日本国中、どこの地方にも未確認生物(UMA)というものはいるようです。
水木しげる先生の「妖怪事典」を読みますと、それがよく分かります。
まぁ、妖怪とUMAは違うものかも知れませんが、生物系の妖怪はUMAと
いう括りでいいんじゃないかとワタクシは考えております。
で、当ブログの舞台、東京都東大和市ですが、ここにもUMA伝承が残って
おりますので、今回はそのエピソードをお散歩がてらご紹介。
以前ご案内した熊野神社を少し西へ行くと、厳島神社の前に出ます。
この神社はまた後日ご案内するとして、青梅街道から神社へ入る手前に
こんなコンクリートで固められた一角があります。

ここはかつて弁天池と呼ばれた沼地があったそうです。大きさは現在の
青梅街道(写真左側)まであり、湧き水が枯れることはなく、鯉や亀など
の生きものもたくさんいた、きれいな池だったそうです。
昔、この池で子供が遊んでいると、側の山から大蛇が出てきて子供に
近づき、アッという間にその子を飲み込んでしまいました。
慌てた村人が駆けつけると、大蛇の口から子供の着ていた着物のつけ
ひもが、だらりと垂れ下がっていたといいます。
大蛇は動けなくなっていたのでしょうか、その場で取り押さえられてしまい、
神主が狩衣でくるみ、唐櫃に入れて、大きな石の押さえ蓋をして神社の
下に封印してしまったそうです。
子供が何歳くらいだったのか伝わってはいませんが、3歳や4歳くらいだった
としても、それを一飲みしたのですから相当な大きさの大蛇だったのでしょう。
UMA認定です!

大正8年(1919)に青梅街道が拡張されると、池の大きさも小さくなり、
大正14年から15年(1925~26)には池をコンクリートで四角に囲い、
蓋を付け、防火用貯水槽となってしまいました。
さて、今度はこちら。
多摩湖の周囲道路を、多摩湖から時計周りに西へ1kmほど歩くとこの
ような奇妙な形をした現代彫刻に出会います。

これは、かつて旧幕時代、まだ湖が出来る前の多摩湖辺りの槌ヶ窪という
所にいたと云われる
「つちんど」というUMAなのです!
「狭山の栞」には次のように書かれています。
昔当地は人家を去る事十丁四方もあり、沼地の周囲には松柏生ひ茂り森々と
せるため水自ら満ちて大海の如く人跡絶えし幽谷をなし槌頭(つちんど)と云
大蛇生息し、蜂谷には猿鹿狐狸棲息し従って谷水は旱魃の折も涸るなかりしが、
元禄年間(1688~1703)御料林払下げに相成るにつき伐木するも故障無き
や否やを訊したる処、差支なき旨答上せるため、立木を伐り払ひそのあとを
農人持とせるがために、池水自ら減じ大蛇なども何処へか姿をかくしたりと云ひ
伝ふ。槌の窪と呼びしは槌の形をしたる頭の蛇棲める故なりと。時代は徳川綱吉が生類憐みの令を出していた頃ですから、かなり昔のこと
ですが、土地の名前にもなるほどの怪生物が生息していたのです。
「槌の頭をした大蛇」ということで、ツチノコのデカいやつ、と想像がつきます。
ツチノコはバチヘビなど呼び名は変われど、全国にその伝承がありますから、
狭山丘陵にいたとしても不思議ではないですね。
しかし、そうなると問題はこの彫刻です・・・。

コレ、どう見ても大蛇には見えませんわな、、。
行政の発注ミスか、芸術家の暴走か、はたまた夢のお告げでこうなったのか
その辺りはよく分かりませんが、どう見ても3本足のハンマーヘッドクラゲにしか
見えません。
せっかく史料にも残るUMAだけに残念な造形です。
前衛芸術というのは、時に罪なものですな・・・。
旧幕時代、この一帯は幕府の直轄地(天領)でした。史料の「御料林」とは幕府
の管理する林のことで、狭山丘陵では特に松が植えられ、公用木材として育て
られていました。
「狭山の栞」では、この御料林が払下げられて樹々が伐採されたので環境が
変わり、つちんどの姿が見えなくなったとあります。
ところで、御料林はどこに払下げられたのでしょうか?
名主のような有力農民か、豪商か、それとも村の共同使用地としてなのか?
幕府が民間に土地の所有権を譲渡することがあったのか、ということを含め
ても、この史料は興味深い一文になっております。
何はともあれ、開発によって棲家を追われたUMA、つちんど。
江戸時代から彼らの住みにくい環境になっていたようですね。
「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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