石
なんですね。
そういえば、徳島城の石垣もこの緑色片岩でした。徳島は和歌山の対岸ですから
近いといえば近いですね。

天守は鉄筋コンクリートによる外観復元なので、外側だけ楽しむ格好ですが、中は
資料館になっているので、それはそれで楽しめます。
展示している資料のほとんどが紀州徳川家の家宝・・・武具、書画、生活用具だったり
するのですが、中でもワタクシが興味をソソられたのが1挺の拳銃です。

郵便保護銃

火縄銃や幕末期のモノとみられる拳銃がいくつかある中に、上の写真の銃があり
ました。
「郵便保護銃」
明治初期、郵便制度ができるとその郵便物を略奪しようとする輩がいたために、明治
6年(1873)政府は郵便局員に拳銃の携帯を許可したんだそうです。
恥ずかしながら、ワタクシこのことを初めて知りました。
で、写真の銃がその郵便保護銃というんだそうです。
見たところ、先込め式の雷管銃でしょうか。

明治6年というと、失業した武士も大勢いたでしょうし、廃刀令もまだ出てはいませんから
郵便物・・・特に現金書留など狙われることは多かったようです。
江戸時代も旅をするときには護身用に脇差を1本持つことは許されていましたから、その
流れで考えれば、刀よりも護身力に勝る拳銃を持っていたというのは分からないでも
ないですが。

帰宅してさらにちょっと調べてみると、この郵便局員が拳銃を携帯できる規則を「短銃
取扱規則」というんだそうですが、この規則は昭和24年(1949)年に逓信省が郵政省に
改変されるまで生きていたらしいんですね。
戦後、しばらくまで郵便局員は拳銃を携帯できてたのか~・・・

ということで、和歌山で後輩に別れを告げたあと、思いがけない勉強をさせていただき
ました。

和歌山城と桜

大天守から満開の桜と乾櫓を経て和歌山市街を望む。


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[ 2021/03/31 ] 旅の思い出 | TB(0) | CM(2)

桜の話

この記事は2021年3月23日に書いていますが、昨日仕事で都内を歩いていると、
桜が七、八分まで咲いている所がありました。今日は陽射しもあって日中は暖か
だったので、一気に満開まで行った所もあったでしょう。

ところがワタクシの住んでおります東大和市は「東京の軽井沢」と呼ばれている
所(笑)ですので、多摩湖周辺のまだまだ桜も二分三分咲きといったところです。
最近は日中の気温が高いので、今週末がちょうど見頃を迎えるかも知れません。

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多摩湖(村山貯水池)周辺は桜の木が多く植えられています。桜の種類としては
ソメイヨシノ、ヤマザクラ、サトザクラなど数種が植えられていますが、この
季節のメインとなるのは、やはりソメイヨシノでしょう。
これはどこの地域でも同じでしょうけどね。

ソメイヨシノは江戸末期に、江戸染井村(豊島区駒込)の植木職人が作り出した
と云うのはよく知られています。
江戸時代までは和歌に度々詠まれた大和の吉野山にちなんで「吉野桜」として
売られ広まりました。
ところが明治になって、植物学者の藤野寄命(よりなが)が「こいつぁタダのヤマ
ザクラじゃねぇ」ことに気づき、エドヒガンとオオシマザクラの交配新種である
ことを発見。染井村の名を取りソメイヨシノと名付けられました。

奈良時代の万葉集には梅を詠んだ歌が110首、桜の歌は43首あるそうですが、
古今和歌集では桜が70首、梅が18首となり、平安時代に花見の主役が逆転したと
云われています。

花見の習慣が庶民に広まったのは、江戸時代。
天海大僧正が上野寛永寺の境内に植えた桜が名所となりました。しかしお寺の敷地
内なので酒宴や歌舞音曲は禁止です。
それじゃあ庶民は楽しめまい、と云うことで暴れん坊将軍吉宗が享保5年(1720)
に隅田川堤や飛鳥山へ桜を植えさせて、庶民の行楽を奨励したのです。これが今に
続く日本の春の景色として定着したわけです。
もっとも、当時吉宗は享保の改革で庶民にも緊縮生活を強いていた最中であり、その
ガス抜きで花見を奨めたとも云われています。

