新選組漫画 191 

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開会式前までは、北の問題とか、チケットが全然売れてないとかで、「マジで開催できる
のか?」なんて思ってた平昌オリンピックですが、いざフタを開けてみれば日本選手も
大活躍して、ワタクシもけっこうテレビにかじりついてます。

やはり一番「スゲーわ、こりゃ」と思ったのは、男子フィギュアの羽生結弦選手ですね。
実はワタクシ、それほどフィギュアに興味がある方ではないので、羽生選手の演技を
キチンと見たことってなかったんですけど、今回はちょうど昼休み時ってこともあって、ショート
もフリーもシッカリ見させていただきました。
ワタクシのようなド素人でも、わかりやすいくらいにダントツのスケーティングってのは
わかりましたね。正直なハナシ、ジャンプの優劣とかよくわからないのですが、全体を
通しての演技力というか、表現力が素晴らしく見とれてしまいました。
誰も文句のつけようがない金メダルでしょう。

ところで、羽生選手が滑るときにリンクの外に、たくさんの女性スケーターがいて、何ゴト?
と思って見ていたんですが、演技が終わって納得。
彼女たちはリンクに投げ込まれる黄色いクマ(関係各所を考慮して具体名は差し控え
ます)回収部隊だったのですね。お疲れさまデス。
回収部隊のお嬢さん方、よくそのクマ見てごらん。もしかして、赤いTシャツの下に万札の
ネックレスが掛けてあるかもよ?
あ、そうですか。ありませんか・・・。

なんかね。
羽生選手のファンって、梅沢富美男とか氷川きよしのファンと重なるんですわ。


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八王子千人同心史跡を廻る②

了法寺の前で甲州街道を渡ると、その先にお寺があります。興岳寺です。
千人頭の石坂家が開基した曹洞宗の寺院です。
石坂弥次右衛門(1809~1868)のお墓があります。

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石坂弥次右衛門義礼墓
弥次右衛門は千人頭の石坂家11代目。第二次長州征伐に従軍し、大坂や九州へ転戦する
など活躍します。慶応4年(1868)日光火の番を務めているときに戊辰戦争が勃発。日光へ
進軍した板垣退助率いる新政府軍の対応に迫られます。弥次右衛門は戦うことなく日光を
明け渡して千人隊50人を率いて八王子に帰りました。
ところが、戦わずして帰ってきたことを問責する声があり、弥次右衛門は帰郷したその日の
深夜に一人責任を取って自刃します。享年60歳。
墓石には「源義禮之墓」とあります。

ということで、戊辰戦争の中で千人隊の悲劇の象徴のような方なのですが、コレはちょっと
疑問に思うところがあります。
弥次右衛門は確かに千人頭の旗本ですが、彼の兵力はたかだか50人の同心。
板垣が東照宮に進軍してきたのは、大鳥圭介率いる旧幕府陸軍を追ってきてのことだし、
一戦交えるかどうかの判断は大鳥と板垣の判断で決められたハズ。弥次右衛門は大鳥と
話し合いをもったでしょうが、大鳥の決定に従ったまでのことではないでしょうか。
何も腹を切るほどの責任ではないと思うのですが・・・今となってはその真意はわかりません。
現在では日光を戦火から守った功績者として称えられ、墓石の前の香台は日光市から贈られ
ています

興岳寺を出て中央線の線路を渡り、昨年の夏、清宮(現日ハム)擁する早実を破って甲子園
に西東京代表として出場をした八王子学園高前を過ぎると、南大通りに出ます。通りを東に
進むと見えてくるのが信松院です。

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武田信玄の四女(六女とも)松姫(1561~1616)が開いた曹洞宗のお寺です。
松姫は織田信長の嫡男信忠と婚約しましたが、両家が対立したため縁組は破談。松姫は
18歳の若さで仏門に入ります。昔の日本人て、現代人の目から見ると人生選択の振り幅が
大きいですよねぇ。
武田家滅亡のあと、一族の女性らと武蔵国に逃げてきた松姫は信松尼と号しました。
江戸幕府開府後の松姫は、姉の見性尼とともに二代将軍秀忠の四男・幸松の養育をした
ことで知られます。この幸松が保科正之であり会津松平家の藩祖となるのですから、新選組
ファンとしても全くカンケイないお方ではないですね。

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松姫尼公墓
出家していますので、無縫塔(卵塔)です。
松姫は武田家の人だったので、千人同心にとっては精神的な拠り所だったようです。
お墓の周りの玉垣は延享5年(1748)に千人同心が寄進したものです。

