丸々1ヶ月以上もブッ飛んでしまいましたが、お台場建設のために中藤村御林の松材が
使われたという話です。
ちなみにお台場といってもフジテレビの社屋を建設したときの話ではなくて、幕末の砲台
の話ですので。念のため。
前回、嘉永6年(1853)と同7年(安政元年 1854)の2回、伐り出しが行われたことを
書きましたが、実際にどれくらいの木材が伐りだされたのでしょうか。
「嘉永6丑年9月12日より中藤村御林山伐り出し
一 惣丸太2247本
同7寅年6月中同所より伐り出し
一 惣丸太1420本」と、「里正日誌」には記録されています。
この伐り出しにかかった費用は、嘉永6年のときで金12両1分と218文。
同7年で26両2分と1貫362文、となっています。
伐り出した本数の少ない嘉永7年のほうが経費がかかっていますが、これは人足が
より多く出されたからではないでしょうか。
「里正日誌」に書かれた各村の人足数をまとめると・・・
嘉永6年 嘉永7年
三ツ木村 344 282
横田村 60 61
中藤村 1067 2155
砂川村 315 442
芋窪村 206 216
蔵敷村 72 80
奈良橋村 89 101
高木村 96 82
勝楽寺村 146 150 (単位 人)
となります。
やはり、地元の中藤村の人数が突出していますね。次いで現在同じ武蔵村山市内
の三ツ木村です。
東大和市内では芋窪村が蔵敷、奈良橋、高木の倍以上の人足を出しています。中藤村
の隣り村という立地だからでしょうか。
「・・・嘉永7寅年6月12日、蔵敷村へ各村が集まった上で、出した人足に応じて割合を
付けようと評決して、同7月21日中藤村役人へ掛け合って清算した。同閏7月2日に
各村から協力金として10両を中藤村へ差し出し、その割合は丑年(嘉永6年)9月の
人足2653人(総人足4983人のうち中藤村分2330人を引く)、寅年(嘉永7年)6月
の人足1424(惣人足3569人のうち中藤村分2155人を引く)。都合人数4067に
割り当て、すなわち人足1人あたり永2文4分5厘づつ・・・」上の表の人数と合わない箇所もありますが、働いてくれた人足には各村がお金を出し
あって労賃を支払ったことが書かれています。
この金額が当時どれくらいの価値があったのかわかりませんが、かなり安そうな気配
がムンムンとします・・・。たぶん、小遣い程度だったのでしょうねぇ。
さて、伐り出された松の丸太は、どのように運ばれたのか?
武蔵村山市史によれば、福生河岸まで陸上輸送をして、そこから多摩川を利用して
筏に組んで江戸へ運んだようです。
村々では台場建設が非常に重要なことであるという認識はしていたのですが、なにせ
急な命令だったものだから、御用財の中に曲木や小枝なども交じっていて
「こんなん、使えんわ!ボケッ!!」
と幕府のお役人から叱責されたそうです。
つらいわぁ。
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まぁ、試験でどんな問題が出題されるのかはワタクシも知らないので、講座内容も手探り
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