まだまだコロナは完全に終息に向かってはいませんが、スポーツ、エンタメと随所で
徐々にではありますが復活の動きが出ております。
ワタクシもこの秋から江戸講座を復活させていただくこととなりました。
江戸楽アカデミーの秋期講座、9月19日の「これだけは覚えておきたい!江戸時代の
外国人47人」と10月3日の「たっぷり!くわしく!江戸の歌舞伎」で、受講される
方々の前でお話をさせていただきます。
一応、江戸文化歴史検定対策講座ということになっております。
ちなみに、こちらの両講座とも告知即ソルドアウトになりました。
ありがとうございます。
江戸時代についての講座ではありますが、外国人と歌舞伎と、共通性は全くない両
テーマです。
もちろん、それぞれ全く別のテーマとして講座ではお話するワケですが、実は都内には
その2つ・・・つまり、江戸時代に来日した外国人と江戸歌舞伎の両方に共通した史跡
となっている場所があるのです。
それがコチラ。

東京駅八重洲中央口からまっすぐ東に走る八重洲通りの中央分離帯にある
レリーフ。ご存知の方も多いかと思います。
これは江戸時代初期に漂流民としてやってきて、後に徳川家康のブレーンとなった
オランダ人、ヤン・ヨーステンを記念したレリーフです。

八重洲という地名がヤン・ヨーステンの屋敷から取ったことは有名な話です。
元々は和田倉門から日比谷にかけて彼の名前をとり、「八代洲(やよす)河岸」と
呼んだのが始まり。八代洲がそのうち言い易い八重洲に変わったわけですね。
つまり、ヤン・ヨーステンの屋敷は現在の八重洲よりももっと江戸城に近い千代田区
側にあったということです。
ところが昭和4年(1929)に地名変更が行われ、八重洲は丸の内に変わります。
これを戦後、もう一度八重洲の名称を残したいということで、お隣の中央区側に
地名を復活させたということなのです。
ということで、このレリーフは本当はもうちょっと東京駅側にあるといいと思うのだ
けれど(第一今のこの場所も地名は日本橋だしね^^;)、まぁ、真っ直ぐ見れば
八重洲だし良しとしましょうか。
ところで我が家のポンちゃんをはじめとしてヤン・ヨーステンは名前がヤンで、苗字
がヨーステンだと思っている人が多いんじゃないでしょうか?
彼のフルネームはヤン・ヨーステン・ファン・ローデンスタイン。ヤン・ヨーステンは
名前の部分だけなのです。
「てやんでぃ、こちとら江戸っ子、そんな長ったらしい苗字覚えてられっかよォ!」
昔、西武ライオンズにホイットフィールドって外国人選手が入団して、電光掲示板に
表示しきれないから、名前の「テリー」が登録名になった例がありますが、同じかんじ?
ハイ、次。
このヤン・ヨーステンのレリーフがあるのは八重洲通りと国道15号の交差する「日本
橋三丁目交差点」です。

江戸時代のかなり初期の頃、写真の左右に延びる八重洲通りは紅葉川という
川でした。ですから、この交差点は当時は橋が架かっていたのです。
日本橋と京橋の中間にあるところから中橋と呼ばれていました。
寛永元年(1624)猿若勘三郎(初代中村勘三郎)がこの中橋の南詰(中橋
南地)に猿若座という芝居小屋を出します。
これが江戸で最初の歌舞伎芝居小屋「中村座」になるワケです。
おそらくなんですが、ワタクシのカメラを持った位置が中橋の南詰になりますので、
中村座があったのはこの辺りかな・・・と推測いたします。
この写真の場所、日本橋三丁目交差点は外国人ヤン・ヨーステンと江戸歌舞伎
発祥の地という、2つの史跡が重なった場所というワケです。
もっとも、ヤンちゃんの家のあった場所はもうちょっと西だけど。
ちなみにこちらは「江戸歌舞伎発祥の地碑」

京橋の首都高速真下にあります。
どうせなら、ヤン・ヨーステンのレリーフのある中央分離帯に置けば良かったのに、
と思っています。
「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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