今回もイベント参加のお話。
日野市に
「佐藤彦五郎新選組資料館」がありますが、先日、そこの副館長さんから
日の出町の羽生(はぶ)家を見学するのだけど、ご一緒にいかがですかとのお誘い
をいただきました。
これは資料館のファンクラブの会員向けの企画だったのですが、欠員が出たため、
たまたま資料館に顔を出したワタクシにお声がかかったようでした。
彦五郎資料館さんは、ワタクシが日野の新選組関係ガイドをするときに、団体貸し切り
など便宜を計っていただいたり、また農兵や天然理心流など幕末多摩に関係する
資料なども見せていただいたり、日ごろから懇意にさせていただいております。
せっかくのお誘いいただいたので参加させていただくことにしましたが、
「
羽生家とはなんぞ?」
とお思いの方もいらっしゃることと思いますので、その辺りをざっとお話いたしますと・・・
日野宿の名主で土方歳三の義兄である佐藤彦五郎は、近藤勇ら新選組が甲陽鎮撫隊
と名前を変えて甲府城を接収に向かうとき、日野宿の農兵隊をまとめて「春日隊」を
組織し行動を共にします。
ところが、乾退助(後の板垣退助)率いる土佐の迅衝隊を中心とする新政府軍に、甲府
はすでに押さえられてしまい、甲陽鎮撫隊は柏尾で戦いますが、装備やモチベーション
で劣っていた鎮撫隊は敗れ、敗走しました。
彦五郎ら春日隊も総崩れとなり多摩に逃げ帰りましたが、その後すぐに新政府軍が
鎮撫隊に協力した者は捕縛して徹底的に取り調べる!という情報が入ります。
首謀者だった彦五郎は日野にいられなくなり、一家は離散しながら伝手を頼って
各地に逃げることとなりました。
彦五郎の子供たちはそれぞれバラバラに親戚などを頼って、粟の須村(八王子市)
や上溝村(相模原市)などへ行き、彦五郎(42)は妻のぶ(38・土方歳三実姉)、母親
まさ(62)、次女とも(5)、下女あさ(18)を連れて西多摩方面へ逃げたのです。
彦五郎が逃亡の末に匿われたのが大久野村(現・日の出町)の羽生家でした。、
彦五郎一行は、先ず二宮村(あきる野市)の「茂平」という人物の元にたどり着き、さらに
茂平氏の案内で大久野村の羽生家に着いたといいます。すでに夜中だったにもかかわら
ず、羽生家の皆が起きてきて彦五郎らに同情し、奥座敷に招き入れ食事などを与えて
くれ、一行はこの場所にしばらく落ち着くことができました。
佐藤家と羽生家がどのような関係にあったのかはわかっていないそうですが、お互い
江川代官領の名主ですからその辺りの連絡はよく取っていたのかもしれませんし、また、
慶応2年(1866)の武州世直し一揆が発生したときには、日野でも大久野でも一揆勢と
農兵隊の大きな戦いが起きていますから、その辺りの関係もあったかもしれません。
さて、見学日当日は小雨はパラつく生憎の空模様。
JR青梅線武蔵五日市駅から路線バスに乗り、大久野中学校前で降りると、そこから歩いて
3分ほど。

突然、目の前に巨大な三階建ての蔵が出現!
これぞ大久野のランドマーク!
羽生家に到着です。

この門構えにはビックリですね!
大久野には羽生家が多く、子字も「羽生」といい、西、上、中、下羽生といった屋号でそれ
ぞれ呼び合っていたようですが、名主だったコチラのお宅は上羽生という屋号だそうです。
家は酒造業や山林業を営んでいたといいますが、この門の立派さはどうでしょう!
かつての五日市周辺の隆盛を物語ります。

普段開けることがないという門扉も、特別に開けていただけました。
実際に開けるのを手伝った方の言葉によると「思ったより軽い」そうです。
ちなみに柱は屋根の中心よりも前方に付けられていて、横から見ると後ろ(敷地内)に重心が
かかっているように見えます。この形式の門を薬医門といいます。
羽生家のご当主の案内で、敷地内を廻らせていただきます。

