今年最後の記事になると思いますが、この「比翼塚」も最終回です。
長々とお付き合いいただき、「ありがとぉぅーー」(by 谷村新司)
さて、話は明治維新前夜。
1月に鳥羽・伏見の戦いが起こり幕府軍は敗退。慶喜は降伏を受け入れ、寛永寺
に謹慎します。
その前後、慶喜は幕臣の屋敷の貸与・売買の自由や随身の自由を認めます。
徳川家は断絶とはならずに、田安亀之助(後の徳川家達)が相続を許され、駿河
70万石に移封されました。希望する幕臣は家達に付いていきますが、全員が行ける
ものではありません。
ましてや、旗本の陪臣などどうなったものか・・・。
ということで、遠山家の維新前後はどうだったのか?
なかなか書かれている史料がないので詳細はわからないのですが、当時の当主は
遠山金四郎景之です。「遠山金四郎家日記」によれば遠山家9代目ということになり
ます(遠山の金さんは6代目)。
この景之のお墓は他の遠山家一族と共に巣鴨の本妙寺にあります。その墓石を見る
と没年は慶応4年8月26日となっています。つまり元号が明治にかわる直前に景之は
亡くなってしまいました。享年はわずか28歳。
本妙寺は明治期に巣鴨に移転してきましたが、元は本郷にありました。ということは、
景之は東京(8月10日に江戸から東京に改称)で亡くなったということでしょうか。
また、静岡県浜松市にある楞厳寺(りょうごんじ)には遠山家の過去帳が残されている
そうで、初代景吉(宝永7年・1710年没)からの遠山家一族の没年、戒名等がわか
りますが、それによると景之の後は10代目として景福が遠山家を継ぎ、この景福さん
は昭和7年(1932)に亡くなっているとのこと。
この景福さんは明治元年9月3日に、遠山家の旧領だった上総国岩熊村に移住し帰農
したそうです。岩熊村の農民らは景福を慕い明治3年(1870)に「遠山講」を組織して
歴代当主の功績を讃えたといいますから、遠山氏はよほど善政を敷いた領主だったの
でしょう。
ただし、比翼塚の宮嶋巌さんは岩熊村へは行かなかったということになります。
これは、主人であった景之が幕府瓦解と同時に亡くなってしまい、遠山家がその瞬間
に解散状態になってしまったことを想像させます。宮嶋夫妻には太郎という息子がいた
らしいことは分かりましたが、その息子とも一緒に暮らせない事情ができたのでしょうか。
主人に付いてゆくこともできず、江戸(東京)にもいられず、全く土地勘のない高木村に
やってきたことを思うと、当時の幕臣関係者の寂しさが偲ばれます。
「よもやまばなし」には宮嶋巌さんは
「高木村の明楽寺の庫裡に留守番として」住み込んだ
とあります。
「里正日誌」の明治3年11月の記録には、韮山県に提出した村々の神社の詳細が出て
います。一部抜粋します。
武蔵国多摩郡高木村鎮座
尉殿大神社 但式外
(中略)
一 新補神主宮嶋岩保儀位階御座無く、家筋の儀は元百姓哲右衛門鍵取に候所、本
別当明楽寺永く無住に付き去る辰十二月中右同人祠官願い済ましに御座候。
(以下略)尉殿大神社は高木村の神社で、現在は高木神社と名前を変えています。明楽寺は
その別当寺でした。鍵取というのは管理人のことです。
宮嶋さんは土地がないので帰農することもできず、高木村の村民となって神社の祠官
(しかん)となったのでしょうね。祠官とは明治4年(1871)に府県社や郷社に置かれた
神職者のことですが、明治6年(1873)に平民籍へと編入されています。
また、「よもやまばなし」によれば、宮嶋さんは「かたわら寺子屋を開いて村人に読み
書きを教えて」いたとあり、ここから収入を得ていたようにも感じられます。
しかし、明治5年(1872)8月には学制が布かれ寺子屋教育は終わりとなります。
最初の小学校は寺や神社に置かれ、高木村の場合は隣りの後ヶ谷村にある円乗院
に「竭力学舎」が設けられました。教員となったのは旧寺子屋の師匠、神官、僧侶と
いった人たちでしたが、試験を受けて合格しなければならずかなりハードルは高かった
ようです。
「学区取締創置之件」には
「・・・・全く小学校教師の任に堪え難き者相存じ居り候趣も相聞き、右等の義は開化の
障碍と相成り候間、速やかに廃業致すべき候、・・・」とあって、幕臣の身内だった宮嶋さんなどは「開化の障碍」として教員にはなれなかった
