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地域発見講座より 東大和の農兵②

3 農兵の出動

1 第二次長州征伐
慶応2年(1866)2月、高杉晋作らにより藩論を討幕に定めた長州藩
に対して、幕府は2度目の長州征伐を行います。しかし、長州と薩摩の
密約(薩長同盟)や奇兵隊の活躍などがあり幕府は劣勢を強いられます。
幕府はこの状況を変えるべく、江川代官支配地の農兵を戦地に送る計画
を立てました。
6月14日、蔵敷村名主の杢左衛門は日野宿に逗留していた代官所役人に
呼び出され、幕府の要請を受け入れるように迫られました。
しかし、杢左衛門は「最初、農兵お取り立ての御趣意とは、相振れ候間、
村々へ談じ候ならでは、お請け仕りかね候旨申し上げ・・・」
(「里正日誌」)と、
その場では決められないと意見しました。

2 武州世直し一揆
幕府が江川農兵に長州出兵を要請していたまさにその時、上野国・武蔵国の
貧農層から一揆が起こりました。一揆は瞬く間に関東一円に広がり大きな騒乱
に発展します。
「武州世直し一揆」と呼ばれたこの騒動は、米価高騰などにより困窮した貧農層
が米穀商人、質屋、大地主などの豪農層に対して、米価の引き下げ、質地・質物
の返還、施米・施金の実施を要求し、叶わなければ打ちこわしを働き、これが同時
多発的に蜂起されたものでした。
6月13日に武蔵国秩父郡上名栗村から発生した一揆は、わずか7日間で東は
中山道筋、南は多摩川流域、北は上野・武蔵国境まで一気に拡大し、参加した民衆は
十数万人と云われています。
農兵を長州に派遣する話は、一揆勃発で完全に立ち消えました。

3 江川農兵の出動
江川代官所の農兵隊は正式に一揆鎮圧の出動命令が下されました。抵抗する者は
「打殺」してもよいとの許可も降ります。
6月16日早朝、粂川村から「粂川より大岱(おんた)・柳久保打ちこわしこれ有り」との
一報が入り、蔵敷村組合9ヶ村の農兵、人足合わせて300人が粂川に出動し警備に
付きました。粂川に一揆は来ませんでしたが、柳久保の打ちこわし現場では田無村
組合農兵が一揆勢と交戦し、即死8人、13人召し取りの活躍を見せます。
さらに同日、日比田村(所沢市)から打ちこわしの脅迫がきているとの救助嘆願があり、
蔵敷村・田無村両組合が日比田村に出動しますが、一揆勢は来ませんでした。

一方、多摩川流域の築地(ついじ)河原では、一揆勢を日野宿・八王子宿・駒木野村
組合農兵が迎え打ち、激しい戦闘となりました。日野宿では名主の佐藤彦五郎が
農兵隊の他、撃剣組を率いて出動。一揆勢が川を渡る前に狙撃、あるいは斬り倒し、
2000人いた暴徒は即死18人、召し取り41人を出して退散しました。その他、大久野
村でも五日市組合農兵が即死10人、召し取り26人の活躍を見せています。

※(補足)日野宿農兵隊のこの時の行動については、佐藤彦五郎の孫・仁氏の「籬蔭
史話」(その中編をまとめた「聞きがき新選組」)に詳しく記載されています。
また、五日市でも大きな戦いがあったことに注目です。
当ブログでも取り上げましたが、大久野の羽生家に近藤勇の手紙が残されている
一件(「羽生家と近藤勇書簡」)で、新政府の追手を逃れるために彦五郎が頼ったのが
羽生家だったことも、農兵隊の連携から考えれば理解ができます。

一揆勢は6月19日には壊滅し、警備や各地の見舞いに行った蔵敷村組合農兵や
杢左衛門も月末までには帰村しました。暴徒は各藩の藩兵や幕府軍によって鎮圧され
ましたが、特に江川農兵の攻撃が一揆勢の壊滅に効果的であったとされます。
この影響は各地でも広まります。
横浜では代官の今川要作が村々に農兵取立ての意向を示すと、寄場組合村でもこれ
を受け入れ、「綱島農兵隊」「川崎農兵隊」が誕生しています。

※(補足)今夏、横浜歴史博物館の企画展「戊辰の横浜」(「横浜歴史博物館『戊辰の
横浜』展」
)で横浜の農兵隊について見学してきました。「里正日誌」には、一揆
騒動の後日、今川要作が江川農兵隊を視察に訪れたことが書かれています。
「廿三日、御代官今川要作様八王子出立、砂川中飯、奈良橋継立、所沢泊まりにて
御通りにつき、警固として農兵差し出し候方然るべき旨砂川村名主源五右衛門申し
越し候間、大急ぎにて組合村農兵呼び立て奈良橋へ罷り出で候ところ、御手代衆
達しご遠慮なされ候につき、すぐさま引き取り銘々帰宅、然るところ粂川村内もつれ
の儀について、兼て頼み請け候儀これ有る間、昼九ツ半時頃罷り出で同村泊まり」