米蔵(左)と味噌蔵(右)。何せ、土蔵だけで6棟あります!
とにかく敷地が広い、広い。
この2棟を入れた3棟の蔵は江戸時代後期に作られたとのこと。
先ほどのランドマークの三階蔵は明治中期に建築されたものだそうです。

主屋。式台付きの玄関です。
明治24年に建てられ、その後幾度か増改築が行われているそうです。
これらの建造物も歴史的な価値がありとても素晴らしいのですが、さらなるお宝が
我々の目の前に登場します。
ということで、主屋の中に上がらせていただきました。
30年ほど前、羽生家の土蔵から1通の書簡が発見されました。
それが
近藤勇の書簡だったのです。
その実物を、羽生家ご当主のご厚意により見せていただくことに!

コチラがその書状です(右)。
左側の紙片は、ここに近藤勇の手紙が入っているよという書付けで、誰が書いたものかは
わからないそうですが、羽生家のご先祖の誰かでしょうね。
手紙の宛書は
「三浦休太郎様 近藤勇 机下」となっています。
三浦休太郎・・・と聞いてピーンときた方は幕末ファン。

こちらが手紙を広げたもの。
ほとんど虫食いがないことに驚き、桃の木、桃井かおりです。
よほど保存状態が良かったのでしょう。
さて、宛名の三浦休太郎ですが、その人物とこの手紙は、あの坂本龍馬と非常に深い関係
を持ったものなのです。
慶応3年(1867)4月23日、瀬戸内海を航行中の海援隊がチャーターしていた「いろは丸」
が、紀州藩の「明光丸」と衝突し沈没するという事件がありました(
いろは丸事件)。
明光丸はいろは丸の6倍も大きい船だったことなどから、龍馬は紀州藩に責任を迫り、結果
として紀州藩は土佐藩に多額の賠償金を支払うことになりました。
しかし、龍馬はいろは丸に積んでいた物資・金銀を水増しして紀州藩に請求したのではないか
と云われております。そして、相手紀州藩の交渉役が、この手紙の宛先三浦休太郎なのです。
慶応3年11月15日に、坂本龍馬と中岡慎太郎は暗殺されます。
当時、海援隊と陸援隊の隊士らは、紀州が多額の賠償金を払わされたことを恨んで龍馬らを
殺したのではないかと考えました。そして、交渉役を勤めた三浦が怪しいとマークしたのです。
京都に滞在していた三浦は命の危険を感じ、会津藩を通じて新選組に身辺警護を依頼しました。
この手紙は、仕事を受けた近藤が、クライアントの三浦に宛てた手紙ということになります。
何が書いてあるのでしょうか?
季節は寒さに向かいますが、益々お健やかに奉ります。
我が配下の二郎をそちらに潜伏させておりましたこと、ご配慮していただき感謝いたします。
ついては、二郎を少々必要とする事件ができましたため、お断りなく引き取りましたこと、
急なことだったのでご説明もなく誠に申し訳ありませんでした。
近々にお会いした上で御礼を申し上げます。また、その時に関東の旗下奮発等々の一策を
行う件、いずれ来月上旬までには確執があるだろうと思われます。
この節、何か変わった意見などあればお知らせ下されたく、先ずは多忙のため乱筆にて
失礼いたします。 不具
霜月十八日
近藤勇
三浦休太郎様この二郎というのは
斎藤一と思われます。
伊東甲子太郎が新選組と分かれたときに、斎藤は近藤側の間者として伊東派(御陵衛士)
に潜りこみます。そして、伊東が近藤、土方の暗殺を計画していると知るや、11月10日に
御陵衛士の屯所を脱走して新選組に帰ってくるのです。
報告を終えた斎藤は新選組屯所にいることがバレたら大変ですから、名前を「山口二郎」
と変えて三浦の元に潜伏していたのでしょう。

