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東大和市「歴史ロマンまち歩き」 湖底から移転した寺、蓮華寺・慶性院

久しぶりに舞台を東大和市へと戻しましょう。
東大和市の「東やまと観光ガイド」では、今年から市内の史跡、神社仏閣等を廻る
「歴史ロマンまち歩きガイド」を実施します。市内をいくつかの地域ごとに分けて、か
歩きながら史跡を訪れ、ガイドの解説を聞くというものです。
2時間ほどの行程で、料金は無料。

その第1回目が来月、9月17日(火)に行われます。
記念すべき第1回目のコースは「多摩湖から移転したお寺 蓮華寺・慶性院」です。
今回は、そのコースでどんな所を廻るのか、ダイジェストではありますが、ご紹介
いたします。

東大和市の北側(埼玉県所沢市との堺)には、人造湖の多摩湖(村山貯水池)が
あります。この場所は大正時代までは人家や田畑があり、東大和市域の村々の
中心的な場所でもありました。
今回はその多摩湖の石川と呼ばれた地域にあった2つの寺院を中心に、ガイドを
進めていきます。

スタートは、多摩都市モノレールの上北台駅。
先ず訪れるのは、蓮華寺です。
蓮華寺 本堂2a

石澤山愛染院蓮華寺。真義真言宗豊山派のお寺です。
文禄年中(1592~95)に承圓法印が蓮華坊として開創し、寛永9年(1632)に
承雲和尚が蓮華寺と改称したと伝わります。
本尊は不動明王です。
元々は現在の多摩湖(村山貯水池)の中にありましたが、湖建設のために狭山丘陵の
峰を越えた南側の芋窪地域に移転してきました。

蓮華寺 不動明王a

東大和市にとって、蓮華寺がクローズアップされるのは明治時代に入ってから。
幕末から明治初期にかけて、蓮華寺は住職不在だったこともあったようです。
それを立て直したのが栄雲和尚で、明治10年(1877)あたりから蓮華寺を盛ん
にします。折しも、世の中は薩長政権に不満を持つ人々から自由民権の動きが
出てきていた時でした。
栄雲和尚は明治11年(1878)、三多摩最初の自由民権学習結社とされる
衆楽会(しゅうらくかい)を、蓮華寺で指導しました。

蓮華寺 栄雲和尚墓碑a
栄雲和尚の墓碑。その経歴を記し、業績を讃えています。
多摩の自由民権運動と、その初期の中心地が東大和市域だったことは、これから
もっとクローズアップされてくるでしょう。

蓮華寺の南側に隣接して、要石があります。
要石a

フェンスに囲まれた中に御社があり、その前にあるのが要石です。
ちなみにこの場所は蓮華寺に隣接していますが、この場所から北の方にある
豊鹿島神社の敷地になっています。

要石は茨城県の鹿島神宮の要石が有名ですね。根の深い石がナマズの頭を
押さえていて、地震を防いでいると云われています。
この要石は、耕作地の真ん中にあって邪魔なので、村人が掘り起こそうとしたところ、
どこまで掘っても先が見えないので「こりゃ、要石に違いねぇべ」ってことになったそう
です。敷地が鹿島神社の土地だったことも関係あるでしょう。

この要石で、村人たちは「虫占い」をしたといいます。
1匹出れば1人、2匹出れば2人・・・という具合。もしも、死んだ虫が出たら大変!
子供は死産だというので、占う方は真剣だったそうです。

また、「東大和のよもやまばなし」に書かれている伝承によれば、遥かなる大古の昔、
健御雷命(たけみかづちのみこと)が東国に下ったときに、船をこの石に繋いだとも
言います。
単なる昔話と片付けてしまうのは簡単ですが、狭山丘陵一帯は200万年~70万年
前までは海の中だったことと無縁ではないのかも知れません。

続いてご紹介するのは、蓮華寺からさらに西に歩いた場所にある慶性院です。
慶性院 山門a

白部山医王寺。武蔵村山市中藤にある真福寺の末寺、真義真言宗豊山派。
本尊は不動明王です。
創建年代については詳しいことはわかっていませんが、開山をした承秀上人の
入寂を慶長6年(1601)とする説と、天文16年(1547)とする説があり、それ
以前に創建されたものと推察されています。
現・多摩湖となっている石川地域の中でも最も西側にありましたが、大正11年
(1922)に現地に移転しています。

