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地域発見講座より 東大和市と戊辰戦争②

3 振武軍、東大和に来る

1 振武軍の金策
振武軍は5月1日、田無村の西光寺に陣を構えました。そして、各組合村へ
廻状を回し、村の代表者を集めます。
蔵敷村の名主・内野杢左衛門も田無村へ呼び出されました。振武軍には、
遅れて上野の山から駆けつけて合流した者が次々と加わり300人ほどになり、
西光寺の他、光蔵寺、太子堂、観音寺に分宿していました。
渋沢が村々を呼びつけた理由は、金策でした。

右本陣西光寺着届致し候ところ、列席にて惣隊長申し聞くには、この度徳川氏
再興のため、金高を短冊にて申し達し候通り助力いたし候よう、頼み入り候旨
申し聞かされ、金20両重蔵と申す短冊下げ渡し相成り候間、品々歎願申し
あつめ候処、強勢に申し威し種々強談及ばされ候えども、お申し付けの金高は
とても自力難く及ぶ旨再び応じ歎願いたし、詰り金5両差し出しようやく勘弁いた
し貰い落手相成り・・・・(里正日誌)


重蔵とは蔵敷村で組頭をしている家ですが、当時組頭は商いをしている家が多く、
振武軍はそのような家に軍資金を要求してきたのです。
振武軍の要求は20両でしたが、重蔵は「とても応じられず歎願して」5両だけを
差し出します。これに振武軍が怒ったかというと、そうではなくおとなしくその金額を
受け取っています。

DSCF0564a.jpg

2 村々の対応
振武軍の金策は重蔵だけではなく、他の村人へも向けられます。東大和市域が含まれた
所沢組合村では、どのくらいの金額が要求されたのでしょう。一例を上げておきます。


下安松村(所沢市) 名主 新助 150両→50両 
所沢村 百姓 伝右衛門 150両→50両      
所沢村 百姓 弁蔵 100両→30両         
所沢村 百姓 孫七 100両→30両
所沢村 百姓 源兵衛 100両→25両       
粂川村 年寄 太座衛門 100両→20両     
高木村 名主 庄兵衛 50両→10両
高木村 百姓代 清五郎 20両→7両
高木村 百姓代 宇兵衛 20両→5両
蔵敷村 組頭 重蔵 20両→5両

計22ヶ村 46人 2280両→726両

(左の金額は要求額。右は実際に支払った額)

振武軍は所沢組合の他からも、田無組合村々から730両、拝島組合村々から500両、
扇町谷組合村々から720両、日野組合村々から500両、府中組合村々から500両の
献金を受け取りました。どの組合も要求額よりは少なく納めたのでしょうが、それでも
3500両近くの金が集まったことになります。
杢左衛門の記述にあるように、村民にとって献金は強引に奪われたという印象があった
ようです。つまり、3500両という金額は大金ですが、それは決して村々が振武軍を支持
していたわけではなかったのです。

3 その後の振武軍
5月12日に田無村を立った振武軍は、小川村(小平市)を通過して箱根ヶ崎村(瑞穂町)
に布陣しました。ところが、15日に上野で戦争が起ったとの情報が入ります。振武軍は
急いで彰義隊の元へ駆けつけようとしますが、高円寺村(杉並区)で彰義隊の敗戦を聞き、
田無村へ引き返します。すると、彰義隊の敗走兵が次々とやってきて、彼らは振武軍と合流。
1200人程の集団になりました。(※天野八郎は逃亡先で捕縛され、後に獄中死しています。)
その後、振武軍は二隊に分かれて一隊は小川を通って箱根ヶ崎から扇町屋(入間市)へ。
もう一隊は所沢から扇町屋に入り、合流して飯能の能仁寺に立て籠もりました。
これに対し新政府軍は大村、筑前、備前、佐土原、久留米の各藩兵2000人余りを出陣させ
ます。彼らは田無村に泊まったので、賄い方として蔵敷組合も呼び出され働かされました。
そして23日、新政府軍と振武軍は戦闘に突入。激戦の結果、能仁寺をはじめとして飯能の
町は焼かれ振武軍は敗走しました。これを飯能戦争といいます。