ものとも思われます。
宮嶋巌さんは明治6年8月15日、病死したとありますが、将来を悲観して体調が悪化
したのかもしれません。
明治維新では、旧幕臣の肩身の狭さや、悲劇など様々な話が伝わります。
東大和市高木の比翼塚も、そんな時代の中に翻弄された一組の夫婦の史跡です。

現在の高木神社。
創建は不明ながら江戸時代までは尉殿権現社の名称で、明治の廃仏毀釈に伴い
高木神社と改められました。祭神は手力雄命と伝わります。
神社と隣接して別当寺の明楽寺がありました。後ヶ谷村の円乗院の塔頭だったと
いいます。

こちらの写真は比翼塚と同じく旧明楽寺墓地に建てられている六十六部供養塔。
全国六十六ヶ国の霊場に納経する巡礼の行をして、その達成を記念したもの
でしょうか。宝暦4年(1754)建立。天辺に大日如来を安置しています。
右側に「願主 江戸麹町拾壱丁目 河清平左衛門 法名 光円」
裏側に「武陽多摩郡高木邑」
台座正面に「小野伊左衛門 尾崎伝左衛門 宮鍋定七郎 尾崎宇兵衛 施主 当村中
宮鍋久右衛門 尾崎平左衛門 和地佐兵衛 念仏助 若イイ者中」
台座左側に「飯田町 伝八郎 三郎兵衛 麹町十二丁目 小右衛門 麹町 禄兵衛」
とあります。これも、江戸と高木村との間に交流があったことを示します。
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比翼塚のお話も、もう少しお付き合いくださいませませ。(by さだまさし)
「よもやまばなし」の中で一つ引っ掛かるのは、遠山家所縁(家臣かそれと同等
の身分)の宮嶋夫妻が、「奉公人の里」である、高木村に来たという点です。
高木村の村民がなぜ、遠山の金さん宅の奉公人になれたの?という所。
「寛政重修諸家譜」では遠山景晋(金さんの親父)の石高は500石。これが先祖
代々からの遠山家石高です。
「遠山金四郎家日記」によれば、知行地は上総国岩熊村(現千葉県いすみ市)の
300石と、下総国今泉村・樋橋村(現茨城県下妻市)200石だそうです。
こういった場合、奉公人は知行地から呼ぶことが多いのではないでしょうか。
遠山家でも中間は岩熊村の者が務めていたようです。
安政三年十一月五日 未晴昼後風 貢助 泊喜藤太
一、名主専次郎出府の事
安政三年十一月八日 戌晴 泊共喜藤太
一、御中間三年の分、藤三・専蔵・清七・兼吉、右四人、重年これを御願い、喜代三・
治助両人は御暇相願い、もっとも治助義は、代り人参り次第帰村候つもり申立て候事。
御給金名主専次郎へ相渡す。中間は年季勤めで、希望すれば更新され、退職すれば替わりの者が同じ岩熊村から
やってきました。そしてその給金は名主が代表して受け取っていたことがわかります。
慶応年間にも同様の事例が記録されています。
つまり、中間という一例ではありますが、当時の武家奉公人は個人で契約するのでは
なく、知行地の村単位で供給していたということが推察されます。もっとも同時に、池波
正太郎の小説にでてくる音羽屋半右衛門のような人入れ家業があったのも事実です
から、これらは並列して行われていたのでしょう。
知行地でもない高木村の村人が、町奉行まで勤めた遠山家に奉公をし、譜代家臣と
同等であった宮嶋家と懇意になるというのは、どのような経緯があったのでしょうか。
東大和市域の村々は江戸時代初期には旗本の知行地でしたが、やがて天領に支配替え
され幕末まで続きました(一時他藩の預け地となったことはある)。
当時の税はご存知の通り米ですが、東大和周囲は水の便が悪く良質の米が収穫できま
せんでした。当時の評価で「下下田(げげでん)」という、最低ランクの田圃しかないのです。
鬼太郎が唄うゲゲゲの唄が聞こえてきそう。
「こんな米は受け取れん!」てんで、年貢は金納とされました。
そこで、村では馬に野菜やら炭やらを背負わせて江戸に向かいます。そして江戸市中に
荷物を納め、運送賃として代金をもらい年貢に当てました。これを農間稼ぎと言います。
こうして荷物を納めた先の中には、大名や旗本などの武家屋敷がありました。
「里正日誌」の文久2年にはこのような記事が出ています。
差し上げ申す一札の事
