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比翼塚 維新哀話②

東大和市内の郷土史研究グループが40年ほど前に、古老の方々から言い
伝えや思い出話を聞き取り、その話をまとめた本があります。
「東大和のよもやまばなし」といいますが、その中に「比翼塚」の話も登場します。

よもやまばなし

そこで「比翼塚」は、どのように語られているのでしょうか?

 高木公園の東に、道をへだてて明楽寺(現在廃寺です。)の墓地があります。木立の
中の墓地には、元高木神社の神官、宮嶋巌さんと、妻喜与さんの塚が並んでいます。
今ではその由来を知る人も少なくなりましたが、この塚には夫の後を追って自害した
妻の話が言い伝えられています。
 徳川幕府の終りのころ、宮嶋さんは江戸南町奉行遠山家ゆかりの武士でしたが、新
政府となった明治2年、宮嶋さんは喜与さんを連れ、奉公人の里、高木村の明楽寺の
庫裡に留守番として住みこみました。
 そして、武士の名「鉄右衛門」から巌に改め、かたわら寺子屋を開いて村人に読み
書きを教えていました。しかし、この明楽寺に戸長役場が置かれた夏の明治6年8月
15日、病により帰らぬ人となりました。
 たよる夫に先立たれ、なじみの浅い土地で喜与さんは一人とり残されてしまったの
です。
 その後、しばらく戸長役場の用を手伝っていた喜与さんは、宮嶋さんの百ヵ日が過ぎ
た11月26日、ひっそりと夫のもとに旅立っていきました。
 その最後はさすがに元武士の妻、乱れぬようにひざをひもで縛り、短刀で命をたった
ということです。
 後に、夫妻の冥福を祈るため、ゆかりの人々によって明楽寺の墓地に二つの塚が造ら
れました。高さ70センチメートルばかりの巌さんの塚と、その脇にひとまわり小さな喜与
さんの塚が、つつましく寄りそうようにあります。

          「東大和のよもやまばなし」 東大和市自主グループ郷土みちの会編

前回、ご紹介した「里正日誌」に書かれていた役所への報告書と比べてみると、かなり
印象が変わっています。
報告書では、きよさんは「折々逆上いたし」たとありますが、よもやまばなしによれば、
夫が亡くなったあとも平穏に暮らし、百ヵ日を待っていたかのように自害したとあります。
とても逆上していたようには受け取れません。
精神錯乱による自害なのか、覚悟の自害なのか?
真実はどちらなのでしょう。

それは一先ず置いといて・・・。

さて、よもやまばなしには宮嶋さんの簡単なプロフィールが記されています。
江戸南町奉行を務めた遠山家・・・つまり、遠山金四郎「金さん」と所縁のある人物
だったというんですね。
意外なビッグネームが出てきてビックリです。
調べてみると面白いことが分かりました。

脚本家の市川森一が書いた「夢暦長崎奉行」という小説があります。平成8年(1996)
にはNHK総合にて、半年間の連続ドラマにもなっていたようです。ワタクシは未見
ですが。
この小説は、金四郎の父親遠山景晋が長崎奉行に赴任していたときのことを書いて
いるようなのですが、その景晋の家臣の一人として「宮島鉄右衛門」という人物が登場
しています。ドラマでは、加藤武さんが演じているので、ザコキャラではないでしょう。
かなり主人公(景晋は小林稔侍、金四郎は葛山信吾)に近い人物として描かれていた
のだと思います。
図書館でこの本を見つけまして、パラパラとめくったのですが、市川さんは長崎県の出身
で地元へのリスペクトの気持ちを込めてこの小説を書いたというようなコメントが奥書き
にありました。
景晋は長崎奉行時代の日記などを残しているので、市川さんがそれを資料に執筆した
ようです。「長崎奉行遠山景晋日記」を読めば分かる話なんですけど、まだ当たれない
でいます(汗;)

では、景晋の家臣だった鉄右衛門と、高木村比翼塚の巌さんは同一人物か?
景晋が長崎奉行として赴任したのは文化9年(1812)です。
宮嶋夫妻が高木村にやってきたのは、その57年後。巌さんの年齢はわかりませんが、
前回ご紹介した史料には喜与さんの亡くなったときの年齢が45歳8ヶ月とあります。
普通に考えれば、巌さんは鉄右衛門の次世代の人だと思うのですが、どうでしょう。

そこで「遠山金四郎家日記」を当ってみます。
この資料は、遠山家の家臣が嘉永元年(1848)正月から慶応元年(1865)8月までの
家中の出来事を、日記として記したものです。
つまりここに書かれている遠山金四郎とは、景元(金さん)、景纂、景彰、景之の四代に
渡っての金四郎ということになります。
幕末期の遠山家の様子と、そこに仕えていた家臣の様子がわかるワケです。
巌さんも遠山家に所縁があったというのなら、まさにこの時代の遠山家のことでしょう。

果たして、この日記の中に宮嶋哲右衛門という人物が出ていました。
解説文には「遠山家に同姓の者が複数仕えており・・・・文政期の宮嶋鉄右衛門と慶応
期の宮嶋哲右衛門の事例が挙げられる。」とあります。
景晋時代の鉄右衛門と、幕末期の哲右衛門は別人であることがわかりました。
解説の中では二人が親子関係であるとは言っておりませんが、少なくとも同族の間柄
ではないでしょうか。ちなみに、「遠山金四郎家日記」には鉄右衛門は出てきませんので、
すでに引退しているか、亡くなっているのだと思われます。

では、遠山家の中で宮嶋哲右衛門はどのようなポジションにいた人物だったのか?
日記を当たってみることにいたします。

以下次号。


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



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[ 2019/11/29 ] 我が東大和市 | TB(0) | CM(0)