渋沢成一郎や散り散りとなった振武軍、彰義隊士は、後に榎本武揚の海軍に合流。箱館で
再度彰義隊を結成し、渋沢が隊長に就任します。松前城攻略などで戦果を上げた彰義隊です
が、またしても内部分裂を起こし二隊に分裂。そのまま箱館戦争終戦を迎えます。


4 東大和の戊辰戦争

1 中山道蕨宿への当分助郷
振武軍が田無村へやって来て金策をしていた同じ頃、狭山丘陵の村々では別の問題に直面
していました。新政府軍が大挙して江戸へ下ってきたため、宿場での大量の継立が必要と
なったのです。
東大和周辺では後ヶ谷、奈良橋、蔵敷、清水、高木、芋窪、中藤、横田、砂川、廻田、久米川の
村々が、当分助郷として中山道蕨宿まで勤めるよう命令がありました。。
さらに、大宮、川崎、日野、府中の各宿場へも人馬負担が掛けられ、村々では大きな負担となり
ました。

2 他にも来た、諸隊
東大和周辺には振武軍の他にも、正体不明の怪しげな諸隊がやって来ています。
慶応4年閏4月11日、八王子に仁義隊という、300人ほどの佐幕方の一隊がやってきて
八王子宿や周辺の村々から金を、農兵隊からは銃、刀、鎗などを要求しました。さらに
仁義隊の中から30人程が分かれ撒兵隊と名乗って農兵から武器を調達しています。
仁義隊も振武軍と同じく多額の金銭を要求しましたが、村が少額の金額を提示すると
おとなしくその金額を受け取っています。

同じ頃、所沢に精勇隊と名乗る50人程の一隊もやってきます。彼らは新政府方阿波稲田
藩の附属とのことでした。ところが、彼らは所沢村の名主・助右衛門を拘束し、武器や金を
要求したのです。精勇隊は最初500両という高額を要求しましたが、結局白米50俵、金
30両で合意。蔵敷村名主・杢左衛門も願い出て助右衛門は解放されました。
ところがその直後、八王子に宿陣していた新政府軍の掛川藩から目付が100人程の兵を
率いてやってくると、あっさり降伏してしまいます。精勇隊は「官軍」を詐称する「ニセ官軍」
だったようです。

3 新政府の密偵
慶応4年9月6日(この2日後明治に改元)、蔵敷村の名主・内野杢左衛門の所へ新政府志筑
藩の兵藤雷太郎という男が訪ねてきました。彼は旧幕府領地域の人々がどのように新政府の
東征を考えているのかを探る密偵でした。

「・・・・さて上段に右雷太郎殿ならびに御同役壱人弐人都合四人列座、次の間に家来弐人
相見ひ、右問われ候は、第一精勇隊の情実、第二遠近重立ち候村役人の平常の取り扱い振り、
第三人気の動静、第四脱走人の金穀掠奪、第五最寄り村の重立ち役人の正不正、用不用、
気質の善悪(よしあし)など密密お尋ねにつき、事実有体に申し述べ候処、御同役逸逸書き取り
成られ、聞人弐人より外に何々廉(かど)承り候えども、これは実か虚かと尋ねられ候につき、実は
実虚は虚と相答え、・・・」(里正日誌 第10巻)


ここに至るまで、なぜ幕府領や旗本領の多い武蔵国で新政府への根強い抵抗があるのか、
新政府はその原因がよくつかめなかったようです。そこで、兵藤のような密偵を仕立てて、各地
への聞き込みを開始していました。杢左衛門は質問に毅然と答え、兵藤は「これまで雲霧相晴
れず、更に事情相分からず候処、貴殿の答弁にて誠に明白に相分かり」
と答えて去っていき
ました。
また、こうした情報収集の他に、慶応4年の8月には日本橋に目安幕が設置され、新政府は
広く一般庶民の考えや意見を聞こうともしています。