4 農兵はどう期待されていたのか
東大和市内に保存されている、当時の農兵が使った「農兵訓練の栞」には、農兵が
どのように隊列を組み、行進し、いざ戦闘の際には小隊をどう展開させるかが書かれ
ています。これはおそらく、芝新銭座で教育を受けた幹部候補生が地元での農兵訓練
のテキストとして書き留めたものだと推察できます。

DSCF0545a.jpg

上のページには「騎兵ニ向ヒ」と書かれ、農兵の対戦相手として、騎兵も想定されている
ことがわかります。

DSCF0553a.jpg

このページには「撒兵(さっぺい)」の文字が見えます。撒兵とは歩兵のこと。文久2年
(1862)の文久の改革で、幕府に設置された「陸軍」において、小普請組の御家人を
集めて作られた歩兵隊を撒兵隊といいました。農兵隊の号令は撒兵隊と同じだった
ようです。なお、「気を着け」「右向け右」などの号令は江川英龍が考案したものです。

この栞の内容は「歩兵練法」「歩兵心得」といった幕府陸軍所発行の書籍から引用した
ものである可能性が高いと思われます。
農兵の訓練にはこれらの本に書かれた訓練法を、便宜上使用しただけなのかもしれま
せんが、農兵設置の元々の目的「地域の治安維持」だけではなく、幕府は騎兵との戦いや、
幕府正規軍との合同行動が可能なように農兵を考えていた可能性も考えられます。

慶応3年(1867)3月に、蔵敷村農兵隊は観音崎警固の命令が出たので出張しましたが、
3回目の命令には断りを入れています。また、12月には芝新銭座の江川調練場の警備も
命じられますが、村ではこれも断りました。
村側は、あくまでも農兵は地域防衛のためであることに拘ったのです。

4 維新後の農兵

慶応3年(1867)12月の王政復古の大号令により、幕府は消滅します。しかし、京都の
新政府がすぐに全国を統治できるわけもなく、江戸周辺では旧幕府の支配体制はそのまま
存続しました。当然、天領の支配も代官所が継続して行っていました。
ところが戊辰戦争が始まり、東征軍が東海道を進んでくると、代官の江川英武(英敏の弟)は
いち早く新政府に恭順してしまいます。旧幕府と支配地域との繋がりは絶たれ、江川支配地
の農兵は消滅することになったのです。旧天領の村々はほとんどが新政府に恭順の姿勢を
取りましたが、中には日野宿農兵隊のように、新選組(甲陽鎮撫隊)と共に新政府に抵抗した
所もありました。
戊辰戦争が終わり明治の世の中となると、農兵制度は完全に廃止となります。しかし、政府
には予算もなく、警察組織は江戸時代と同様脆弱なままでした。そこで政府は旧幕府と同様に、
各地域では自ら治安維持を行うよう村々に委託せざるをえなかったのです。
明治3年(1870)4月に農兵が使ったゲベール銃は政府に引き取られましたが、ミニエー銃
(国産スプリングフィールド銃)はそのまま貸与されました。蔵敷村で6挺、奈良橋村、高木村、
後ヶ谷村でそれぞれ3挺ずつが明治8年(1875)まで貸し出されていたことがわかっています。

幕末の多摩・狭山丘陵一帯は治安が悪化し、民衆は命と財産を自ら武装して守るよりほか
ありませんでした。多摩一帯に天然理心流などの剣術が流行したのも、そのためです。農兵
政策はその自衛手段と意識をさらに一歩進めたことになりました。開国派の江川英龍が代官
として村々を指導したことも、多摩の農兵が西洋式の訓練に順応できた大きな要因となった
でしょう。
しかし、彼らの武力行使は、あくまでも自らの命や財産を守る自衛に限ったものでした。

西南戦争が終わると、多摩でも自由民権運動が活発化します。庶民が自らの権利を主張し
始めたとき、その中心にかつての農兵組合が置かれていた場所が多いのは、無関係では
ないでしょう。


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地域発見講座より 東大和の農兵①

講座の2回目は、農兵についてです。

農兵とは何か?

農兵とは武士の代りに、あるいは武士の補助として農民に武器を持たせて、
兵力とするものです。江戸時代は兵農分離が原則とされていましたが、時代
が下がってくると日本近海に外国船が現れるようになりました。日本は島国で
あり、海岸線を全て武士が守ることは困難です。海に面した各藩では農民、
漁民に武器を持たせて警備をさせるなど対策を立てるところが出てきました。
早いところでは盛岡藩が文化5年(1808)に、海岸線へ猟夫の配備を制度化
したり、水戸藩でも文政8年(1825)に郷足軽という海防要員を農民から取り
立てた例があります。
農兵には、農村に住む郷士、農民が在地のまま軍事訓練を受け正規軍の補助
をしたもの、農民が土地を離れ兵営に入って常備軍となったものなど、農兵を
採用した領主によっていくつかのパターンに分かれます。

