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函館・・・むしろ箱館史跡廻り②

「箱館」2日目は、「そんな所に行ってなにが楽しいじゃぁぁぁぁぁぁッ!」と
嫌がる家族らを説き伏せ、ココに行ってきました。

函館8

碧血碑 です!

戊辰戦争とか幕末史を勉強している者にとっては、聖地といっても過言ではない
くらいの場所ですが、そうでない人にとっては確かに面白くはないかも・・・です。
ご覧の石碑があるだけですからね・・・。
でも!箱館に来たら、絶対に手を合わせたい場所ッ!

函館山の麓、函館八幡宮神社の駐車場に車を止めて、山の中を50~60mも
歩いていくと、目の前が開けてその奥に碑が立っております。
戊辰戦争全体の旧幕府軍戦死者約800人を慰霊する、「お墓」といってもいい
供養碑です。
榎本武揚や大鳥圭介らによって明治8年(1875)に建立されました。題字は
大鳥の書になるもので、「碧血碑」の意味ですが、これは非業に亡くなった忠臣
の血は3年経つと碧玉になる・・・という故事からきています。

ワタクシたちがお参りしたときには、平日だったせいか他に誰もいなくて、静か
な山の中により一層厳かな空気が流れているようでした。

碧血碑の1段下に柳川熊吉翁の碑というのがあります。

函館20

柳川熊吉は、江戸浅草出身の侠客。幕臣と交流があったといわれ、五稜郭
築城のときに人足を率いて箱館に渡り、工事に従事したそうです。
新政府軍は、敗れた旧幕府軍戦死者の埋葬を許可しなかったのですが、義憤
に駆られた熊吉は付近の寺に分けて埋葬し、逮捕されてしまいます。しかし、
その後許されると、熊吉は遺骨を箱館山の中腹に土地を買って改葬、それがこの
碧血碑の場所になるワケです。そして生涯を碧血碑の墓守として過ごしたとのこと。

このエピソードは、何か彰義隊隊士の遺体を埋葬した三河屋幸三郎と重なる印象
がありますね。他にも幕軍水夫の遺体を埋葬した清水の次郎長など、戊辰戦争
では任侠の人が、必ずといっていいほど顔を出します。
今まであまり注目はされていませんが、幕末史を考える上で、こういう任侠世界
の視点が今後必要なのではないかと思っています。

まぁ、でも、いろいろ説明しまして、歴史にほとんど興味のない甥も碧血碑について
「なるほど。見ておいて良かったよ」と言ってくれましたので、一安心。
「でもさ、何も見ないで、そーゆーこと語れるのって、ちょっと怖いよね」
「やかましい!」

車を駐車させてもらっていた函館八幡宮にもお参り。

函館9

社殿が、本殿、幣殿、拝殿と繋がって、権現造になっています。
にしても、あまり見ない様式だなぁ・・・と思い、後で調べてみたら聖天八棟造と
いうのだそうです。

その日はそれから車で江差へ移動。
およそ1時間半のドライブです。
江差の目的はなんといっても、コレ!

函館10

開陽丸!

まぁ、これを見に行くためにレンタカー借りたようなもんですわ。
旧幕府軍の旗艦。
この艦を持っていたことで、旧幕府軍は制海権を握っていたわけですが、松前攻略
のときに座礁、そのまま沈没してしまいました。
もし、開陽丸がそのままであれば、最終的に箱館戦争が新政府軍の勝利で終わった
にしても、旧幕府郡の被害はかなり食い止められたのではと思います。終戦条件も
もう少し違ったものになっていたでしょう。

函館11

艦の中は資料館になっていて、海底から引き揚げられた開陽丸の一部やら備品
やらが、多数展示してあります。
中でも驚くのは、ものすごい数の砲弾です。

函館14

コレ、一部ですけどね。
開陽丸そのものもそうですが、これだけの砲弾を一気に失ったのですから、榎本
さん始め蝦夷共和国の方々のショックは相当なものだったでしょうねぇ・・・。