当初の本尊は薬師如来だったようで、境内の奥には薬師堂が建っています。

慶性院 薬師堂a

狭山三十七薬師の第三十六番目として、信仰を集めていました。
中には桃山時代の作と推察される薬師如来像が安置されていますが、一般
非公開となっています。

寺の東側駐車場から境内に入ってすぐの場所に、3体の石像がありますが、
注目されるのはこの1体。

慶性院 水天像a

これは水天像です。
慶性院の19世住職円鏡法印慈賢が、江戸時代末期に建てたものといいます。
寺の移転とともに、この像も移されました。
水天は、世界を守護する十二天の一つで、水難除けや雨乞いの祈願の対象と
なるため、池や川のほとりに建てられる例が多いそうです。
水天像は、全国的にも例が少なく、都内には3基しかないうちの1其だそうです。
ただ、あとの2つはどこにあるのかわかりません。
ご存知の方はご一報をお願いします。

さらに見ていただきたいのが、コチラ。

慶性院 白山大権現a

白部山という寺の山号の元となった白山大権現です。
明治の神仏分離で引き離された白山大権現ですが、近年になって復興されました。
江戸時代の信仰の姿が再現されたわけです。

さて、現在の慶性院の山門は写真で見ていただいた通りなのですが、これは移転後に
建てられた新しい門です。
元々、石川地域(湖の中)に寺があった時は、別の山門がありました。
現在、その山門は多摩湖の北、所沢市との堺に保存されています。

慶性門 旧山門

茅葺屋根で、寺の門には珍しい長屋門の作りになっています。
痛みが激しいのが心配で、なんとかいい形で保存できないものかと思っています。
今回のガイドでは行きませんが、機会があればぜひ訪れてみてください。
メットライフドーム(西武ドーム球場)や山口観音の近くですので。

当日のまち歩きガイドでは、この他に市内最古(延宝8年・1680)の庚申供養塔や
旧道の辻に建てられて現存する馬頭観音像、狼の言い伝えの残る住吉神社などを
廻ります。

東やまと観光ガイド 歴史ロマンまち歩き
「多摩湖から移転したお寺 蓮華寺・慶性院を巡る」


9月17日(火) 13:30集合
集合・解散 多摩都市モノレール上北台駅 ロータリー広場
料金 無料
お問合せ・申し込み 東大和市市役所産業振興課(042-563-2111)
※当ブログ管理人イッセーは当日のガイドは担当しません。でも、ベテラン
  のガイドが詳しく楽しく解説いたします^^
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徳島に行ってきました

昨年、学生時代に一緒に演劇をしていた親友が病気で亡くなりまして、今年の
夏は新盆になるものですから、当時の同期の仲間とともに、彼の墓がある
徳島県に行って線香をあげてきました。

徳島空港 正面a

徳島の玄関「徳島阿波おどり空港」。
そんなしんみりとした想いも、一気にブッ飛ばしてくれるアワオドラー像。
もう20年以上も前になりますが、亡くなった友人と8月に阿波踊りを見にきて、一緒に
踊ったことがありました。

その日のうちに、お墓参りとご実家への挨拶もすませ、旧友らともプチ同期会をして
その日は徳島駅前のホテルで一泊。

せっかく来たんだから、帰る前に周辺をブラついてみようと思いました。翌朝8:20に
チェックアウトをして向かった先は徳島城址。8:30に駐車場が開くので、それに合わせ
て訪れたわけです。

徳島城 堀石垣 (2)a

朝早ければそれほど暑くないかな・・・と思ったのが甘かった。
すでに気温30℃超えではないか?と思うほど。
先ずは堀端を歩きますが、日差しを遮るモノがない。帽子とペットボトルの水が命綱。

徳島城 堀石垣 (4)a

それにしても美しい石垣です。
打ち込み接ぎの積み方でしょうか。乱積みなので荒々しさがあっていいです。
徳島駅や徳島城のある場所は、地図で見ると吉野川河口の中州になるんですね。
なので堀の水は豊富で魚もたくさんいるようです。