1 江川太郎左衛門と天領

1 江川の海防と農兵政策
幕末当時、江戸近郊の海岸線はそれぞれの大名家に防衛守備が任されていま
した。しかし、どの藩も予算や人員が不足していたため消極的でした。江川代官所
の本拠地韮山に近い下田警備も小田原藩、沼津藩の担当でしたが、出動が遅く
当てになりません。
江川は幡崎鼎(シーボルトの弟子)や渡辺崋山との交流があり、蘭学への理解が
ありました。蘭学は医学として日本に入ってきましたが、やがて軍事学とセットに
なって国内の先進的な知識人の間に広まります。彼は高島秋帆から西洋式銃の
指導を受け、自ら銃の製作を試みるなど軍隊の近代化の必要性も感じていました。
江川は頼りにならぬ藩兵よりも地域住民に海岸線の防御を任せるのが有効と考え、
「農民に近代西洋戦術を学ばせ戦力とする」農兵の設立を幕府に献策します。しかし、
「農民が武器を持てば一揆に繋がる」と考える幕府からは許可が出ませんでした。
そこで江川は、実験的に自分の領地内の金谷で農兵の訓練を行います。嘉永2年
(1849)にマリナー号事件が起こると、自ら金谷農兵を引き連れ艦長と交渉し、マリ
ナー号を退去させることに成功します。江川は農兵の有効性に自信を深めました。

2 天領の治安悪化
江戸時代後半は社会の経済活動が活発になる反面、天明の大飢饉(1783~88)
などの影響により土地を手放し無宿人となる者が多く出て、関東周辺の治安は悪化
して行きました。多摩地域を含む江戸周辺は天領、私領、寺社領が複雑に入り組んで
いたため、犯罪者が逃げ込みやすい環境にあったのです。
幕府は対抗策として、文化2年(1805)関東一円区別なく捜査ができる関東取締出役
(八州廻り)を設置し、さらに文政10年(1827)に、近隣の30~50ヶ村による寄場組合
村(改革組合村)を設置させ、治安・警察機能を村々の自衛に委ねました。東大和市域の
村々は所沢組合村に組み込まれ、後ヶ谷村名主の杉本平重郎や蔵敷村名主の内野
杢左衛門が小惣代に選ばれています。
img014a.jpg

安政5年(1858)に日米修好通商条約が結ばれると、「アメリカ人の自由行動は横浜から
10里以内、ただし六郷川(多摩川)を越えない」というルールができます。これにより、多摩
川筋にあたる武州の村々が江戸防衛の最前線に置かれることになってしまいました。
さらに安政7年(1860)桜田門外の変が起きると、幕府は多摩地域などに、水戸浪士が
村に入れば捕縛するように命令を下します。これは事実上の村への武力増強要請でした。

3 農兵政策の採用
このような状況の中、ついに幕府は江川代官の意見を聞き入れます。英龍は安政2年
(1855)に54歳で亡くなっていましたが、息子・英(ひで)武(たけ)が代官となっていた文久
3年(1863)ついに江川代官支配地域の天領内に限って農兵の採用が、幕府によって
認められました。その地域は多摩川を越えた狭山丘陵一帯にも広がったので、英龍が当初
想定した対外国人という目的からははずれています。しかし、治安維持として農兵が組織さ
れることは、多摩の村々にとって大きな関心事となりました。
江川代官所の支配地域では、寄場組合とは別に新たに農兵組合を設立させ、組合ごとで訓練
や行動をすることになりました。東大和の村々は上新井村組合に入り、農兵の御用筋について
は田無村の下田半兵衛から受けるようにと指示がありました。しかし、元治元年(1864)に、
上新井村ほか入間郡の10ヶ村が江川代官所の支配から離れたため、東大和、東村山地域の
村々は新たに蔵敷村組合を結成することになったのです。
蔵敷村は正徳年間に奈良橋村から分かれてできた村で、幕末期に至っても幕府の正式な
書類には「蔵敷分」と書かれているなど、正式に独立した村とは見られていなかった様子も
見られます。
しかし、組合のように東大和市域周辺がまとまる時にはリーダー的な役割を担っています。
また、現東大和市の中で芋窪だけが、蔵敷村組合に入らず西方の拝島村組合に組み込ま
れています。

2 農兵の実体

1 農兵の費用
農兵の設置が決まった文久3年の11月、上新井村名主・市右衛門と蔵敷村名主・杢左衛門
の両名は代官所からの呼び出しを受け、田無村へ出頭しました。そこで

「方今御用途多きの折から、御救い筋とは申しながら御貸し渡しあいなるべき小筒、附属の
品々代金その外容易にこれなし。恐れ入り奉り候義にて右は御国恩の冥加あいわきまえ、
身元のもの共より献金あい願い候者もこれ有るべきか・・・・」
(「里正日誌」)

と告げられます。幕府に予算がないので、各村々の有力者からの献金によって、農兵にかかる
経費を賄いたいと幕府が申し出てきたのでした。市右衛門・杢左衛門の両人は奔走し、組合の
22ヶ村133人から520両の献金が集まりました(表A)。武蔵・相模2国の支配地14組合では、
献金総額が7847両になっています。(表B)