江戸時代の桜エピソードでスゲーな、と思うのは吉原の桜でしょう。
毎年3月1日に染井村から根付の桜を運んでメインストリートに移し植え、花が散った
らさっさと抜いて翌年また植える、それを明治初期まで繰り返していたのです。

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歌川広重「江戸名所 吉原仲の町桜時」

大変な労力と大きな無駄・・・とも思いますが、それだけ吉原は現実離れした
夢の世界だったのでしょう。
この吉原の桜は、今も歌舞伎の世界で見ることができます。
「籠釣瓶花街酔醒」(かごつるべさとのえいざめ)という芝居で、厳密には3代目
河竹新七が明治になって書いた戯曲ですが、冒頭に桜が満開の中を花魁道中が通る
シーンがあり、江戸吉原らしい見所の一つとなっています。
当代中村吉右衛門の代表作でもあり、機会があればぜひご覧あれ。

そんな江戸の人々を楽しませた桜ですが、明治に入り、桜が植えられていた庭園
や大名屋敷が次々と取り壊され、桜も焚き木とされたため、多くの品種が絶滅の
危機に瀕してしまいます。
こんな状況を憂いた駒込の植木職人高木孫右衛門が、自宅の庭に移植して84品種
を守り、明治19年(1886)に荒川堤に桜並木をつくり、以降花見の新名所として
定着させたそうです。

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さて、冒頭にご紹介した多摩湖の桜ですが、昭和9年(1934)に服部時計店(現
SEIKO)社長の服部金太郎氏が亡くなります。その翌年、遺族から1万本の桜木の
寄付があり、人々が多く集まる貯水池の周囲に植えられたのが始まりです。
当時はね、都心から1泊で来るような観光地だったんですよ。
東京の軽井沢もまんざらウソではない。

ところでソメイヨシノは人の手で作られた桜だと言いましたが、自家和合性に
劣り、種子から発芽することができません。自分で子孫を増やすことができない
品種なのです。
つまり、現在世界中にあるソメイヨシノはかなり限られた数の原木から接木された
クローンである、と云うことになります。
このことが一斉に開花して、花見を盛り上げる理由ともなっているのですが、一方
で特定の病気にかかりやすく、環境変化に弱い理由にもなっています。
寿命も60〜80年と短く、中が空洞となった桜が台風などで折れて電線を切ったり
するケースも多いですよね。

実は多摩湖周囲のソメイヨシノも、寿命の来たものから切られており、現在は新しく
植えられた若木に代わっている最中です。
そのため、この数年は多摩湖に来られても迫力満点の桜はしばらく見られないかも
知れませんが、そこは暖かい目でこれからの桜の成長を見守って欲しいと思います。

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公益財団法人日本の花会では、2009年から病気に弱いソメイヨシノの苗木販売を
中止し、替わって病気に強く、花の色や開花時期がソメイヨシノと類似する
ジンダイアケボノへの植え替えを推奨しているそうです。



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[ 2021/03/23 ] 東大和市内散策 | TB(0) | CM(0)

「青天を衝け」幕末多摩ひがしやまと流見方④

いきなりなんですが、PCが壊れてしまいました。
もうかなり長い間使っているモノなので、最近は動作が不安定でもあり、
新しいPCを発注した矢先のことでした。
ということで、大事なデータは外付けのHDDに保存した後だったので、
それは問題ないのですが、しばらくはこちらのブログもスマホかiPadで
閲覧したり書いたりになります。
使い慣れてないと...ホント不便^^;
一応、Bluetoothのキーボードを買っておいて良かったです。

さて、前回の「青天を衝け」。
安政の大地震が起きて、水戸藩の藤田東湖が亡くなってしまいました。
せっかくの渡辺いっけいの登用、もう見られなくなるのは惜しいとは思い
ますが、まぁ史実ですから仕方がない。