さて、ではなぜ近藤は二郎(斎藤一)を急に呼び戻したのでしょう。
手紙の日付は
「霜月(11月)18日」とあります。
この当日、近藤、土方は伊東を酒宴に誘い出し、しこたま酔わせた上でその帰り道を配下
の大石鍬二郎らに襲わせ、逆に暗殺してしまいます。さらに、その遺体を油小路に放置して
御陵衛士一党を誘い出し、これらを待ち伏せの上急襲し3名を斬殺しました
(油小路の決闘)。
この待ち伏せした新選組隊士の中に斎藤がいたと思われています。
御陵衛士の中にも服部武雄のような猛者もいましたから、近藤や土方としては実力のある
斎藤に出動してもらいたかったのでしょう。
ということで、この書簡は当時の緊迫した様子を証言するとても貴重な資料なのです。
そしてこの後、二郎こと斎藤一は海援隊・陸援隊に狙われた三浦休太郎の護衛として、他の
隊士らとその任務に就き、再び三浦の元に行くのです。
12月7日、ついにその時がやってきます。
三浦や斎藤らが宿泊していた天満屋に海援隊士らが斬り込んできたのです
(天満屋事件)。
しかし、斎藤らの活躍で三浦は軽傷で逃げ遂せました。
三浦は維新後、元老院議官、貴族院議員、第13代東京府知事などを務めています。
近藤勇の書簡を手にする、佐藤彦五郎ご子孫の佐藤福子氏(右)と
羽生家19代目羽生謙五氏。
※ご本人の許可を得て撮影しております。転載はご遠慮ください。ところで、三浦氏に宛てた手紙がなぜココにあるのか・・・てことですが、どうも渡す時間が
なかったのか三浦氏の元には行かなかったようなんですよね。
で、どのような理由かはわかりませんが、近藤勇が日野に帰ってきたときに、この手紙を
佐藤彦五郎に預けたようです。そして彦五郎が新政府の追手から避難するときに持ち出し
て羽生家に置いていったというようなことらしいです。
明治初期の頃までは新選組に関係するものを持っているだけでも、キツく尋問を受けたこと
でしょうが、やはり近藤の生きていた証として、処分することを彦五郎にも羽生家にもできな
かったのでしょうね。
ところで、明治15年(1882)に、大久野焼けとよばれる大火災があったそうです。
民家の7割、寺社の多くが焼失、被災したほどだったそうですが、その中でもこの書簡は
無事に守られてきたんですね。虫食いもほとんどありませんし、大切に今まで保管されて
きたことがわかります。
ただ、やはりこれだけの一級資料。
本来であれば、どこかの資料館か博物館に預けられ、ガラスケースの中に入れられ、外
から見させていただくようなモノですよね。
羽生さんも「近いうちにそうなるでしょう」と仰っておりました。
こんなにも至近距離で拝見できたのは幸運でもありますし、ラストチャンスだったでしょう。
佐藤彦五郎資料館館長様、副館長様、羽生様、ありがとうございました。

羽生家の近く、清源寺にある羽生家墓所。
写真中央が彦五郎一行を匿ったときの当主・14代傳蔵さんのお墓。
傳蔵さんは当時47歳。安政元年に家督を継ぎ、年番名主を務め、明治5年から10年に
かけては戸長を務めたとのことです。
保管されていた手紙が近藤さんのモノで良かったですね。
もし、これが歳さんの手紙だったら・・・

「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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前回記事の最期にもチョコッと触れましたが、5月に行ったもう一つのイベントのお話。
それは27日に行きました
朝涼忌です。
朝涼忌とは、戊辰戦争で活躍した佐幕側の幕臣・
伊庭八郎の法要であります。
なんて、よく知っているような口ぶりですが、実はワタクシ朝涼忌なるものがあることも
今年になるまで全く知りませんでした。
5月13日のひの新選組まつりで、Twitterのフォロワーさんに会い「こういうのがあるよ」と
教えていただき、初めて知ったという次第。、
ところで、伊庭八郎とはなんぞ?と思われている方もいらっしゃることでしょう。
我が家のポンちゃん(雄猫5歳)も退屈そうに身体を舐めまわしておりますので、彼にもよく
わかる程度にちょっと解説。
伊庭家は「心形刀流」という江戸時代前期に成立した剣術の宗家で、八代目軍兵衛は
時の老中水野忠邦に抜擢され、門弟数千人を抱えた剣豪でした。心形刀流は幕府の
武術学校である講武所に採用されます。八郎は軍兵衛の息子で、講武所で腕を磨き
メキメキと力を上げました。
講武所では剣や鎗に優れた者を抜擢し、将軍の親衛隊である奥詰を組織します。さらに
慶応2年(1866)の軍制改革で、奥詰は銃の訓練も義務付けられ
遊撃隊と名乗る
ようになりました。八郎は21歳の若さで奥詰採用となり、その後遊撃隊に配属されます。