私の父、武州多摩郡高木村百姓勘左衛門と申す者、当戌五十歳に罷りなり、農間炭渡世
仕り来り。去る十月廿日、御出入り御屋敷様の御払い代金請け取りのため罷り出、その後
立ち帰り申さず候につき、所々相尋ね候ところ、四ツ谷内藤新宿の内藤駿河守様御下屋敷
内古井戸へ落ち入り相果ており候旨を、御同人様御家来三浦平兵衛殿より御知らせ候に
つき、早速罷り越し見候ところ、父勘左衛門疵を請け相果ており候死骸に御座候。
もっとも平日、意趣遺恨など請け候覚え御座無く、何故右始末に及び候や、かつて存じ奉ら
ず候。御検分相済み候上はなおまた御見下され候ところ、右勘左衛門死骸に相違いなき
御座候間、なにとぞ御慈悲をもってお渡しくだされ候わば、請け取り奉りたく此の段願い上げ
奉り候。以上。ちょっと異常な事件性のある記事なので例としてはどうかと思ったのですが、高木村の人
が江戸へ農間稼ぎをしに行っていたという事例です。新宿にあった内藤家の下屋敷であれば、
成木道(青梅街道)をまっすぐですから便利でもあったでしょう。
しかし、遠山家となると違います。遠山家があったのは愛宕下大名通りの近く。現在のJR
新橋駅を少し南に行った所です。

赤く丸で囲ったところ。もうちょっとアップします。

この場所まで農間稼ぎに行くのは、すこし遠いのではないかと思います。
何か遠山家と高木村を結ぶものがないかと地図を見ますと、遠山家の南に鉄砲調練場
があります。ここは江川太郎左衛門英龍が亡くなったあと、その遺蹟を讃えて幕府から
息子の英敏に与えられた芝新銭座大小砲習練場のことです。本所にあった江川氏の
役宅もこちらに移ってきています。遠山家とは目と鼻の先。
一方、安政の改革の一環として、幕臣男谷精一郎の建言を入れた幕府は講武所を発足
させますが、この講武所が一時ここに置かれます。
さて、遠山家は文久3年(1863)に景元の孫の景彰が亡くなり、養子の景之が当主と
なっていました。この景之が講武所奉行支配、海軍奉行並支配の役職に就いているの
です。英敏を継いだ江川英武も講武所教授方になっており、江川・遠山両家は互いに
知る立場にあったことになります。
文久元年以降、すでに講武所は水道橋(現日本大学法学部)に移転していましたが、
江川支配地の村民は芝の江川代官所によく行っていましたし、高木村-江川代官所-
遠山家、というような繋がりで、高木村の村民が遠山家に紹介され、出入りを許されて
いたのではないか・・・と想像を膨らませてみました。
残念ながら、「遠山金四郎家日記」には「江川」という人物は登場していないようです。
まぁ、当時の江川家は当主の英武がまだ年少で手代の柏木総三が切り盛りをしてい
ましたから、名前が出てこないのは仕方のないことかもしれません。
いずれにしても、幕府高官を務める家に奉公をする人物ですから、ある程度信用の
置ける者でなければなりません。高木村の村民が遠山家に出入りするにはこんな
ルートがあったのでは、と歴史ファンの想像でございます。
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遠山金四郎家家臣、宮嶋哲右衛門とはどんな人物だったのか。
「遠山金四郎家日記」から拾ってみます。
嘉永元年一月廿九日 辰晴 万蔵
一、今日例月の通り晦日掃除これ有り、ただし御人少に付き、哲右衛門手伝い
仰せ付けられ候
嘉永元年七月八日 卯晴 辰次郎
一、御新造様、曾我様へ御出なされ候、御供哲右衛門、清次
嘉永元年八月二日 卯晴 辰次郎
一、奥方様御本屋敷へ御出なされ候に付き御先番平造・万蔵、御供哲右衛門、
清司、太吉
嘉永元年十一月十七日 亥晴 万三
一、奥方様・御新造様・若様・お駒様、伊奈様へ御出なされ候、御供哲右衛門・
清司・嘉市罷り出、尤も奥様御滞留なされ候
嘉永元年十一月廿四日 午晴 辰次郎
一、奥方様、今日伊奈様より御帰りなされ候、御迎え哲右衛門・清司、御中小姓
罷越る日記はここから「安政2年」になります。
安政二年三月三日 寅曇夕方より雨夜地震 喜藤太
一、今朝六時過ぎ、大道寺御前様、宗源寺へ御納骨のため御出、それより本妙寺
へ御埋葬、御供に者宮嶋哲右衛門・その罷り出候事
安政二年四月四日 申曇 喜藤太
一、宮嶋哲右衛門・みのや勘兵衛・田中仙姿へ御遣い物下され、これを差し出す
