もうひと月前になってしまいますが、6月に文京学院大学生涯学習センターで
恒例の江戸文化・江戸散歩講座をさせていただきました。
今回は北区・王子を取り上げまして、1日目は座学、2日目はまち歩きを行って
まいりました。
当ブログで告知しなかったんですが、それというのも、講座募集の告知を出して
すぐにソルドアウトになってしまい、急遽参加人数の追加までしたからであります。
「まだ参加募集してるの?」という誤解を招かないため、ブログでのご紹介は
控えておりました。
みなさま、いつも本当にありがとうございます!
で、事後報告という形になりますが、2日目のまち歩きで廻ったところを備忘録
代りに書いていきたいと思います。
まち歩き当日は雨模様。
集合場所はJR上中里駅。お昼頃にかけてかなりの雨だったんですが、スタートの
午後1時になると少し小降りになってきました。それ以降、小雨が降ったりやんだり
みたいな天気でした。
※ブログ上でお見せする写真は、別の日に撮影したものです。
集合を王子の隣の上中里にしたのは、王子の歴史を語るには、ここにある
平塚神社
が欠かせないからなのです。

王子は中世の時代、平家の流れを汲む豊島氏によって支配されました。
王子はかつて岸村と呼ばれていました。すぐ北に荒川が流れているように、この地は
物資の集積地、東北征伐軍の補給地としての重要な土地だったのです。
平塚神社は、かつて豊島氏が築いた平塚城の跡地です。
平安時代後期、後三年の役(1083~1087)に出陣した源義家が、東北からの帰りに
豊島城に逗留しました。豊島家当主近義は手厚く義家をもてなしたので、義家は感謝の
証として鎧一領を近義に下賜しました。近義は後に、この鎧を城の守り本尊として塚を築き
中に埋めます。この塚は高いものホームからではなく、平たかったことから「平塚」と呼ばれたとのこと。
この塚は本殿(写真)の裏にあるのですが、非公開の立入禁止となっています。

上の写真は上中里駅のホームから平塚神社方面を撮ったもの。
樹木がうっそうとした所がありますが、ここがその立入禁止区域だと思います。
この角度から見ると、平塚神社がかつて中世城郭だったというイメージが掴めやすい
ですね。
室町時代に入り、関東管領の上杉氏が関東で力を伸ばすと、豊島氏は上杉氏に味方
していましたが、やがて扇谷上杉氏の家裁だった太田道灌と対立。
豊島氏は本拠を石神井城、練馬城に移していましたが、道灌はこの2城を攻め落とし、
平塚城に逃げた豊島氏をさらに攻めて落城させます。
ここに豊島氏は歴史の表舞台から姿を消すことになりました。
平塚神社鳥居の前の道が岩槻街道。日本橋を出た中山道が本郷追分で分かれた道
です。かつて徳川将軍が日光参詣へ使った道なので、日光御成道と云われました。
平塚神社から街道を西へ進むと見えてくるのが、
西ヶ原一里塚。

街道の両側に当時の原型を残している一里塚は、都内でもここだけという貴重な史跡です。
大正に入り、東京市電の軌道延長路線上にこの一里塚が位置していたため、撤去されそう
になったのですが、渋沢栄一や、東京市長、滝野川町長を中心とする地元住民の運動で
保存されることに成功しました。中央分離帯側(写真左)の塚には、その保存の経緯を記し
た「二本榎保存之碑」があります。
と、これが北区の説明なんですが、板橋区の志村には中山道の「志村一里塚」があって、
板橋区はコチラの一里塚も都内にそのままの形で現存する一里塚だと主張しています。
まぁ、こういった地域によって異なる説が出てくることはよくあります。
当事者にとっては色々と主張したいこともあるのでしょうが、トンデモ話であれば別ですが、
研究者でもないワレワレ第三者は「こういう説もありますので・・・」とご紹介だけするのに
とどめておいた方がいいと思います。
ところで、この西ヶ原一里塚。ぜひとも道路を渡って中央分離帯側に行ってみたいところ
ですが、横断歩道も信号もなく、交通量も多いため渡ることはできません。
車の来ない一瞬を見計らって渡ろうとしても、実は対面に警察署があるので、それも
やめておいた方が良さそうです。
警察署の3階からレイバンのサングラスをかけて、ショットガンを構えた大門部長刑事が
絶えず見張っているので注意です!
さて、一里塚を過ぎたらすぐ
飛鳥山です。

飛鳥山は上野から北に連続する武蔵野大地の北端にあります。そのため「山」ではない
のですが、石神井川が台地を横切るように流れ、谷を作っているため高い山のように見え
るのです。この地形と、豊島氏が紀州の飛鳥明神を勧請したことにより、「飛鳥山」と呼ばれ
るようになりました。
江戸時代に8代将軍徳川吉宗が、この飛鳥山にたくさんの桜の木を植えて、庶民に開放
したことが有名ですね。当時、江戸の桜の名所といえば上野の寛永寺。庶民も桜を見る
ことはできましたが、なにせお寺ですので音曲などは禁止。
当時、享保の改革で節制を強いられていた庶民に、吉宗が「ここでならドンチャン騒ぎも
OKだぜ、ベイベー!」と、ガス抜きとして考えられた政策だったんですね。

飛鳥山にはいくつか石碑がありますが、その中で江戸時代からあって有名なのが、この
飛鳥山之碑。
元文2年(1737)に、徳川吉宗による飛鳥山の事績を顕彰するために建てられました。
飛鳥山を管掌していた金輪寺の住職・宥衛が紀州熊野の石を用いて建立したそうです。
撰文は儒者の成島道築。日本一難解な碑文と云われ、当時の川柳に「此枝を折るな
だろうと石碑みる」「飛鳥山なんと読んだか拝むなり」などと詠まれています。
難解だというのは、漢文だからというのもあるんですが、この石は天然石でしょ。近くで
見るとわかるんですが、石の表面にあちこち筋が走っていて、その筋を避けるように文字
が斜めになったり、あるいは筋と同化してたりして、それで読みづらいワケです。
中世の豊島氏は一時、紀州の熊野に地頭として赴任していた時期があり、それで紀州に
所縁のある「飛鳥山」「音無川」などの名称を、地元にも名付けたのだといいます。
その伝承を聞いた吉宗は、紀州出身なものだから嬉しくなって、飛鳥山を観光の名所に
したのだとも云われます。
名所江戸百景「飛鳥山北の眺望」 歌川広重遠くに見える山は筑波山です。

ほぼ同じ場所から見た令和の「飛鳥山北の眺望」。
次回につづく。
「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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