かなりリアルに描かれた伊庭八郎さん。
ご覧の通りのイケメンなので当時も、今も女子人気高し。
戊辰戦争が勃発したとき、八郎らの遊撃隊は伏見に布陣していたので薩長軍と戦闘になり
ました。
この戦いで八郎は胸に銃弾を受け倒れます。一命はとりとめ、江戸へ帰還した八郎ですが、
恭順派などには目もくれず、ひたすら徹底抗戦を貫きその後を戦い続けます。
遊撃隊は隊員が減少していましたが、八郎と京都二条城の幕臣・
人見勝太郎の二人が
隊長となって新たに遊撃隊を編成。そこへ岡崎藩や館山藩などからの兵も加えて300人
以上の軍団へとなっていきました。
中でも注目されるのは、上総請西藩の脱藩大名
林忠崇が同志60余名と共に参加している
ことで、遊撃隊はこんな濃ゆいメンバーも顔を連ねたのであります。
歴史的に見れば、戊辰戦争を戦った佐幕・奥羽越列藩のみなさんは劣勢を強いられ、大変
な戦いをするわけですが、中でも伊庭八郎ほどすさまじい人生を送った人はいません。
遊撃隊は新政府軍を小田原で止めようと出陣しますが、箱根で戦闘に突入。八郎は腰を
撃たれ、さらに左手を深々と斬られてしまいます。左手首がブラブラになるくらいの重傷
でしたが、八郎がスゴイのはその態勢から右腕一本で相手を斬り伏せ、その勢いで地面の
石も叩き斬ったというのですから、驚きます。
結局、左手は肘から下を切断しなければならなくなりましたが、手術のときも麻酔ナシで行っ
たとか。昔の人はどんだけ痛みに強いんだか。八郎さんだけ?
その後、遊撃隊は榎本海軍に合流して仙台を目指し出航するのですが、すぐに嵐に遭遇して
しまい、八郎の乗っていた美香保丸は座礁、沈没してしまいます。しかし、ここでも九死に一生
を得た八郎は、逃避行を重ねながら、なんとか外国船で密航をし箱館にたどり着くのです。
恐ろしきかな、その執念。
箱館で八郎は蝦夷共和国陸軍の大隊長として戦線で戦い続けます。「真に豪勇、片腕にても
一騎当千の由」と云われましたが、明治2年(1869)4月20日に胸部に銃弾を受け倒れます。
弾丸は胸に留まった状態で摘出もできず、ついに服毒し安楽死が選ばれました。
享年26歳。
正確な死亡日はわからないらしいのですが、土方歳三が亡くなった5月11日の翌日と書いて
あるものが多いですね。
さて。というわけで朝涼忌です。
この法要を主催しているのが「伊庭八郎の会」という団体と、八郎のお墓がある貞源寺だと
いうのがわかりまして、法要の行われる15時の少し前にその貞源寺に行って参りました。

実は貞源寺もどこにあるのか知らなかったのですが、「伊庭八郎の会」のTwitterから
西武新宿線の沼袋駅が最寄りであることを知り、「なんだ、案外近かったんだ」と今さら
ながら驚きました。東大和市から電車一本で行けるんじゃん!
もっとも、貞源寺さんは元々浅草の方にあって、関東大震災後に沼袋に越してきたと
いうことです。

駅から歩いて7分くらいですが、住宅地の真ん中にあって、周りに目印になるような
建物などがないので、ちょっと迷います。
永康山東正院貞源寺。浄土宗のお寺です。
こちらの本堂で伊庭八郎さんの法要が行われました。今年は150回忌です。
その区切りの年に、初参列。
受付を済ませて、まだ時間があったので先にお墓にお参りしました。