徳島城 鷲の門a

徳島城址のランドマーク、「鷲の門」。
三木郭という曲輪に築かれていた門で、明治以降に城が破却された後もこの門だけは
残されていましたが、1945年7月の空襲で焼けてしまい、平成元年(1989)に復元
されたとのことです。

鷲の門を潜り、大手門(枡形だけ残る)を抜けると博物館がありますが、この日は開館
時間前だったし、この後友人らと待合せもあったのでそちらはスルー。

徳島城 蜂須賀家正公像a
藩祖・蜂須賀家政像。

城主の蜂須賀家は「太閤記」で有名な蜂須賀小六(正勝)から始まりますが、阿波
一国を秀吉から与えられたときには、正勝は60歳を超えていたため家督を息子
の家政に譲ります。そのため家政が初代藩主ということに。正勝は「家祖」って
ことでしょうか。
ちなみに、この家政像の場所には大正時代から戦前にかけては正勝の銅像が
建てられていたようです。Wikipediaなど見ると、その写真が出ていますが、長い
鎗を持った鎧武者姿の像です。しかし、戦中の金属供出で溶かされてしまったとか。

家政像の側から石段を上がって、本丸跡を目指します。
標高60mほどですから、たいした距離じゃない。しかし、気温すでに30℃か?って
中の登り道ですから昭和世代のおっさんには、わりとキツイ・・・!

徳島城 石垣a

なんとなく緑色がかった石は、青石といってお隣の眉山から運んだ石だそうです。
江戸城や外堀など、東京の石垣は伊豆石(安山岩)なので、それを見慣れていると
青石の石垣は新鮮味がありますね。
ワタクシは鉱物への知識があまりないのですが、たぶんこの石は秩父石(緑色片岩)
と同じモノなのではないかと思われます。関東だと、板碑に使われる石ですね。
板状に割りやすいので板碑に使われたというのを、何かで読んだ記憶がありますが、
同じ理由で石垣にも使われたのでしょうか。

徳島城 東二の丸 天守跡a

山の中腹に開けた場所。東二の丸です。
ココにかつて天守があったそうです。
なぜ、本丸のある頂上に天守を築かなかったのかは、わかっていないとか。

徳島城 本丸跡a
本丸跡です。今は何もないですけど。
ちょうど東側から西側に向かって写真を撮っています。
ここに立てば城下を一望できますが、夏で樹々の葉が生い茂り、下がほとんど
見えません。景色を堪能するなら、秋冬が良いと思われます。
眉山は写真の左方向にあります。

この後、友人らと合流して午前中いっぱい、喫茶店で談笑。
秋にOB会をやろうぜ!ってことで話がまとまり、幹事になってしまいました。

友人らと別れたあと、ワタクシの乗る飛行機の時間までまだ余裕があったので、また
ちょっと寄り道することに。
市内と空港のちょうど真ん中あたりに、興源寺というお寺があり、そこに蜂須賀家の
墓所があるので行ってみることにしました。

興源寺 山門a

臨済宗のお寺。
山門が特徴的です。

興源寺 山門 仁王像a

やたら原色な、仁王像さまがイカス。
墓域は山門をくぐらないで、左へ真っ直ぐ進みます。

興源寺 蜂須賀家墓所 家祖正勝a
蜂須賀家 家祖正勝の墓(右)
左は正室・松の墓
他の蜂須賀家の藩主の方々とは離れた場所にあります。

初代藩主家政からの歴代藩主の墓は、墓域の奥にまとまってありますが、これが
ビックリするくらい広い墓域です。

興源寺 蜂須賀家墓所a

少年野球なら軽くできそうなくらいの広さです。
開放感があって、近所に住んでいたらぜひお散歩コースに入れたい場所です。

興源寺 蜂須賀家墓所 藩祖家政 (2)a
初代藩主家政の墓。

正勝をはじめ、他の歴代藩主の墓石は五輪塔を用いていますが、家政の墓は
角柱の墓石が採用されています。

ここまで見て、そろそろ飛行機の(というよりレンタカー返却)時間が気になって
きましたので、徳島阿波おどり空港に向かいました。
サヨナラ徳島。
イ○ジ(友人)、また来るよ。