安政二年九月朔日 酉曇 喜藤太
一、東福寺様登和に於て六時過ぎ出宅にて、宗源寺へ御納骨のため御出る、御供
哲右衛門・久司罷出る、それより本妙寺へ御埋葬、御滞り無く相済み、七時頃御一同
御帰宅さらにまた飛んで「慶応元年」
慶応元年二月廿日 戌風 貢
一、宮嶋哲右衛門来る
慶応元年五月廿日 寅晴朝地震 喜藤太
一、明朝御出立に付、御振舞これ有、牧野隼之介様、同前元三郎様御出、梅之助様
には御当番に付昨夕相済、ほか植村奥方様・宮嶋哲右衛門・西嶋俊佐・乃ミ雪慶・
幸次郎・きく・いね・さい罷り出、御家中へも御酒・御吸物これを下される
慶応元年六月廿一日 寅晴風風 (執筆者不明)
一、御年回御逮夜に付き、植村様並びに奥方様御出、宮地吉三、柏田与右衛門・乃ミ
雪慶・宮嶋哲右衛門罷出で、○○つま、松川・とし・いね・御手伝旁罷出る、兼澤しけも
○候えとも遠方の儀に付、すぐさま退散、その他御家来女中までも御酒・御膳など、これ
を下される、御中間中へは代りにて下され候事「遠山金四郎日記」は嘉永元年1月~12月、安政2年1月~3年12月、慶応元年1月
~6月のものしか現存しておりません。
嘉永元年時点での遠山家当主は景元、つまり遠山の金さんです。
1月29日の項を見ると、掃除で人が足りないので哲右衛門が呼ばれたとあります。
本の解説を読むと哲右衛門は「水野忠精家臣か」とあり、遠山家の家臣ではないような
印象を受けます。ちなみに水野忠精は、あの天保の改革でおなじみ水野忠邦の長男。
慶応元年七月廿四日 戌晴風 (執筆者不明)
一、水野様若様、宮嶋御供にて御出御通りなされ候と、日記にもあります。
当時、大名や旗本の間では「御貸人」という習慣がありました。これは、地方への赴任
や役職が変わったりして、家臣の人数が足りなくなったとき一時的に家臣を貸し借り
をするというものです。まぁ、サッカーのレンタル移籍みたいなものでしょうか。
この御貸人だったかはわかりませんが、哲右衛門は水野家と遠山家の両家に所縁
のある人物だったようです。
安永2年はある人物が亡くなり、その納骨の御供に哲右衛門がついています。
亡くなったのは景元です。「大道寺御前様」は大道寺家へ嫁いだ景元の長女。
景元の遺体は千住の宗源寺で荼毘に、本所の本妙寺に埋葬されました(現在
巣鴨に移転)。また、「東福寺様」とは出家した景元の三男景興と思われます。
哲右衛門は「御遣物」をいただいています。みのやは商人、田中仙姿は茶人かと
思われますので、ここでも哲右衛門は助っ人のような印象です。
慶応元年2月20日も他所から「来る」となっています。
しかしながら、
慶応元年三月八日 卯曇折々雨 貢
一、懸川娘多美、御奥へ御腰元に日々罷り出で候事
一、宮嶋よりの女中に、玉川よりの御腰元引き越しの事
一、右宮嶋よりの女中と多美は無給の事、多美はかをると名をこれ下さる懸川多美とは日記の記録も担当している懸川喜藤太の娘。
その多美と宮嶋家に関係する女性が腰元になったと、同等に記録されています。
これは、宮嶋家が遠山家の家臣としてして扱われていたからだと思うのですが、
いかがでしょうか。
また、
慶応元年二月廿四日 寅雨 貢
一、宮嶋父子来る、子供の者は泊り候事
慶応元年六月廿三日 辰少雨後曇 (執筆者不明)
一、愛宕山御代参、喜藤太罷り出、任五郎様・宮嶋太郎○男谷も参り候事
慶応元年七月十八日 辰曇夕より雨遠雷二、三鳴 (執筆者不明)
一、御前様・任五郎様、八時過ぎより水野様へ御出、宮しま夫婦並びに太郎御出
迎えに罷り出る、暮れ六時頃より鎗司罷り出、四時頃御帰宅、御出かけよりおせん
御供御帰り候節、太郎御供にて来、一泊候事とあり、宮嶋哲右衛門夫妻には太郎という、御供が務まる年齢の子供がいることが
わかります。
「里正日誌」に残されていた宮嶋きよさんの年齢は、明治6年で45歳。慶応元年当時
では37歳です。
哲右衛門と鉄右衛門の違いはありますが、「遠山金四郎日記」に登場する宮嶋哲右
衛門が、比翼塚の宮嶋巌さんだとみていいのではないかと思います。

写真は遠山金四郎景元の墓(本妙寺)
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