逆光で黒い石柱にしか見えませんが、
「伊庭八郎の墓」であります。
墓域の入口のところに、伊庭家一族の墓が並んであり、その中にあります。
それにしてもこの写真・・・むぅ、今度もうちょっといい写真を撮りに来よう・・・!
ご住職の読経と、参列者の焼香で法要は無事に終了。
その後、境内にて心形刀流の方々による演武が行われました。


なかなかの迫力!
北辰一刀流、神道無念流、鏡心明智流を、幕末の剣術三大流派といいますが、当時は
心形刀流を加えて四大流派と呼ばれていたんだそうです。
それがなぜいつの間に三大になってしまったのか・・・たぶん、心形刀流を学んでいたのは
幕臣が中心だったからじゃないですかね。明治以降に除けられてしまった可能性が高いと
思われます。
演武を観て終了・・・となったのですが、その後、お寺の談話室のような場所で懇親会をする
とのこと。
ワタクシ、あまり伊庭八郎に詳しくないので、みなさんについていけないだろうと思い、そのまま
帰るつもりでいたのですが、「幕末がお好きな方なら、ぜひどうぞ!」とお誘いを受けまして、
そのまま懇親会に出席してしまいました。
伊庭八郎は、土方歳三や坂本龍馬あたりと比べればそれほど知名度のある人物ではありま
せん。なので、そのファンであればかなりマニアックなゴリゴリの話ばかりが出るのでは、と
身構えていたのですが、これがいい意味であっさりと裏切られました。
なんともビックリするくらいのアットホームな懇親会。
テーブルの上に並べられた料理はおつまみ程度のものと思いきや、ご住職や奥様の手作り
料理ときのこ飯。さらには先ほど境内でグワングワン刀を振っていた心形刀流の師範自らが
作った餃子鍋がいっぱい!

餃子も市販のを使うのではなく、目の前で師範が一つ一つ作りながら鍋に投入。
こんなアットホームな懇親会は、なかなかお目にかかれません。
(ちなみに写真のコースターは伊庭家の家紋らしいのですが、何という家紋でしょう?
お分かりの方、教えてください。)
実はワタクシも含めてですが、参加者の中には新選組ファンの方も多く、伊庭八郎に
限らず戊辰戦争、佐幕の話で盛り上がりました。
ワタクシも道場の方に心形刀流のことをずいぶん教えていただきました(→後にTwitter
で繋がらせていただきました)。それと、参加者の中に当ブログを読んでいただいてる方
がいらっしゃいまして、そんな出会いも嬉しかったです。
「伊庭八郎の会」会長さんとも大いに語りましたが、会の方々が目標としていることを聞き
まして。で、それは何かといえば・・・
伊庭八郎を大河ドラマの主役に!なのだそうです。
実際にリクエストを送ったそうなんですよ、会長さん、NHKに。
まぁ、結果はまだ成果を見てないのは周知の通りですが、NHKによると大河主役の条件の
一つに「一ヵ所にとどまらなかった人」ってのがあるらしく、「だったらハチ(八郎さんのこと)は
条件にピッタリですよね!」と熱く語ってくれました。

ワタクシは以前から、江川太郎左衛門を大河の主役にッ!と言っているので、ハチさん
とはライバルになってしまいますが、伊庭八郎が主役のドラマは確かに見てみたい気が
します。
でも、痛々しくて見てられないかも・・・!
ちなみに、昔、スペシャル時代劇「五稜郭」で舘ひろしが伊庭八郎を演じたそうですよ。
ところで、庄内で清河八郎を大河ドラマの主役にしようという運動が立ち上がったと聞き
ました。同じ八郎なら、ここは断然佐幕派としてイバハチさんの方に肩入れします。
キヨハチさんのドラマじゃ、近藤勇は「時局をわからぬ愚か者め!」扱いされそうだし。
そんなこんなで、朝涼忌。
来年もまた行きたいと思います。

明治の浮世絵師、大蘇(月岡)芳年の描いた伊庭八郎。
なぜか名前は「伊場七郎」に、斬られた腕も右腕になっております。
この絵が描かれた頃はまだ、幕軍方をそのまま描けない空気があったのでしょうか。
「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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