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「窪田」「石坂」「原」といった千人頭を勤めた家の名前が並びます。

本堂の奥には松姫百回忌の正徳5年(1715)に作られた「木造松姫坐像」が安置されて
います。松姫の月命日にあたる毎月16日だけ公開しているとのことですが、今回特別
に拝観させていただきました。
300年前に作られたとは思えないほど美しい像です。ただ、やはり木製ということで、所々
ヒビが入っていて、ご住職は「今のうちにレプリカを作っておいた方がいいかもしれません」
と仰っていました。

信松院の前の道は「松姫通り」といいますが、その通りを北に向かい再び線路を越えると
産千代(うぶちよ)神社があります。

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鳥居の左横の石柱には史跡大久保石見守長安陣屋跡とあります。
大久保長安は元武田の旧臣で、主家滅亡後家康の家臣となります。全国の検地、石見銀山
奉行、佐渡金山奉行を歴任。八王子代官頭としてそれまで八王子城下にあった町を現在の
場所に移し、甲州道中の整備、石見土手、千人同心の組織など八王子宿づくりに貢献しま
した。
この陣屋の周辺には十八代官と呼ばれる配下の代官が陣屋を構えていたそうです。

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境内には長安陣屋井戸があります。

こんなカンジで、この日の10時から13時ころまで千人同心ゆかりの史跡を、八王子市郷土
資料館学芸員の方に案内していただきました。

で、このあと昼食をはさんで14時頃より、甲州街道八幡町交差点から国道16号を北上。
歩いて「八王子千人同心日光道中」を歩いて行く、というイベントに突入したのであります。
実は今回の集まりは百街道一歩氏という、街道歩きの専門家が企画したイベントだったので、
ココからが「本日のメイン」ということだったのです。

百街道一歩さんのHP 「百街道一歩の道中記」
※ワタクシの江戸検1級の同期生であります。

とにかく旧街道をひたすら歩くというのがポリシーですので、八王子からひよどり山を越えて
滝山城の麓を行き、拝島橋を渡って拝島駅まで行ったところで日が暮れて終了となりました。
途中、神社仏閣や道標、石仏石塔などの史跡があれば確認しながら行きますので、当然
時間もかかります。
ワタクシのカメラの電池がなくなってきたので、あまり写真が撮れなかったのですが・・・

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極楽寺にある塩野適斎の墓
塩野適斎(1775~1847)は千人同心組頭。八王子の重要な地誌書「桑都日記」の著者です。

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コチラはひよどり山を越えたところにあった石仏群。
左端の庚申供養塔は屋根付きの立派なもの。享保16年(1731)とかなり古いものですが、
保存状態がとても良かったです。真ん中2体はお地蔵さま。右端は「光明真言供養塔」です。

この日、18km、30000歩強。
ふだんあまり歩かないせいか、疲れました~~~。
後日、拝島から先の道中も誘われているのですが、どうしようか・・・考え中です。

メガ99
昼食は扇町谷宿(埼玉県入間市)でやっと食べられたそうです。
フヘ~~~、ですね。


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八王子千人同心史跡を廻る①

先日、江戸検1級同期の方に誘われ、八王子の千人同心史跡廻りに行ってきました。

八王子千人同心は、元々甲斐・武田家の長柄(槍)隊だった武士を、主家滅亡のあと、
徳川家康が家臣として迎え、甲州道中の守りとして八王子に配置したものです。
当初は千人頭、同心合わせて500人でしたが、関ヶ原の戦い直前にさらに500人を
増員し1000人の軍団になっています。このとき、武田遺臣だけでなく、北条遺臣や
牢人、有力富農層なども加わったと考えられています。

千人同心の大きな特徴は、千人頭(9~10人)は旗本の身分でしたが、組頭・同心は
戦闘時には武士となるが、普段は百姓として農業に従事するということです。
大坂の陣までは戦闘に参加した千人同心ですが、幕府が安定すると武士としての働き
は日光東照宮の火の番ということになりました。
江戸時代後半になると、千人同心の身分は株として売買され、八王子や周辺の富裕な
農民層が同心株を買い千人同心になりました。こうして、当初は八王子に集中していた
千人同心も東は東京都三鷹、西は神奈川県津久井、南は神奈川県相模原、北は埼玉県
飯能まで居住域が広がるようになりました。
実際、東大和市にも高木と芋窪に千人同心がいたと伝わっています。
千人同心は東大和にも無関係ではないということで、史跡廻りに行ってみましょう!