今回の徳島訪問は8月最初の土日。
今頃は徳島市内は阿波おどりで熱狂している頃でしょう。

最後に・・・。
空港のショップで買った、ウケ狙いスイーツ。

うどんキャラメルa
後ろはこんな。
0109214fabb335a6ed8c7828dead4a9594e5a2a39ba.jpg
観光課係長/うどん健、イイ男ですね。スーツの袖がなに気にプレスリー仕様。
実写化の際は大谷亮平さんを希望。

え?味ですか?
こーゆーグッズにそんなコトを聞くのは野暮ってもんですゼ、ダンナ。


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江戸楽アカデミー「江戸歌舞伎のスーパースター☆市川團十郎列伝」

秋の講座のお知らせです。
ワタクシが講師を勤めます小学館集英社プロダクション主催
江戸楽アカデミー秋期講座から。

江戸楽アカデミー 2019年 秋期講座
江戸歌舞伎のスーパースター☆
市川團十郎列伝


今回の講座は歌舞伎がテーマ。
江戸歌舞伎の代名詞、市川團十郎を中心に取り上げます。
先代の12代目が亡くなられてすでに6年が経ちました。その間に第5期の歌舞伎座も
出来上がりましたが、現在まで、その江戸歌舞伎最大の名前は空位のままでした。
しかし、来年5月、いよいよ市川海老蔵さんが13代目としてこの大名跡を継がれる
ことになりました。
これを契機に、江戸時代から始まる代々の「市川團十郎」を知ってみよう!というのが
今回の講座であります。

7月にも海老蔵さんの長男・堀越勸玄くんが、わずか6歳ながら十八番の「外郎売」の
長ゼリフを堂々と披露して見せ、ワタクシも度肝を抜かれたばかりであります。
(ワタクシも演劇をやっておりました時分に外郎売のセリフを覚えさせられましたが、
難しいんですよ、とても!)
たしか、勸玄くんも同時に市川新之助を8代目として襲名されるはず。

ということで、歌舞伎界最大級のイベントに先駆けまして、代々の團十郎について
ネタを仕入れておきませんか?
「そもそも海老蔵って名前は、初代團十郎の幼名なんだけど、2代目團十郎は3代目
に團十郎の名前を継がせてから海老蔵を名乗っててね・・・」
そんな会話で相手の興味を惹けば、きっとあなたもパーティーの主役に!

モチロン、あとラスト2年になりました「江戸文化歴史検定」の受験対策にも!


②初代團十郎 鳥居清倍a
「初代市川團十郎の竹抜き五郎」 鳥居清倍 元禄10年(1697)頃
顔を真っ赤に塗り、墨や紅で隈取りをつけて、怪力の豪傑を演じました。
なぜ荒事の芝居は江戸の人々の人気を集めたのでしょうか。

⑦5代目団十郎 鰕蔵 写楽a
「市川鰕蔵の竹村定之進」 東洲斎写楽 寛政6年(1794)
浮世絵としても超有名作品。知らない人はいないんじゃないか、というくらい。
ところが描かれている人物は、となると・・・???
市川鰕(えび)蔵は、5代目市川團十郎が6代目に名跡を譲った後に名乗った名前。
2代目團十郎と同じパターン。
でも、なぜ「海老」ではなくて「鰕」なのでしょうか?
答えは講座にて。

⑫勧進帳 7代目團十郎(海老蔵)
「勧進帳の初演」 歌川国貞(3代目豊国) 天保11年(1840)
7代目市川團十郎が、能の「安宅」をモチーフに作った「勧進帳」。
しかし、衣装などは現在の舞台とはかなり違ったものになっています。
弁慶を演じるのが7代目市川團十郎。しかし、このときには8代目に名跡を譲り、5代目
海老蔵に名前を戻していました。
その8代目團十郎は7代目の長男。義経を演じています。
右側の富樫を演じるのは2代目市川九蔵。7代目のお弟子さんで後に6代目市川團蔵
を名乗っています。ちなみに初代九蔵は2代目團十郎の初名です。
「勧進帳」ほか、歌舞伎十八番についてもお話します。