艦内にはこんな人形も展示してありまして。

函館12

コチラは艦長室の様子。
座って書類を見ながら部下に命令を出しているのは、開陽丸艦長・沢太郎左衛門
さんです。
元々艦長だった榎本武揚が、旧幕府軍全体をまとめる立場になったため、沢さんが
副館長から艦長のポストに昇進していたのです。この2人は一緒に欧州へ留学して
いたこともあり、沢さんは榎本さんの右腕的存在でした。
開陽丸が沈んでからは何をしていたのかというと、その後の蝦夷共和国政府では
開拓奉行に任命されてモロラン(現室蘭)に赴任します。つまり、五稜郭から出され
てしまった。
一見すると左遷?と思いますが、蝦夷共和国のそもそもの目的は独立などではなく、
生活に困窮している幕臣らを蝦夷に呼び寄せ、開拓と外国からの領土防衛をさせ、
自治州として新政府に認めさせるということだったといいます。となると、沢さんの
就任した開拓奉行は榎本構想の重要な柱だったということになります。

沢太郎左衛門の関連する史跡が都内にもありますが、ご存知でしょうか?
それが、板橋区にある圧磨機圧輪記念碑です。

圧磨機圧輪

圧磨機圧輪とは、平たく言うと黒色火薬を作る機械で、こちらは幕末に幕府の命令
で沢が留学先のベルギーから持ち帰ったものなのです。
沢は当時最先端の火薬製造技術を手に入れるため、ベルギーの火薬工場に作業員
として従事し、この圧輪を始めとする多くの機材を輸入させることに成功しました。
幕末から明治初期にかけて、滝野川(石神井川)など水の豊富な板橋の辺りは火薬
工場が作られていたんですね。

開陽丸から車で3分ほど。高台にあるのが土方歳三嘆きの松です。

函館15

明治元年(1868)11月。座礁する開陽丸の姿をここから見ていた土方が、松の木
を叩いて悔しがったと伝わります。たしかに、この場所から海岸がよく見える。
ただし、この話はフィクションとの説もアリ。
でも、真実をゆがめるようなウソ・創作ならともかく、この程度の話はフィクションでも
許される範囲ではないでしょうか。後に宮古湾海戦で、アボルタージュで甲鉄艦を
乗っ取ろうとした歳さんだもの。開陽丸を失った悔しさは事実でしょう。

箱館から江差までは、国道227号線を走って山の中を抜けていくのが一番近い
みたいですね。ナビもそうでした。途中、厚沢部(あっさぶ)の道の駅がちょうどいい
休憩地点になりました。

最終日の3日目は、帰りを夜の飛行機にしたので夕方まで目いっぱい箱館を満喫。
朝市や、ちょうど戊辰戦争企画展をしていた函館博物館や赤レンガ倉庫街、函館山
の教会などを見学。

函館16
市立函館博物館 
常設展示も伊庭八郎の名札とか、中島三郎助の戦友姿絵とかシビれる展示。

函館17
函館18
赤レンガ倉庫
お土産屋さんが中心。修学旅行生と外国人がいっぱいでした。

この近くで食べたジンギスカン、美味しゅうございました。


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[ 2019/09/19 ] 史跡へゴー | TB(0) | CM(2)

函館・・・むしろ箱館史跡廻り

9月に入り、平日に休みが取れたので2泊で北海道は函館に行って参り
ました。
当ブログをご存知の方なら、「管理人が函館に行くなら戊辰戦争の史跡
廻りだな!」とお思いでしょう。まさにそうなのですが、今回は両親やら
妹、甥を連れての家族旅行でしたので、あまりワガママは言いません。
マニアックな史跡はやめておきましたが、定番の史跡・名所はある程度
押さえて参りました。

函館といえば・・・と、ココでは敢えて「箱館」と言いましょう。
箱館に着いて真っ先に向かったのは、やはり五稜郭です。

函館1

五稜郭の敷地内に入っても、大きすぎて公園にいるようにしか感じないの
ですが、お隣の五稜郭タワーに登ると、ようやく全景がわかります。
中央にあるのが復元された函館奉行所です。

この五稜郭を設計したのは、伊予大洲藩出身の蘭学者・武田斐三郎という人。
一般にはあまり知名度の無い方かもしれませんが、さすが五稜郭ではその
功績を讃えた碑やら説明文、銅像などが置かれております。

函館2

斐三郎(あやざぶろう)さん、通称・あややは大坂で緒方洪庵に、江戸で伊東玄朴
や佐久間象山といった人に就いて学び、さらに英仏の築城術などを学んで幕臣
に推挙されました。
五稜郭は幕末当時、最新式の洋式城郭で、あややが学んだ築城術の技術が
導入されています。このほか、箱館戦争で新選組が最後まで戦った弁天台場の
築造もあややが行っています。

このあややの記念碑が東京にもあることをご存知でしょうか?

