東京都の休業要請がステップ2→3に移行して、また感染者が増えてきた
ように感じますが、かといって爆発的に広がっているワケでもないようですし、
日々少しづつではありますが行動範囲を広げつつあるところです。
さて、前回子供を飲み込んだ大蛇の池(現防火水槽)をご紹介しましたが、
今回はその北側にある神社をご紹介しましょう。
大蛇が封じ込められたのも、おそらくこの神社でしょう。
厳島神社です。
石造りの鳥居の奥に、昔建てられていた旧鳥居の礎石のみが残ります。
神社について「新編武蔵風土記稿」には、こう書かれています。
「弁天社除地、字弁天山にあり、一尺五寸の小祠にて、二間四方の上屋を設く、
寛永六年鎮座せしといへど、其詳なることを伝えず」江戸時代までは弁天社と言われていました。社があるのは弁天山、大蛇が
現れたのは弁天池。弁才天は水辺に住む神様ですから納得です。
蔵敷村の名主を務めた内野家の伝承によれば創建は永禄12年(1569)と
云われ、かつて私有地に祠を建てて奉斎し、内野家の守護神として祀ったのが
始まりといいます。
一方で、近くの小嶋家の古文書では創建は天正6年(1588)とし、祭神に水の
神として崇められた市杵島姫命(イチキシマヒメ)を祀るが、農耕の守護神として
勧請されたとあります。
神仏習合では市杵島姫命と弁才天は同一されますから、弁天様と呼称された
のでしょう。

鳥居から続く弁天山の石段を登っていきます。
東大和市域の神社の中では、一番雰囲気のあるロケーションを持っている
神社です。
これなら江戸時代には大蛇が棲んでいそうです。

境内は広くなく、こじんまりとしています。
手前が拝殿、奥に拝殿と分かれて本殿があります。
熊野神社のところでも触れましたが、明治の神仏分離により弁才天は切り
離され、厳島神社として改められました。広島宮嶋の厳島神社など、そう
いう例は全国に多いようです。

かつての神仏習合を表わすように、弁天山の下には墓地があり、その側には
五輪塔が建っています。
側面には明治41年(1908)に内野家が建てたと刻んであります。
弁天山の麓は谷津になっています。
谷津は山で溜まった雨水が湧き水となって出てくるところ。人が住むにも適した
場所ですが、多くの生き物も暮らしています。

この場所は希少生物であるトウキョウサンショウウオの産卵場所になっています。
他の動物に荒らされないように金網で囲い、近所の小学校も含めて保護活動に
あたっています。
上の写真は数年前に撮ったものですが・・・

先日訪れたらこんなコトになってました。
昨年の台風19号で斜面が崩れてしまったとのことです。
あぁ・・・サンショウウオの産卵場所が、、、
まぁ、産卵場所は近隣でもココだけではないでしょうし、どこかで命をつないでいて
くれていることを願います。
がんばれ、トウキョウサンショウウオ!
今年の夏も豪雨、台風が心配です。。。
「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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