農兵上納金農兵上納金2
※表Bは上新井村他10ヶ村が抜けたあとなので、蔵敷村組合の金額は表Aよりも
少なくなっている。

2 農兵の身分
農兵に取り立てられた農民の身分について、当初江川は「平常は農民であっても調練時
には苗字帯刀を認める」と考えていましたが、実際には幕府はこれを認めませんでした。
つまり、身分は農民のままでした。
代官所は農繁期の訓練は避けるなどの便宜を計らい、決して高圧的な態度をとらず、
農民からの自主的な農兵への参加を促しました。
農兵には小銃による西洋式の訓練が行われましたが、その小銃について、当初幕府は
各組合が負担するように考えていました。しかし代官所は、それでは幕府の御威光が
下がるとして勘定所に意見書を提出し、幕府からの貸与として農兵に渡されました。
ここでも村々の負担をできるだけ軽くしようとした代官所の意向があったのです。

3 農兵の実施と訓練
農兵の訓練が実際に行われたのは元治元年(1864)9月からでした。組合全体での
訓練に先駆けて、田無、拝島、青梅、檜原、蔵敷、氷川の6組合10ヶ村から11人の
代表者が選ばれ、芝新銭座にある江川代官の調練所で西洋式軍隊の調練が48日間
にわたって施されました。指導には鉄砲方附教授があたりましたが、この訓練は農兵の
幹部候補生教育であったと考えられます。訓練後には代官所から褒美として菓子が訓練
生に振る舞われ、代官所が村々への気遣いをしていることが窺われます。
翌元治2年(1865)3月には、蔵敷組合11ヶ村で29人の農兵人が決まりました。(下図)
名主の家から6人、組頭から9人、百姓代から1人と、半数以上を村役人層が占めています。
また、村役人本人よりもその子弟が多いため平均年齢は26.9歳と比較的若くなっています。
持高の平均が13.0石ですが、畑作中心の東大和・東村山地域では富農層といえるでしょう。
以上のことから村の指導者層が積極的に農兵政策に関わっていったことがわかります。

農兵幹部a農兵幹部2a

3月11日からは下稽古が、蔵敷村名主・杢左衛門宅の庭で行われました。この下稽古は
幹部候補生たちの指導の元に行われ、杢左衛門宅のほか、高木村庄兵衛宅の庭、野口村
正福寺境内で15日間に渡って実施されました。
6月からは、実弾射撃訓練も行われましたが、このときには代官所から教授方の手代がやっ
てきて逗留し、その指導の元に行われました。元治元年(1864)には横浜駐屯イギリス軍が
幕府陸軍への伝習も始まっていましたが、農兵への訓練はオランダ式でした。これは、江川家
の西洋流砲術が高島秋帆流だったからです。
蔵敷組合では百姓銀右衛門の持畑のうち、三反歩の土地を訓練用地として使うことになりま
した。現在の市立第九小学校の南側辺りがその場所です。銀右衛門には土地使用料として
作徳1ヶ年分として金2両が支払われ、その代金は村々が負担しました。

調練場
⑭山王社a

代官所から教授方がやってこない時には実弾射撃などの特別訓練はせず、名主や組頭
から選出された農兵世話人の元で日常訓練が行われていました。
また、訓練場には厳しい規則が定められます。

●火器取り扱いは慎重に行い、銃や付属品は大切に扱うこと●修行中は浮ついた心では
ならず、雑談は禁止。訓練場に通う往復もがさつな振る舞いをしない●礼節を重んじ、人の
善悪、上達度、他組合の悪口を言ってはならない●弁当は握り飯としおかずは味噌、梅干し
とすること●稽古着は質素にすること 等

4 農兵の武器 装備

⑮銃・隊服a小銃と隊服
⑯韮山笠a韮山笠
⑰弾丸a弾丸
⑱胴乱a胴乱
⑲万力・三つ又a万力、三ツ又等
⑳組合旗a組合旗

貸渡筒と附属品

表Cにある「ケヘル」とはゲベール銃という「前装式滑腔銃」のことです。蔵敷村組合では
元治2年(1865)3月1日に10挺、慶応元年(1865)11月3日に7挺、同2年(1866)
1月14日に3挺、16日に5挺の計25挺の「舶来形ケウエール御筒」が貸し与えられて
います。
幕府は安政2年(1855)から江川英敏(英龍の子)に命じて国産のゲベール銃の生産に
乗り出していました、しかし、オランダから輸入した銃の方が優秀だったので、幕府は1万
6000挺のゲベール銃を発注しています。

一方、銃身に螺旋を刻み射程距離と命中精度を上げた小銃がミニエー銃です。この銃は
1840年代にフランス人のミニエが発明したものですが、これを改良したエンフィールド銃(英)
やスプリングフィールド銃(米)が幕末期に大量に日本に輸入されました。
幕府はこのミニエー式銃の国産化にも乗り出します。慶応2年(1866)7月に代官所は
外国産のミニエー銃を農兵用に貸し渡して欲しいと幕府に願いますが、これは却下され、代り
に国産のミニエー銃が15挺配備されたとの記録があります。これは米国産のスプリング
フィールド銃をコピーしたもので、上の写真の銃がそのときの銃であると思われます。