4 変わりゆく村
慶応4年1月の鳥羽・伏見の戦いから、5月の上野戦争の頃まで、多摩・狭山丘陵一帯は
無政府状態だったといえます。徳川時代の直接支配者だった代官は京都に行き、すでに
新政府に恭順。しかし、その新政府が旧天領を支配できていたかといえばそうではなく、
振武軍のような佐幕派が献金を求めてやってくる状況があったのです。
閏4月16日、芋久保村の住民2人が田無村へ向かう途中、小川村で2人組の強盗(1人は
侍)に襲われ10両の大金を奪われるという事件が起こります。強盗は青梅方面に逃げて行き、
芋久保の2人は大急ぎで村に帰りこのことを告げました。村では近隣の村々にも声を掛け、
武器を持って強盗を追いかけ、ついに三ツ木村で発見。周りを大勢に囲まれた強盗はすぐに
観念して捕まりました。住民らは強盗を芋久保と蔵敷の間にある狐塚に連れていくと、その場で
相談の上、斬首してしまいました。(「指田日記」「里正日誌」)

戊辰戦争により一時的にでも空洞化した狭山丘陵の村々では、お上の採決を待たずに自ら行動
を起こす空気が出来上がっていたのです。


ということで、9~10月にかけて市内で行った公民館講座の内容を記事にアップしてみました。
当ブログで過去に書いたことがほとんどですが、ざっくりとまとめて読むにはちょうどいい
機会だったかなと思います。
農兵隊などについては、これからも分かったことがあったら、その都度アップしていきたいと
思います。


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地域発見講座より 東大和市と戊辰戦争① 

東大和市地域発見講座の3回目は、東大和市と戊辰戦争の関わりです。
以前にもお話しましたが、戊辰戦争における実際の戦闘は、東京では上野で彰義隊の
戦いがあっただけですが、やはりその影響はその他の地域にもあるワケで。
そのひとつの例として、東大和市域のケースを上げたいと思います。


1 東征軍と江戸城開城

1 江川代官の恭順
慶応4年2月15日、東征大総督の有栖川宮熾仁親王は京都を出発し、慶喜追討のため
江戸に進軍します。
その少し前、東征軍の先触れが韮山の江川代官屋敷にやってきて、朝敵(慶喜)を討つ
ために今まで江川家が支配してきた支配地の絵図面や石高帳・人別帳を持って総督府
まで出頭せよと江川は命令を受けます。
江川英武は手附の柏木総蔵と共に名古屋へ行き、木戸準一郎(木戸孝允)と面談。
そこで兵力の供出を命じられます。しかし、代官所には兵隊はなく、農兵も他を攻撃する
ためのものではないことを江川は訴えました。
木戸は江川らに京都まで行き、事情を説明するよう言います。江川らはそのまま上京し、
10月まで滞在。3~4月頃、韮山の領地安堵を言い渡され新政府に恭順しました。

2 江戸開城と旧幕臣
3月12日から14日にかけて、新政府軍の西郷隆盛と旧幕府を代表して勝海舟が話し
合い、慶喜を水戸へ預けることと江戸城の明け渡しが決まりました。4月11日に江戸城は
無血開城しますが、海軍を率いる榎本武揚は軍艦の引き渡しを拒否して江戸湾を脱走。
また、陸軍の大鳥圭介も伝習隊の一部を率いて脱走し、これに土方歳三らも合流。北関東、
東北へと転戦していくことになります。
一方、江戸周辺に残りながら、新政府に抵抗を試みる幕臣を中心とする勢力もありました。
その代表とも言えるのが彰義隊です。

2 彰義隊と振武軍
                     
1 彰義隊の結成
慶喜が上野の寛永寺に謹慎をした時に、一橋家の家臣の中から慶喜の護衛をしたいと
いう有志が集まりました。彼らは会合を重ねるうちに人数を増やして行き67名が集まり
ます。彼らは「尊王恭順有志会」と名乗りその後「彰義隊」と改名、頭取に渋沢成一郎、
副頭取に天野八郎が就任しました。