「江戸楽アカデミー」HPから。
「歌舞伎界の大名跡として現在に受け継がれる市川團十郎。このたび十三代目の襲名
が決まり話題になっています。本講座では、江戸時代に活躍した初代から九代目まで
を取り上げて、それぞれの生い立ちや活躍ぶり、関連した出来事などを解説しながら、
個性あふれる9人の「市川團十郎」の人物像を、講師独自の視点からお話しします。
江戸歌舞伎の知識と興味深い内容が満載です。」

■ 講義時間/2時間× 1回 ■ 定員/38名 ■ 受講料/3,300円
■ 講師 関 一成 (江戸文化歴史検定1級 文京学院大学生涯学習センター講師)
■ 日時 令和元年10月6日(日) 13:30~15:30
■ 会場 小学館集英社プロダクション・SP神保町第3ビル
      (東京都千代田区神田神保町2-18)
      [交通]地下鉄「神保町」駅A4出口より徒歩約2分・
           JR「水道橋」駅より徒歩約11分

お申込み、詳細は、小学館集英社プロダクション「江戸楽アカデミー」のHPまで。
江戸楽アカデミークリック!


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文京学院大学生涯学習センター 「江戸の名勝地・王子」④

王子駅前はかつて一面の田畑で、その中に反別7畝28分の村有地があったと
「王子町史」にあります。俗に装束畑と称し、常に雑草の生い茂った寂しい場所
だったそうです。その中央に榎の古木がそびえており、この木を装束榎といいま
した。江戸時代までは2本あったと「新編武蔵風土記稿」にあります。明治中期に
榎の大木は枯れましたが、装束榎の記念碑が建てられました。戦前は榎町という
町名にもなっています。
新しい榎も植えられましたが、昭和4年(1929)、道路拡張のために榎は切り倒され
てしまいます。
それが、前回ご紹介した、王子の黄色いランドマーク「ほりぶん」前。

装束榎が切り倒されたあと、その東部に社が建てられ記念碑も移されました。昭和20
年(1945)の空襲で東南方面から延焼してきた火災がここで止まり、北西一帯の住民
が助かったことから社殿が建立されることになります。
それが装束稲荷神社です。

101 装束稲荷神社a

地元の方の話によると、王子稲荷神社、装束榎跡(ほりぶん前)、そしてこの装束稲荷
神社は一直線でつながるんだとか。地図で見ると、確かに!

装束榎碑

これが元々、榎のあった場所に建てられていた装束榎の記念碑
史跡の写真を撮るなら夏よりも秋冬がいいですね。夏はこうやって植物が生い茂って
見事に被写体のジャマをしてくれます。
冬になったら、もう1回写真撮り直しに行こう、だわ・・・。

駅前に戻りまして、ぜひとも寄りたいのがコチラのお店。

70 扇谷a

卵焼きの扇屋さんです。
音無親水公園から王子駅へ向かう間にあります。
扇屋は、慶安元年(1648)に初代弥左衛門が農業のかたわら「農間煮売商人」の
看板をかけ掛茶屋をしたのが始まりで、現在15代目。寛政11年(1799)に料理屋と
なり、八尾善、平清、酔月楼と並び一流と評され、主に武家を客としました。
落語「王子の狐」にも出てきますので、思い出す方も多いのでは。

扇屋a

コチラがかつて、料理屋を営んでいた頃の扇屋さん。
明治期に3階部分を建て増した頃の写真だそうです。

現在、諸々の御事情により料理屋は閉店されていますが、名物の卵焼きをスタンドで
販売されています。
これが、ヒジョーに美味し!
江戸風の甘い味付けであります。王子のお土産といったら、コレです。

もし、お店に15代目のご主人が出ていらっしゃったら、ラッキー!
ご主人は王子の観光ガイドもされていらっしゃるので、王子の歴史について
聞けばいろいろと教えていただけます。