次回は「農兵の出動」です。


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地域発見講座より 東大和市の幕末③ &新選組漫画 196

講座では番外編として、コチラの2件の出来事も取り上げました。
ひとつは、いかにも江戸時代らしい話。
ちょい、ホラーなお話で、ハロウィンの今どきにはちょうどいいんじゃない
でしょうか?
もうひとつは、安政大地震に関する記録。
これまた、再び同じような災害が起きたときの、何かの参考になるのでは
ないでしょうか。
いずれも、以前ブログでご紹介した出来事ですが再度ご紹介いたします。


番外編 大船の建造と神明社大木の呪い

幕府は外国船に負けない大船を作る計画を立て、そのための木材を調達しました。
後ヶ谷村の神明社(現在の東大和消防団第二分団前)にケヤキの大木があり、幹周り
1丈4尺の神木と呼ばれていましたが、安政2年(1855)3月4日この大船建造のために
伐り出し、深川の御用商人原屋角兵衛に売ってしまいました。角兵衛の手代・粂川村
升五郎から代金25両を受け取ったところ・・・

村内関田忠右衛門は根の切屑を貰い焚物に用いし処隠宅焼失す。其の後盗賊質蔵を
切り破り財物を奪い且つ火を掛けたり。久米川村升五郎は大熱病を煩いしが神罰なるを
悟り日参して神慮を慰(なぐさ)めると云え共は終に妻を失うに至る。当時の村用掛眞野
彦四郎ほか役人一同はじめ氏子一同も大いに驚き右売却金25両をもって25座の神楽を
奏して神に詫びしがかなわず、疫病流行し村内交々と煩い5ヶ年目に漸く退散す。あまりの
不思議の恐ろしさに境内の落葉下草枯枝など堆(うずた)かくなるも更にとる人なし。

(杉本村用日誌)

もう少し詳しく事情を説明しましょう。
この神明社の神木と云われたケヤキの木。実は、文化年間(1804~1817)にも一度伐られ
そうになったことがありました。
神明社の別当寺である円乗院の本堂を建替えるというので、このケヤキの木なら五寸角の
柱が36本も取れるね、となり、檀家一同が協議をして建材にすることにしたんだそうです。
住職の宥詳法印さんが一心に読経をして、神木の霊を慰めます。
それでも村人は心配だったのでしょう。吉と凶を書いた2本のおみくじを神前に供えて、無心
無垢の子供にそのおみくじを引かせました。
ところがドーーーン
引いたおみくじは見事に凶。
この結果に祟りを恐れた村人は、このときは伐採を中止にしていたのです。

ところが、今回は幕府が造る大船のため。村人は文化年間のときの御神託が気になって、
伐採に反対したのですが、建材を手に入れたい御用商人が江川代官所に手を回して、伐採
するように仕向けてしまったということなのです。

木材売買に関わった人が火付盗賊にあったり、大病を患ったり、村内に疫病が5年も続い
たりと、これが本当にケヤキの神木の祟りだとしたら恐ろしいですねぇ。
冒頭にも書いたように、神明社はもうなくなっていて、石碑が残るだけとなっています。
100mほど離れた場所にある狭山神社に合祀されているのですが、境内にある灯籠は
神明社にあったものを移してきたものです。
機会がある方は、ぜひ見に行ってみてください。

番外編 安政大地震

安政2年10月2日、江戸直下大地震が起きました。倒壊14000戸、7000人以上の
死者を出した安政の大地震です。このとき、蔵敷村の名主・内野杢左衛門は浅草に
出掛けていた最中で、貴重な体験記を残しています。

「何度となくゆり返し振動ミリミリ、建家の潰れる音、からから瓦の落ちる音あたかも
大山崩れるかとあやしまれ・・・・・浅草通り外神田あたり、小川町丸の内下谷あたり、
本所深川そのほか所々に火事始まり火の手焔々と燃え上りさながら昼夜の如く・・・」

※火事は四つ時(22時)におきた
「最寄り廻り見候所無事の建物これ無く、いずれも大小破損潰れもこれ有り・・・」
「鎌倉河岸へ差掛り・・・青砂泥は喰出し、横嶋に見え油断いたし候わば足を踏込の
気遣い実に驚愕の思いをなし、飯田町、九段坂も同様地裂け番町通りは潰家少し」

「四ツ谷通りは下町の割りより潰れ家少なし」
※食べ物を求めたがどこにもなく、中野村で前夜の残り飯を無心してようやく3日の
朝食にありつく
「3日夕刻帰宅、家内のものあるいは村内より来り候ところ、江戸近辺より何分か
軽き方のよし」


下町など江戸東部は壊滅的な被害が出た一方、新宿より西部では比較的被害は軽かった様子
がわかります。「青砂泥は喰出し」など液状化を指しているのでしょう。
それにしても、火災や建物の倒壊に巻き込まれず、よく1日で帰ってこられたものです。