②渋沢成一郎a➀天野八郎a
渋沢成一郎                   天野八郎


渋沢成一郎は武州榛沢郡血洗島(埼玉県深谷市)の豪農の出身。天保9年(1838)
生まれで、2歳下の従兄弟に明治の大実業家・渋沢栄一がいます。成一郎と栄一の
二人は江戸に出たところ、一橋家用人の平岡円四郎に誘われ、一橋家の家臣となり
ました。御三卿は大名家ではないので家臣が少なく、当主の慶喜が注目されてくるよう
になるに連れて有能な家臣が必要となっていたのです。慶応2年(1866)に慶喜が
徳川宗家を相続したことにより、2人も共に幕臣となりました。
栄一はフランスで行われた万国博に参加した慶喜の弟・徳川昭武の随行員として欧州に
派遣され、成一郎は陸軍奉行支配調役から奥右筆格に抜擢されるなど、活躍。鳥羽・
伏見の戦いでは、大坂に取り残された幕臣らを江戸まで帰還させる責任者を任されました。

天野八郎は上州甘楽(かんらく)郡磐戸村の庄屋の次男として、天保2年(1831)に生まれ
ます。本名は大井田林太郎。
父親が江戸神田で公宿を営んでいたことから江戸に出て、男谷精一郎門下生となり直心影流
の剣術を学んだといいます。その後、火消役与力・広瀬家の養子となりますが、すぐに離縁。
その頃から天野八郎と名乗り始めますが、その理由は不明です。
天野は幕臣でも一橋家の家臣でもないのですが、No.2の座に推されたのは人望があり、リー
ダーシップもあったからだと思われます。

彰義隊は慶喜の身辺警護を目的とした部隊であり、薩長と一戦交えてやろうという目的で
作られたものではありませんでした。特に頭取の渋沢は一橋家家臣でしたから、当主慶喜の
命だけは何としても守らなければならぬ、という気持ちが大きかったのです。
ところが次第に彰義隊の評判が広がり、入隊希望者が次々と集まってくるようになりました。
幕府がなくなり明日の希望が見えない状況に身を置いた幕臣らの受け皿と、彰義隊が見られ
てきたようです。こうして上野の山には300人以上が屯集するようになってきたのです。
しかし、ひたすら恭順し助命を嘆願する慶喜にとって、彰義隊は厄介な存在だと思ったのが
勝海舟です。そこで勝は彰義隊に江戸市中の取締りを命じ、その行動に責任を持つように
仕向けました。当時の江戸は治安が相当に悪化していたので、彰義隊は江戸っ子の評判を
呼びました。

ところがこの頃になると、彰義隊の中で意見の対立が起こり、渋沢派と天野派という二つの
派閥ができてしまいます。渋沢は先にも話したように、彰義隊の目的は慶喜の護衛であると
いうスタンスです。新入隊士も幕臣に限る、としていました。
しかし、集まってくる者の中には幕府の再興を考える者が多く、その意を汲み取っていたのが
天野でした。天野は隊士募集も「身分・前歴問わず」、薩長への反抗心があり戦う気持ちがあ
れば誰でも引き受けました。簡単に言ってしまうと、慶喜大事・慎重論の渋沢派と幕臣生活
大事・主戦論の天野派です。

3 彰義隊の分裂
次第に二派の衝突は表面化することになり、ついに「新政府に寝返らないこと」「降伏はしない
こと」を約束して天野派と渋沢派は分裂してしまいました。
この頃、4月11日、慶喜は水戸で謹慎するために江戸を出ます。彰義隊の大多数を率いること
になった天野は、1000人余りに増えた隊士とともに寛永寺座主・輪王寺宮公現法親王を守護
するため上野の山に入りました。新政府を撃退し、幕府を再興する。それが天野率いる彰義隊
の目的となったのです。

一方の渋沢は100人の隊士を連れて江戸を出ました。慶喜のいない江戸にいても仕方が
ないし、水戸は他藩ですから入れません。彼らは青梅街道を西に進み、田無村(西東京市)に
駐屯しました。
渋沢は彰義隊から分かれたこの隊に振武軍と命名します。

ここまでは、東大和市域はカンケイのない話ですが、これを話しておかないと振武軍が何者
なのかわかりません。それで、講座でもこのように彰義隊について触れさせていただきました。
さて、この振武軍が東大和市域にやってくるのですが、それはまた次回。


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