以上をもちまして、文京学院大学生涯学習学習センター講座 「江戸の名勝地・王子」
のまち歩き、終了です。
実際にはブログでご紹介した史跡の他にも、立ち寄った所はありましたが、中心の
ポイントだけを書き出しておきました。

最後に、講座らしく王子に関係する2人の著名人をご紹介しておきましょう。

先ず1人目は、二代目瀬川菊之丞

二代目瀬川菊之丞a
「執着獅子」 三代目歌川豊国

江戸中期の歌舞伎役者。屋号は「濱村屋」。俳名「路考」。
王子の農家・清水半六の子として生まれますが、初代・菊之丞が王子の農家の
娘に産ませた子という説が有力で、寛延3年(1750)5歳のときに初代の養子と
なります。宝暦6年(1756)初代が演じた「百千鳥娘道成寺」を披露して、二代目
を襲名しました。
容姿にすぐれ、地芸・所作、時代・世話を兼ね、本格的な女形としては初の江戸
出身だったため「王子路考」と呼ばれて、大人気をとりました。「路考髷」「路考茶」「路
考櫛」など路考にちなむファッションが、女性の間で大ブームを呼びました。現在の
歌舞伎・日本舞踊でも人気演目である「鷺娘」は、二代目菊之丞が初演したものです。

2人目は万延元年(1860)10月、開港直後の日本にやってきたイギリス人のロバート・
フォーチュン Robert Fortune


ロバートフォーチュンa

スコットランド生まれ。エジンバラ王立園芸協会所属の著名な園芸学者で、東洋植物の
ヨーロッパ移植を成功させた先駆者として知られます。
日本に滞在していた約1年余りの間に、長崎、神奈川、江戸、兵庫などを訪れました。その
旅行中の見聞記「江戸と北京」(Yedo and Peking, 1863)には、王子を歩いたときのことが
印象的に記されています。

王子は、言わば、日本のリッチモンド(ロンドン西郊の住宅地)で、そこにはイギリスの「スター
・アンド・ガーター・ホテル」に匹敵する有名な茶屋がある。ここは江戸の善良な市民達が一日
の遊楽や気晴らしに来る所で、たしかこれ以上の娯楽場を探すのはむずかしいだろう。
やがて道は小丘の下へ出た。道の両側には、郊外の平凡な住宅や庭の生垣がつづいていた。
村に近づくと多勢の人々が外国人を見に出て来た。近頃では外人もとくに珍しいことではない
のに・・・・・・。幾人かの子供に馬をあずけて、われわれは茶屋の中へ案内され、愛想のよい
娘に迎えられた。
茶屋のささやかな庭には、木々の枝や緑の岸や美しい花々でおおわれた小川が流れていた。
近辺一帯がすこぶる愉快で、娯楽を求める江戸の人びとが愛好するに足る場所だと思った。
われわれの前に運ばれた茶や菓子、ゆで卵その他珍味のお相伴をしてから、その辺の田舎
へ散歩に行こうとした。 「三宅馨・訳」


幕末当時の日本の庶民の様子が、外国人の視点からよく描写されています。
リッチモンドとか、スター&ガーターホテルって、そんなに王子やそこにあった茶屋に似てるのだ
ろうかと、いろいろ検索してみましたら、出てきました。

スター&ガーターホテルa
Star and Garter Hotel

こ、これ・・・王子に似てます・・・?

ちなみに下の絵が「江戸名所図会」に出てくる、音無川と周辺の茶屋の絵。

江戸名所図会・音無川a

・・・・・・・・・・・・・・。
まぁ、その・・・。
フォーチュン兄さん、褒めていただき、あざーす!!