20181023.jpg


再録ばかりだと、手を抜いていると思われるので、今回の漫画は
描き下ろしです。
壬生の屯所をお寺さん(西本願寺)に移したのって、案外こんな
理由だったりして。


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地域発見講座より 東大和市の幕末②

東大和市域に降ってきた、もうひとつの事件について見ていきます。

3 公武合体・和宮降嫁

1 公武合体
安政5年(1858)日米修好通商条約が結ばれますが、勅許を待たずに締結されたということで、
幕府は一斉に「尊王派」から批判を浴びます。そこを発端として「尊王派」と幕府の対立が激しさ
を増してきます。

●将軍継嗣問題 改革派(島津斉彬、松平春嶽ら)の推す一橋慶喜と保守派(井伊直弼ら)の
推す紀州藩主・徳川慶福(家茂)。血統を重視して家茂が14代将軍に就任。一橋派は
遠ざけられる。
●戊午の密勅 朝廷が先例を破り、安政五か国条約の抗議と幕府大名一致の攘夷政策を求め
た勅諚。これを幕府と水戸藩に出し、さらに諸藩へ開示するよう求めた。
●反幕府運動を続ける尊王攘夷派に対し、大老井伊直弼が安政の大獄を発動。
●桜田門外の変で井伊直弼が水戸・薩摩浪士に暗殺される。

さらに、諸外国との貿易が始まると、国内市場よりも開港場市場の方が高値で取引されたため
全国的に物価上昇を招き、さらに攘夷運動は活発化していきます。

これらの政治危機を乗り切るために、朝廷と幕府がより強固な協力体制を結ぶ動きが出てきま
した。幕府は将軍家茂と皇族の婚姻をもって公武合体とすることを朝廷に要請します。
一方の朝廷側では、孝明天皇の側近・岩倉具視が通商条約の破棄を建言し、天皇は攘夷実行
を条件に、異母妹の和宮を降嫁させる許可を出しました。万延元年(1860)10月18日、正式
勅許が出されます。
和宮は当時13歳。すでに婚約者・有栖川宮熾仁親王もいるのにそれを破棄して関東に下ること
に、大泣きをして反対しましたが、聞き届けられませんでした。

「惜しまじな 君と民とのためならば 身は武蔵野の露と消ゆとも」

文久元年(1861)10月20日、京都を出発した和宮の一行は中山道を江戸へ向かいます。
東海道ではなく中山道が選ばれましたが、東海道は大河川が多く予定が立て辛いこと、横浜
居留地の外国人遊歩地があること、尊攘派浪士による和宮強奪の危険性が高いことなどから
避けられたようです。
江戸の到着は11月15日の予定でしたが、沿道の村々の警備は徹底を極めました。一行の
通行中は前後3日間、中山道はもちろん脇往還に至るまで一般人の通行は禁止とされました。
武蔵国に入ってからは、11月11日本庄泊、12日熊谷泊、13日桶川泊、14日板橋泊、15日
江戸の行程でした。

2 助郷
各街道の宿場には問屋場があり、幕府公用の旅人の荷物はそこで人足や馬が次の宿場まで
送り届ける継立業務を行っていました。宿場には幕府が定めた一定数の人馬が用意されてい
ましたが、通行量が多くなれば人馬は不足します。そのため、宿場近くの村々から臨時の人馬
を集めて業務に使うことが決められていました。これを「助郷」といいます。
1日の助郷命令が出ると、その日は村を弁当持参で馬を引いて宿場に行き、翌日継立業務に
従事し、翌日帰村するというものでした。その間の経費は全額村持ちで、村や村民にとっては
かなりの負担でした。
さらに大量の人馬が必要になったときは臨時の助郷(加助郷)が命令されました。

文久元年9月、中山道浦和宿の問屋・星野権兵衛から狭山丘陵の村々に廻状が廻ってきま
した。

今度、和宮様御下向、当筋御通輿遊ばされ、右人馬御継立にて定助加助右助合打ち込み
候とも、とても人馬引き足らず申し候につき、その御村々差村の上、当宿へ当分増助合願い
上げ奉り候段、御奉行様へ願い上げ置き候につきお心得なされ前もってお掛け合いに及び候。
なお、追って御証文頂戴お達し申すべき間、兼てお心得その節差支えぬようお取り計らいなさ
れるべく候。この廻状御村下へ御請け印この者へ御戻しなされるべく候、以上。
(里正日誌)

差村に指定されたのは、粂川村、廻田新田(東村山市)、小川村、小川新田、大沼田新田、
鈴木新田(小平市)、中藤村、横田村(武蔵村山市)、柳久保新田、柳久保村、下里村(東久
留米市)、蔵敷村、芋久保村、芋久保新田(東大和市)。※狭山丘陵周辺のみ
さらに、大宮宿からも同様の要請がきており、東大和地域では後ヶ谷村、宅部村、高木村、
奈良橋村、清水村が差村に指定されました。「里正日誌」によれば、助郷に決められた場所と
人数の割り当ては以下の通りです。

11月11日 浦和宿 高100石につき2人
12日 浦和宿 高100石につき3人
     桶川宿 高100石につき6人
     夕酉の刻(18時)浦和宿矢来詰 100石につき5人
13日 浦和宿 高100石につき5人
     桶川宿 高100石につき10人
14日 夜板橋詰 高100石につき3人
15、16日 浦和宿 高100石につき3人  計 高100石につき40人
 (里正日誌)

浦和宿の助郷を命じられた東大和の村々の石高は、芋久保新田97石、蔵敷村215石、
芋久保村464石でした。
浦和宿では芋久保新田が17人、蔵敷村が37人、芋久保村が81人助郷に出て分宿したことが
わかっています。。この他大宮や桶川にも行っていたのですから、その負担は大変なものだった
でしょう。

20121222.jpg

漫画は2012年の再録です。
当時の記事はコチラ。
「ロイヤル・ウエディングは助郷で」(クリック!)