東湖が地震に巻き込まれたのは江戸の水戸藩邸。現在の後楽園ですね。
やや東京ドームに近い場所だと思います。
東湖さん、最初は地震の被害を免れたのですが、お母さんがまだ家の中に
残っていることを知るや再び家の中へ引き返します。そしてお母さんを
救うために柱の下敷きになって圧死してしまうんですね。

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後楽園の敷地内にある藤田東湖の顕彰碑。「護母」の文字が見えます。

今回の話では代官(藩)からのムチャな御用金取り立てに怒りまくる栄一と、
惇忠、喜作(成一郎)でした。しかし後年、同じムチャな要求をそのうちの
2人がするとは夢にも思わなかったことでしょう。

パリ万博に随行した栄一ですが、そのまま日本に残っていれば彰義隊に参加
して戊辰戦争に身を投じていた可能性がかなり高かったんじゃないでしょうか。
栄一は幕臣時代のほとんどを海外で過ごしましたが、渡航前は陸軍奉行支配
調役という役に付いていました。
この時代の栄一のエピソードとしては、京都で新選組の土方歳三と共同で捕物
を行う話が有名です。それはドラマでも扱うでしょうから、楽しみに待ちましょう。

ここで注目したいのが「陸軍奉行支配調役」という役職です。
栄一と同じく成一郎もこの役職に就き、その後奥祐筆格に出世しています。
二人とも能力が高く、慶喜からの信任も厚かったということでしょうね。

鳥羽・伏見の戦いの直後、慶応4年(1868)1月14日、幕臣の伴門五郎、本多
敏三郎、須永於菟之輔の3人が幕閣に建言書を提出します。その中身は今後の政局
についてで、徳川家を中心に全国から有能な者を身分の上下なく募り、集議所
(現在でいう所の議会)を作って、挙国一致体制を図るというものでした。
しかし、これは取り上げられませんでした。

同年2月12日、謹慎の意を示すため、義信が東叡山寛永寺に入ります。

同日、雑司ヶ谷に伴ら一橋時代からの慶喜に近い幕臣らが会合を持ちました。
会合に先立ち、伴や本多、須永らは旧幕府の撒兵方に慶喜にかけられた逆賊の嫌疑
を晴らし、命を賭して主君を護ろうという内容の檄文を送っていました。
撒兵方とはフランス式調練を受けた、幕府の陸軍歩兵隊です。

伴、本多、須永はそれぞれ幕府の陸軍調役でした。いずれも慶喜が一橋時代から
目をかけてきていた者たちです。ついでに言えば、須永於菟之輔は栄一と成一郎が
一橋家にスカウトされた時に、同じく一橋家に取り立てられた彼らの従兄弟です。

この3人が会合のまとめ役と期待していたのが、陸軍奉行支配調役から奥祐筆格と
なった成一郎でした。
皆同じような身分から慶喜に取り立てられ、その中で一番の出世頭だったのが成一郎
だったからでしょう。
もし、栄一が日本にいれば当然、伴らは栄一にもこの話を持ってきていたハズです。


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[ 2021/03/18 ] 大河ドラマ | TB(0) | CM(0)

「青天を衝け」幕末多摩ひがしやまと流見方③

「青天を衝け」第3話ではいよいよペリーがやって来て、日米和親条約が締結
されました。
残念だったのは、従来のごとく「幕府がアメリカの砲艦外交に屈して」開港した
と演出されていた所ですねぇ・・・。開港通商を要求してきた軍人ペリーに対して、
幕府は林大学頭を筆頭に学者と官僚が国際法を分析して、日本の主張を押し
通し、人命救助や食料の供給など人権保護の面で開港を譲歩したと、そろそろ
視点を修正してもいいだろうと思うのですが。

あと、お台場設置を評議しているシーンがチラっとありましたので、「江川太郎
左衛門登場か!?」と期待しましたが、全く出てきませんでしたね(泣)