「江戸の名勝地・王子」編 完。


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文京学院大学生涯学習センター 「江戸の名勝地・王子」③

王子駅前まで出たら、ガード下を潜らず線路と平行するように西に進みます。
やがて見えてくるのが王子稲荷神社です。

71 王子稲荷神社a

なかなか趣のある山門です。
写真の左端に水色の柵のようなモノが見えます。これ、滑り台だったかな。
神社には幼稚園が併設されてまして、平日に行きますとクレヨンなシンちゃんたちが
キャッキャと元気な声を上げております。
この門は幼稚園の正門も兼ねているようで、開園日は閉まっていてここから境内へは
入れません。横に廻って坂道を登ると直接境内に通じる入口があります。
まち歩きガイド当日は土曜日でしたので、このまま中へ入れました。

さて、この王子稲荷。元は「岸稲荷」と称していました。
創建は不詳ですが、治承4年(1180)に源頼朝が、義家の腹巻・薙刀を奉納したと
いいます。
往時から関東総社と称し、関西の伏見稲荷に対して、関東の稲荷社を総括統一してい
ました。康平年中(1058~1065)に源頼義が奥州征伐の際に立ち寄り、「関東稲荷
総司」としたのですが、この「関東」を別当寺である金輪寺が、陸奥国までも含む「東国
三十三国」と解釈したため、江戸中期までは「東国三十三国稲荷総司」の扁額を掲げて
おりました。これを、寛政の改革で「関八州稲荷総司」に変更させられたといいます。
「お前、守備範囲が東日本は言い過ぎ。せいぜい、関東までだわ」
ってトコロでしょうか。

まぁ、そういう歴史マニア向けの話はさておいて、この神社が有名なのは、というより
王子が全国的に有名なのは、毎年、大晦日の夜、日本各地から狐が集まり、少し
離れた場所にある大榎(装束榎)で装束を整えて王子稲荷に参詣した、という言い伝え
があるからなのです。この時に見える狐火の様子で、土地の農民は田畑の吉凶を占った
といいます。
そんなワケで、ここ王子とこの王子稲荷は狐のメッカということになっているのです。

装束榎a
名所江戸百景「王子装束ゑの木」 歌川広重

「名所江戸百景」は広重の代表作ですが、画題は全て実際のリアルな風景(多少の
誇張はあるでしょうが)なのですが、この「王子装束ゑの木」だけは幻想的な狐が
集まる絵となっています。広重もそう描かざるをえないほど、王子といえば狐のイメ
ージが江戸の庶民に根付いていたんですね。
この画面の右中ほどに描かれた山が王子稲荷のある場所で、手前の装束榎という
大榎に集まった狐たちが稲荷を目指して行列をつくって歩いていくわけです。

では、その装束榎があった場所はどこかというと・・・

ほりぶん

ここです。JRのガードを越えて王子駅前からやや西方の、交差点のド真ん中。
道路拡張の影響などにより、榎はもうありません。
「ほりぶん」というやたら目立つ黄色いビルが目印です。これは食品スーパーらしい
のですが、現在は営業をやめているようです。

王子稲荷に戻りましょう。
本殿の裏は武蔵野大地の高い崖になっていますが、階段を上っていくと狐の穴
祀られております。

79 王子稲荷神社 狐穴a

こういうのを見ると、狐伝説もまんざら全くのデタラメではないのかな、と。

東京はけっこう「狐の穴」の史跡があって、私が今までまち歩きガイドをした中でも
文京区の沢蔵司稲荷、上野公園の弥左衛門狐の穴稲荷などがあります。
江戸の人たちにとって狐はリアルに身近な動物だったのですね。
私の住んでいる東大和市も、大正時代頃までは狐がいたそうですが、今はいません。
狸は狭山丘陵の山に今でもいますが、狐は里に住む動物なので環境の変化に敏感
なのでしょうね。

王子稲荷をさらに西に進むと、前回ご紹介した金輪寺、その隣に名主の滝公園
あります。

名主の滝公園

安政年間(1854~1860)、王子村の名主・畑野孫八が自らの屋敷地に滝を築き、
茶を栽培し、一般に開放したのがはじまりです。将軍が鷹狩りのときに立ち寄られた
こともあり、名声を得たとのこと。
この公園に王子七滝の一つ、名主の滝がありました。

名主の滝

コチラが、現在の公園内にある滝の一つ「男滝」。
明治中期以降、公園として整備され、男滝、女滝、独鈷の滝、湧玉の滝の4滝が
作られていて、かつての王子七滝をイメージさせるものになっています。
もっとも、現在の滝は自然のものではなく地下水をポンプで汲み上げているそうです
けどね。

次回につづく。


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