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



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地域発見講座より 東大和市の幕末①

9月から10月にかけての講座がひと段落つきました。
今回の講座は当ブログのテーマ「幕末の東大和市を語ってみよう」に完全に
一致しますので、講座に使ったテキストをそのままコチラに掲載します。
まぁ、これまでウダウダと続けてきたブログ記事のまとめにもなりますかね。

第1回目の講座は、幕末に起きた大きな事件を2つ取り上げました。
その事件から東大和市域の人々がどんな影響を受けたのかを、見ていき
ます。

なお、実際の講座では1章で江戸時代初期から中期にかけて、東大和の
村々がどのように変化していったのかを軽く取り上げましたが、当ブログの
テーマとは離れてしまうので、ココでは割愛させていただきます。


2 黒船騒動

1 ペリー来航
嘉永6年(1853)6月3日、アメリカ東インド艦隊のペリー提督が旗艦サスケハナ号とミシシッピ
号の蒸気軍艦2隻と帆走軍艦2隻の艦隊で伊豆沖に姿を現し、そのまま観音崎南西の鴨居沖に
錨泊しました。
江戸時代後半、日本近海には度々外国船がやってきており、その都度幕府は対策を迫られてい
ました。ペリーの来航も、長崎出島のオランダ商館長からのオランダ風説書で事前に知らされて
いましたが、具体的な対応策は練られていなかったのです。
9日に久里浜に上陸したペリーは、修好通商を求める米大統領フィルモアの親書を差し出し、浦
賀奉行がこれを受け取りました。幕府は翌年に回答するとペリー側に伝え、ペリーは了承し江戸
湾を離れて行きました。

狭山丘陵の村人たちはペリーの来航をいつ頃知ったのでしょう。
中藤村(武蔵村山市)の「指田日記」(指田摂津)には次のようにあります。

「6月11日 雷。当月、異国黒船相州浦賀に入り、海手所々の固めあり、然れども、江戸に船
入る事能わず・・・」


※実際にペリーの艦隊は江戸湾に侵入してきましたので、この内容は間違っていることになり
ますが、一方で目撃したのではなく、伝わって聞いたことの証明になっています。

2 台場設置
幕府はこの非常事態に、韮山の代官江川太郎左衛門英龍を勘定吟味役に昇進させ、海防
会議に参加させます。英龍は領地が外界に接する伊豆にあり、早くから外国に対する危機感
を持ち、近代的軍隊や農兵の採用、砲台の設置などの建白書を以前から提出し続けていま
した。嘉永2年(1849)に起きたマリナー号事件を解決するなど、対外戦略に大きな実績も
あったからです。英龍は江戸湾を防衛するには、海上に砲台(台場)を設置することが一番
望ましいと考えていました。
当初彼は「防禦線は、あくまでも浦賀水道にあり、籏山崎から富津台場を見通した間に、10町
(1800m)間隔で台場を築くのが基本構想である」(「江川坦庵」 吉川弘文館)と考えていま
したが、これは当時の技術力、金銭、時間的にも無理で、最終的に品川から深川にかけての
内海に築くことに決まりました。

3 松材の伐り出し
台場建築に必要な松材は江川代官所の支配地内から集められました。東大和周辺には幕府
管理の御林(おはやし)があり、狭山丘陵の村々はその伐り出しと運搬にあたることになりました。

指田日記 嘉永6年9月
「12日 御林にて二千本切り抜き、福生村迄出すべき由、仰せ渡さるにより村中車引き人足、
御林奉行より十日の内に出し尽くすべき由に付、隣村三ツ木・芋久保・石川・勝楽寺・蔵敷・
奈良橋・砂川・右村々に助人足当たる。」
「19日 今日迄、御林人足6人勤めしむ。」
「20日 雨。御林山用車引き。」


各村々からどれだけの人足が出されたのかまとめたのが下の一覧です。
人数は延べ人数かと思われます。

       横田村  中藤村  三ツ木村  砂川村  芋窪村  蔵敷村  高木村  奈良橋村
嘉永6年  60    1067   344     315   206    73    96     89
嘉永7年  61    2155   282     442   216    80    82     101
計      121   3222   626     757   422   153   178    190

       勝楽寺村
        146
        150
        296        ※単位=人(武蔵村山市史)