ただ、ドラマにも描かれていたように、岡部藩の要求に苦しんでいた当時の
渋沢栄一や喜作の眼から見れば、幕府がアメリカの軍事力に屈して港を開いた
と理解したとしても、無理なからぬことだったでしょう。

「商売は面白ぇだにー」と将来の実業家を匂わせる栄一に対し、「オレは剣術で
身を立ててぇ」と喜作は千代に語ります。
これもまた、将来喜作こと渋沢成一郎が彰義隊結成を匂わせるシーンでした。

ココから先はネタバレ御免。
まぁ、150年前の史実ですから、ネタバレもナニも無いのですがw

同じような環境に育ち、同じように一橋家臣となり、そのままエスカレーター式に
幕臣となった栄一と成一郎の2人ですが、運命の分かれ道がやってきます。

それが慶応3年(1867)4月から開幕したパリ万国博覧会です。

この万博は日本が初めて参加した万博で、幕府の代表として慶喜の弟・徳川昭武
がパリに派遣されました。昭武は当時15歳、空き家になっていた御三卿の一つ
清水家の当主に収まっておりました。

御三卿というのは大名と異なり、将軍の家族という認識です。
大名は世継ぎがいなければ断絶ですが、御三卿はただ空き家になるだけ。また
そこに徳川の身内で適任者がいれば、そこの当主に入ります。
昭武が入る前も、清水家は20年間当主が不在でした。

まぁ、そんなシステムですから大名家や大身旗本家のように十分な家臣団がおり
ません。なので、昭武の随行員は幕府から選り優りのエキスパートが選ばれました。

その中の一人に栄一が選ばれたのです。仕事は会計方。栄一にピッタリの仕事。
このとき共に選ばれた幕臣には、維新後に外交官として活躍する田辺太一や
法政大学の前身・和仏法律学校の初代校長を務める箕作麟祥、箱館戦争の際に
日本で初めて赤十字活動を行った高松凌雲など、錚々たる面々でした。

ちなみにこのとき、栄一は千代と結婚し娘が一人いましたが、跡継ぎがいない。
生きて帰れなかった場合、家を継ぐ者がいないというのは幕臣としてできない
こと・・・ということで千代の弟で栄一には従弟に当たる尾高平九郎を見立養子
に迎えております。

一方の成一郎は何をしていたか?
彼は彼で将軍慶喜の信任を得て、陸軍奉行支配調役から奥右筆格に取り立て
られています。現代で言うなら秘書室長ですから、彼もまた優秀だったということ
ですね。

しかし、時代はいよいよ大政奉還から王政復古の大号令、そして鳥羽・伏見の
戦いへと突入していきます。
この情報はヨーロッパにいる昭武らにも伝わりますが、航空機のない時代、どう
できるものでもありません。栄一も気が気ではなかったでしょう。

成一郎は敗色濃くなった鳥羽・伏見の戦いでも、活躍します。
といっても、若い頃に誓った剣の腕ではなく、事務方として能力を発揮。
続々と大坂へ引き上げてくる幕兵を、江戸に還さなければ、いけない。成一郎は
紀州藩と談判し、大型船の明光丸を借り受け、慶喜に置いてきぼりにされた
幕臣らの帰路の監督に汗を流していたのです。

栄一らパリ万博御一行様が、ようやく横浜に帰り着いたのは慶応4年(1868)
11月3日。
すでに幕府は無く、船から横浜港に降りたった栄一の胸に去来するものは何だった
のでしょうか。


吉沢亮a角野卓造a

突然クイズです。
上写真の2人の共通点は何でしょう?





答えは

大河ドラマで渋沢栄一を演じた人。

左は「青天を衝け」の主役、吉沢亮さん。

右は「獅子の時代」でちょっと出て来た、角野「幸楽」卓造氏。

リアルな渋沢栄一は右の方が近いのかな・・・?


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[ 2021/03/10 ] 大河ドラマ | TB(0) | CM(0)