前回ご紹介した熊野神社から、東に向かって歩いて行きます。
途中から旧道に入ります。この道は村山道と呼ばれた、旧幕時代以前のメイン
ストリート。今はほぼ住民しか利用しない生活道路です。
途中で北に入る脇道があるのでそちらに行くと、神社が1社あります。
御嶽神社です。

まぁね、このロケーションですから東大和市民でも知ってる人は少ないですよ。
これからの季節、虫除けスプレーでもしていかないと、薮蚊のエサにされて
しまうこと必至です。

御社を保護するためか、サッシのついた鞘堂に守られております(1)。
サッシには鍵が掛けられているため、中に入ることはできません。
ただ、ドアの引手から中を覗いて御社を見させていただくことは可能です。

上の写真の(2)と書かれている所には手水鉢があります。
御社に合わせるかのような、小さいカワイイ手水鉢です。

万延元年(1860)に奉納されたようですね。
反対側を見ると、蔵敷村の組頭であった鈴木家の名があり、寄進したことが
わかります。
創建年代、祭神なども不明ですが、この神社には「雨乞い」の昔話が伝わります。
雨が降らずカラカラの天気が続き、いよいよ農作物に被害がでるぞ、ヤバイぜこれはッ
!ってときになると、村の主だった人たちが相談して雨乞いの日が話し合われます。
雨乞いの前日、駆け足の得意な若者2人が青梅の御嶽神社に行き御師の家に
泊まります。
翌日、神主にお祓いをしてもらった滝の水を竹筒の中に入れ、あとはひたすら村を
目指して帰るわけです。しかし、途中で休むとその場所に雨が降ってしまうと云われて
いるため、一度も休まずひたすら交代で竹筒を担いで歩かなければならなかった
とか。それは箱根駅伝のランナーよりも辛かったかもしれません。
昼過ぎに無事竹筒の水は村に届きます。
神社では境内にしめ縄を張り、その下に「半切り」という大きなタライを4つ用意し、
中に水を入れておきます。そこへ神主がお祓いをしながら竹筒の水を注ぎこむ。
すると、身を清めた裸の男たちが登場。「さんげ、さんげ、六根清浄!」と言いながら
半切りの水をお互いにかけ合うのだそうです。
ここで、上空にわかにかき曇り、ポツリポツリと雨粒が落ちてくるようであれば、
雨乞いは大成功!ということになるワケです。
「なにソレー!そんなんあるワケないやんww」
と侮るなかれ。この雨乞いはとても効き目があり、数日後には本当に雨が降ってくる
ことが多かったといいますぞ。
信じるか信じないかは、あなた次第!
さて、写真の(3)の所にもっと近づいてみます。

右側には自然石で作られた石塔が祀られています。
表面には「ア」字を彫った形跡が、かつては認められたということですが、現在は
確認できません。何か雨乞いに関係のある石塔でしょうか?
その左側には水たまりのようなものが見えます。
これは「おみたらし」と呼ばれている小さな池で、古来どんなときでも枯れることの
なかった泉だと伝わります。
「御嶽神社のおみたらしで目を洗えば眼病が治る」という言い伝えがありました。
かつてはきれいな澄んだ湧き水だったそうです。
学生時代「近眼竜政宗」の異名をとったワタクシ、眼を良くしたい思いは重々あり
ますが、今、この水で目を洗ったらかなりヤバイことになりそうなので、やめて
おきます。
神社を後にしましょう。
境内からの階段を下り、脇道を北へ入っていきます。

砂かけばばあが今にも出てきそうな雰囲気ですが、これがワタクシの散歩
コース。
東京で三密を避けてますよ、小池都知事!
しばらく歩くと目の前が開けます。

山と山に挟まれた谷の部分に開かれた場所。
こういった場所を「谷津(やつ)」や「谷戸(やと)」といいます。
狭山丘陵の南麓にはこうした谷津・谷戸がたくさんあり、こういった場所の近くに
昔の人は住居を作ったと云われます。
宝永年間(1704~1710)の名寄帳にここは
「仙光谷津」の地名があります。
仙光坊という修験者の住む堂宇と墓地があったからだそうです。
この墓地に遺体を埋葬する毎に、山からイノシシが来て墓を掘り返して荒らした
のだそうです。
イノさんがなんでそんなことをするのかについては、各自ご推察くだされ。
村人たちも落し穴を掘ったりして、対抗策をとったらしいんですけどね。
そんな地元の歴史を反映したモニュメントが、すぐ近くの郷土博物館前にあります。

見た感じ、カワイイんです。
「ボクたち、お腹いっぱいなんだブー」
近くで遊ぶ子供たちに、このイノさんモニュメントの謂れを話してあげると、大抵の
子供たちから笑顔が消えます。
「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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