伐り出しが行われていた御林は中藤村から横田村にかけての一帯にありました。現在「かたくり
の湯」のある辺りです。御林には松・檜が植えられており、武蔵村山市史によれば、嘉永元年
(1848)段階での木数は14090本でした。

「御台場建設のための御用木の伐り出しは、安政5年(1858)に村側が提出した書上帳によれ
ば、嘉永6年・同7年・安政3年(1856)に行われており、この間に切り出された松木は3070本
に及んでいる。」(武蔵村山市史)

伐り出された松材は福生河岸まで車で運び、御林山伐出掛役人の検査を受けて、筏に組んで
流しました。さらに江戸の会所で検査の上、現場に引き渡されたのです。しかし、中藤村と殿ヶ谷
村から伐り出された丸太は曲木や細木が多く、御林山伐出掛役人から叱責を受けたとのこと
でした。

4 台場献金
台場の建設には莫大な費用が掛かりました。1番台場から6番台場までの予算は916491両
3分を計上し、財政難に陥っていた幕府は江川代官所を通して、支配下の村に献金を呼び
かけました。
狭山丘陵周辺では、所沢組合42ヶ村741両、蔵敷組合6ヶ村44両、田無組合550両の計
1335両が集まります。
蔵敷組合では蔵敷村7両、奈良橋村11両、高木村7両、宅部村5両、後ヶ谷村6両、廻田村
8両と献金しています。
後日、これらの献金に対して老中の阿部正弘から御褒美銀が割り渡されました。その金額は
蔵敷村7両に対して銀2朱593文でした。

5 台場建設の中止
嘉永7年(1854)1月16日、ペリーは蒸気軍艦3隻、帆走軍艦4隻の艦隊で再来日しました。
幕府側は林大学頭(復斎)を筆頭とする交渉団で挑み、日米和親条約が締結されました。
ペリーは人道的救援を名目に通商を行わせることが目的でしたが、幕府側は「下田・函館の
開港」「米船の寄稿と薪水給与」「下田の領事駐留許可」「下田・函館両港の遊歩区域の制限」
「再恵国待遇」のみを認めさせ、有利に交渉を進めたのです。
条約の締結により、予定されていた全11台場のうち完成したのは第1、2、3、5、6番台場で、
第4、7台場は建設途中で中止。第8以下の台場はまったく着手されないまま終わりました。

6 無宿者の取締り
幕府が開国に踏み切ったことは、日本の政治史の大きな転換点となりました。そんな中、東大和
周辺ではどのようなことが起きていたのでしょう。

近頃異国船度々渡来については、兼て領分知行へ人馬用意申し付けおき候面々もこれある哉
につき、この度異国船渡来の模様、承り候わば、壮健の者ども近々江戸表へ出で、自然無宿
悪党の者立ち廻り乱妨に及び御府内へも立ち入るべきやも計りがたく・・・・(中略)・・・・関内
場広の儀につき、猶悪党者不入込)まざるよう出口四か宿は勿論、支配所内脇往還入口村々
取締りの儀、厳重申し付くべき旨、本多加賀守殿より御代官方へ御達しこれあり候ところこの
意を得、支配所内脇往還入口村々は勿論、その余村々においても右の趣相心得、取締り方
厳重取り計らうべく候、尤も出役のものも差し出す義には候えども、村役人精々取締り致す
べく候。
                     江川太郎左衛門 寅正月16日 役所 
(里正日誌)
 ※本多加賀守は勘定奉行。出役は関東取締出役。寅は嘉永7年。

ペリーが再来日したその当日、代官所は幕府からの命令を村々に伝えました。つまり、異国船
来航の騒ぎに乗じて無宿人や悪党が乱暴を起こし江戸市中に立ち入るかもしれないので、四宿
(品川・千住・新宿・板橋)、脇往還の取締りを強化しなさい、ということです。脇往還は東大和
周辺でいえば青梅街道になります。
代官や出役からの要請に対し、村々ではこのように返答しています。

右の通り御取り極まり候上は、小前にても竹鎗・竹螺(たけほら)など用意致し置き、役宅におい
て盤木の音相聞こえ候わば、右鎗用意早速駆けつけ申すべく候、もし悪党共何方なり
とも押し来り候わば、竹螺をうち申すべく候、その節は一村の者ども兼て用意の具持参、駆け
つけ申すべき事。
この節異国船渡来の趣につき、その筋より在中取締方厳重の御沙汰につき、ありがたき義に
御座候、依りては農業渡世怠りなく専一に心がけ相励むべく候、然る上は御法度筋に携わり、
または人寄せがましき義、決して致すまじく候、もし心得違いのものこれあり候わば、その組合
にて相互に心づけ、急度取締り致すべく候、万一相背き候者これあり候わば、その組合一同
いかようにも御取り計らいなさるべく候、後日のため差し出し申す連印、件の如し。
 (里正日誌)

蔵敷村では「心得の事」として、村人52人が連署で名主の内野杢左衛門に差し出しています。
村にはかなりの緊張感が漂っていたことが想像されます。

もうひとつの事件は、次回です。

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漫画は2012年の再録です。
当時の記事はコチラ。
「黒船来航・・・その時、東大和は」(クリック!)


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