武田竹塘先生紀功碑

芝東照宮(増上寺の隣り)参道に建っている、「武田竹塘先生紀功碑」です。
教授となり、維新後は兵部省に出仕したあややの功績を讃えた石碑です。
ちなみに「竹塘(ちくとう)」は号、題額は有栖川宮熾仁親王、撰文は幕府奥医師
を勤め、維新後は陸軍軍医監になった石川桜所が行っています。
五稜郭を見たあと、芝に行かれた方は、コチラのあやや史跡にも訪れてみては
いかがでしょう。

函館a
「はっ、スミマセン!」 五稜郭タワー1階にある武田斐三郎像

あ、像といえば!
五稜郭タワーに展示してあるのが、2体の土方歳三像ですね!

函館3
函館4

上の立像は1階のらせん階段横、下の坐像は展望室にあります。
箱館ということで、やはり洋装なんですね。
ちなみにコチラが歳さんの出生地、日野は高幡不動にある土方像。

土方歳三1

それと、土方歳三資料館の庭先にある半身像。

土方歳三2

これで、土方歳三像はコンプリートでしょうか?
まだどこかにありましたら教えてください。
土方家の記録では、明治初期ですが石田散薬を東大和にも販売に来た
記載があるので、若き日の歳さんが東大和にやってきた可能性はあるわけ
です。東大和でも天然理心流を学んでいた家はありましたしね。
荷物を背負って竹刀を抱えた「薬売り・土方歳三像」を作って市役所前
とかに置いたら、みんな見に来てくれるかな?怒られる?

土方歳三といえば、土方歳三最期之地碑はハズせません。

函館6

明治2年(1869)5月11日、弁天台場に孤立した新選組の元に馬で向かった
土方歳三は、一本木関門で敵の銃弾によって絶命しました。
若松公園の敷地内に、一本木関門の複製と碑が建てられています。
この辺りは、五稜郭から箱館山へと行く半島部分の一番細くなっている部分。
一本木関門は、実際には若松公園から西(函館駅方面)に200mほど行った
所にありました。
この碑は昭和33年に若松小学校同窓会、父母・先生の会によって建てられたよう
ですが、北海道には歳さん個人のお墓がありませんので、この碑は歳さん参りを
する人から墓碑の代りとして献花が絶えないのだそうです。

それから、五稜郭と一本木関門の中間点に千代ヶ岡台場という台場が、当時あり
ました。現在は運動公園になっていますが、その近くに中島三郎助最後之地碑
あります。

函館5

中島三郎助も、一般にはあまり知られていない人物かもしれません。
この方は浦賀奉行所の役人で、ペリーが浦賀に来たときに真っ先に対応した
人なのです。そして幕末の動乱期を経て、戊辰戦争では旧幕軍に息子2人と身を
投じ、箱館までやって来たというわけ。まさに、
「は~るばる来たぜ、は~こだて~、息子と食べたい鮭茶漬け~」
元祖・サブちゃんであります。
蝦夷共和国では、サブちゃんは箱館奉行並という要職に就いていましたが、新政府
軍の猛攻が始まり、いよいよ敗色が濃厚となると、上層部に降伏を説きながら自らは
徹底抗戦を貫き、5月16日(五稜郭開城2日前)に息子2人とともに戦死しました。
よく幕末はいつからいつまでを指す時代か、ということを言われます。ワタクシもそう
ですが、、ペリー来航から箱館戦争終結までを幕末と考える方が多いと思います。
そうなると、サブちゃんこと中島三郎助は幕末の最初と最後に立ち会った人物と
いえるのです。

初日はこんなところで・・・。
宿泊は、函館の街と函館空港の間にある湯の川温泉に宿をとりました。

で、夜は函館山の夜景を見に。

函館7

ロープウェイで山頂に登ったのは19;30頃。
もうTシャツ1枚では少し肌寒い感じでしたね。
左側の湾内を見て、「あの辺りに蟠竜が・・・」とか想像してました。


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