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JR中央線西八王子駅前を北に向かいます。
写真が小さくてわかり辛いですが、銀行の入口前に「馬場横丁」と書かれた標柱があります。
この先に千人同心の屋敷が並んで建っていました。

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この行先を示す標識がイカしてます。
ポールの先が火事現場で使う鳶口みたいになってる。これは、千人同心が日光火の番を
務めたからそのようなデザインにしたのではないでしょうか。
さらに看板にも注目。

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上の方は陣笠を形取っていますし、下には「千」の字が入ってますね。
千人同心は鎗奉行支配下に置かれていましたが、幕末の文久3年(1863)講武所支配、
慶応元年(1865)には陸軍奉行支配となり、名称も「千人隊」と改めます。そのときに隊士が
使用した提灯と韮山笠にこの「千」の模様が入っているのです。

そのまま甲州街道を超えて北に進むと宗格院というお寺です。

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千人頭山本家の生まれである价州良天和尚が文禄2年(1593)に草創した、曹洞宗の寺院
です。ちなみに、八王子宿のお寺は曹洞宗が多いです。
こちらには、千人同心組頭だった松本斗機蔵(1793~1841)のお墓があるのですが、墓域
の一番奥にあり、先日の雪がまだ残っていて行くのが困難とのことで、お参りは見送りました。
残念!後日、暖かくなったら再度訪れたいと思います。
松本斗機蔵は江戸の昌平黌で学び、探検家で有名な最上徳内と親交を温め海外の知識を
深めた人物です。「献芹微衷(けんきんびちゅう)」という海防の提言書を書き、水戸の徳川
斉昭に上覧を願ったといいます。渡辺崋山や江川太郎左衛門英龍とも親しく、「献芹微衷」を
書いた際には江川に意見を求めたそうです。

宗格院を出て陣馬街道を渡った先にあるのが多賀神社

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社伝によれば天慶元年(938)に源経基が勧請して建てられた、八王子宿の西の鎮守です。
慶応2年(1866)に千人同心が第二次長州征伐に出兵した際、組頭の神宮寺金一郎、川村
豊左衛門、塩野幸七郎が大坂で、こちらの扁額を作らせたそうです。それほど千人同心の
信仰も厚かったのですね。
その扁額は郷土博物館に保存されているそうなので、機会をみて行ってみようと思います。

ところで、ここには境内社としてこんな神社も祀られていました。

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機守神社です。
織物業が盛んだった八王子らしい神社です。
東大和は生糸の生産として、桑畑が多く作られたので蚕影神社が祀られました。どちらも同じ
繊維業の振興を祈念する神社ですが、こういうところで地域差をうかがい知ることができます。

陣馬街道を東に進むと甲州街道とぶつかります。つまり、江戸方面からやってくると、そこが
甲州道中と陣馬街道の追分です。
その追分から西側が千人同心の屋敷地でした。

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八王子千人同心屋敷跡碑
現在の陣馬街道は石碑の右側の広い道路ですが、元の旧道は石碑左側の細い道です。
寛政元年(1789)の宿場絵図を見ると、追分付近の陣馬街道の北側(写真右側)は千人頭
原家の屋敷になってます。ということは、この石碑を含めて新道は原家の屋敷地の上に作ら
れたということになります。

追分の甲州街道側にあるのが、コチラ。

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追分の道標です。
文化10年(1813)に建てられたものですが、昭和20年(1945)の空襲で破壊されてしまった
とのこと。よく見ると3本の亀裂が入っていることがわかります。
写真には「左 甲州道中高尾道」と書いてある側が写っていますが、上から2段目の「甲州道」
と書いてある部分と、一番下の「道」と書いてある部分がオリジナルで、他の部分は空襲で欠損
したものを作り直して建てられました。

ところで、この道標の一番下の部分に面白いモノを発見。

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漢字の「不」に似た記号が刻まれているのがわかりますか?
これは明治初年のイギリス式測量の几(キ)号水準点です。つまり高低測量を行うために
設けた基準点。全国的に残っているのは少ないそうなのですが、ここでお目にかかれるとは。
都内では神楽坂にある善國寺(毘沙門天)の石虎にあるものが有名です。

甲州街道を少し西に進むと了法寺というお寺があります。
なんでもゲームだかアニメだかの舞台になった、いわゆる「聖地」らしいのですが、我々おっさん
は「何のことやらさっぱりわかりませんわ」状態ですのでスルーです。

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何のキャラざんす?情報求む。

長くなりましたので、以下次回!

メガ98


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