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異国船渡来と治安の悪化② 

前回は黒船来航以来、治安が悪化してきた一つの事件例を「里正日誌」の中から上げて
みましたが、今回はもう1例をご紹介します。

「拝借鉄炮紛失に付き御奉行所より御触書」

一 鉄炮1挺  玉目3匁2分
右は江川太郎左衛門御代官所配下の武州多摩郡百草村に住む百姓、源次郎が拝借
している四季打鉄炮を当月9日夜に紛失してしまった。右の鉄炮を所持している者を
見聞きしたならば、鉄炮はもちろんのこと、その者とも取り逃がさないようその場所に
預け置き、太郎左衛門役所へ早々に申し出るべきこと。もし、隠しおいて他から明らか
になるようなことになれば、当人はもとより村役人も必ず申し付けるべきものである。

 寅3月15日  田村伊予守顕彰 印
           川路左衛門尉聖謨 印
           本多加賀守安英 印
           松平河内守近直 印
           石河土佐守政平 印

              武州多摩郡
                 御料
                 私領
                 寺社領
                   村々
                      名主
                      組頭


先ず、ちょっと解説を。
「四季打鉄炮」という聞きなれない武器の名前が出てきます。おそらく銃砲に詳しそうな
IS戦士の方々もご存知ないのではないでしょうか。
享保14年(1729)に幕府は、百姓が所持できる鉄砲について規定を設けました。
「四季打鉄砲」はその中の一つで、「害獣対策のために2月~11月まで使用許可が
降りた銃」
のことです。
もう少し期間が短い4月~7月まで使用できる「二季打鉄砲」というのもあったようです。
つまり、農作物を荒らす動物を撃つための銃であり、銃の種類ではないということですね。
性能は他の火縄銃と同等でしょう。
江戸時代は猟師の他にも、百姓がこういった理由で銃を持っていたんですね。
ちなみに、使用できる期間外には、封をして名主に預けることになっていたようです。

百草村の源次郎さんが拝借していた鉄砲を紛失してしまったとのことですが、夜になくなって
いたということは、つまり何者かに盗まれてしまったということのようです。
鉄砲が盗まれたということですから、このご時世のことでもあり、大事になってきますよね。
廻状を出した5人の方々は、いずれもその時の勘定奉行です。つまり、幕領支配地の長官。
事の大きさがわかります。

さらに約一月後、「里正日誌」にはこのような記事が書かれています。

武州百草村百姓の源二郎が、拝借していた四季打鉄炮を当月9日夜に紛失したことで、右の
鉄炮を所持している者を見聞きしたならば、取り逃さぬようその場所に預け置いて早々に御
注進申し上げるべきことと、御触書にありますので拝見し、承知いたしました。これによって
御受印を差し上げ申します。以上
 
                        江川太郎御代官所
                        武州多摩郡蔵敷村  名主 杢左衛門
 寅4月8日
    辰中刻

辰中刻に中藤村より受け取り、即刻奈良橋村へ継立申し、下げ札を付けて送った。


この頃になっても盗まれた鉄砲の行方はわからなかったようです。
百草村は多摩丘陵の村ですが、鉄砲の詮索は狭山丘陵の村々にまで及んできました。
銃が1挺盗まれるということは、今も昔も大事であります。

メガ93


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[ 2017/11/30 ] 我が東大和市 | TB(0) | CM(2)

異国船渡来と治安の悪化① と「江戸散歩」

「里正日誌」安政編、ようやく始まったと思ったら前回からすでに1ヶ月以上経ってしまい
ました。スマンこってすタイ。

黒船がやってきてこの方、悪党や無宿人たちが村々を襲ってくるかもしれないので、各
街道の宿場や脇往還の入口の村々では十分な警戒をするように、とのお上からの
お達しがありました。
すると、実際に、悪党が押し入って被害を受けた村があったようで、「里正日誌」にはその
事件について関東取締出役から出された廻状の写しがありました。

「凶徒召捕え方関東取締出役より廻し達す」

当月四日暮れ六ツ時(午後6時頃)、浪人体の男が一人、入間郡藤間村(川越市)の
金蔵の母親の首を切り取り、これを持って同郡福岡村(上福岡市)の助七のところへ
押し込んで、次の通り奪い取ったとのことである。

一、 二朱金で三十両
一、 一分銀で三十両
   但し書きとして、太織(絹織物)の鞄の中にウコン色の裏地のついた財布に入れ
   たまま
一、 その他 金十両と記憶している。ただし、二朱金、一分銀が取り交ぜである。
    盗賊の人相は、年齢三十歳前後。 その他略する。

右の通りにつき、それぞれの宿に立ち廻るかもしれないので、そのときは差し押さえ
ること云々。

  関東取締出役
寅二月五日 山口顕之進


恐ろしく物騒な事件です。
最初に押し込んだ家には金目のモノが無かったのでしょうか。一人を斬り殺した挙句、
その首を持って他の村へ行き、さらに強盗を働いたっていうんですね。
「テメーら、こうなりたくなかったら、金を出しやがれッ!」
とでも言ったのでしょうか。
こんな脅迫されたら、金を出す以前に失神の上失禁してしまいますよ・・・。
こんなコトをする犯人ですから、金蔵も殺されていたかもしれませんね。
オソロシイ・・・オソロシイ・・・。

ところで、浪人体の男が次に押し込んだ福岡村の助七ですが、彼はかなり裕福だった
ようです。合計で70両もの現金を持っていました。さらに、その現金を入れていた鞄も
なかなかセレブな一品ではないですか。
「オッ」と思うのは、助七の持っていた現金がどれも一両小判ではなく二朱金や一分銀
で持っていたということ。ここがリアリティありますね。
幕末のこの時期でも1両は5~6万円の価値はあったでしょう。
実際に日々の商売や生活で使うなら、そんな高額貨幣を使うより二朱(12500円)や
一分(25000円)の貨幣で持っていた方が使いやすいですからね。

完全に金品目的の事件のようなので、この浪人体の男も食うに困っての犯行だったかも
しれません。もちろん、だからと言って人の首を斬っていいワケじゃありませんが。
この頃の世の中が、かなり物騒になってきたことを思わせる一件であります。


で、ココからは別のお話。

先日の土曜日、文京学院大学生涯学習センターの「江戸散歩」第2回目がありました。
この日は中山道(旧道)板橋宿を廻りました。
JR板橋駅~近藤勇墓所~平尾宿~仲宿~加賀西公園~本陣跡~板橋~縁切榎~
地下鉄板橋本町駅まで、およそ4kmの行程です。

ちなみにこのコースは、2013年11月に「永倉新八百回忌」の記事として当ブログに
書かせていただいております。
そちらもぜひご参照ください。

「永倉新八百回忌」クリック!)
「近藤勇終焉の地・ブラリ幕末板橋宿」クリック!)

IMG_0658a.jpg
コチラ、板橋下宿(平尾宿)にあった一里塚跡
明治10年頃に一里塚が撤去されて、今は何も残ってないのですが、赤い矢印のところに
不自然にアスファルトに埋まってる石があるんです。
もしかしたら、コレが何かの痕跡なのかな・・・なんて思ってるにですが、違いますかね?

01809f54250b8e6fa7455992356850f7364199d65ca.jpg
中山道と川越街道の追分近くにある東光寺
ここには、豊臣秀吉政権で五大老の一人となり、後に関ヶ原の戦いで敗れ、八丈島に
流罪となった宇喜多秀家の墓があります。
明治になって本土へ帰ることが許された秀家の子孫が建てた供養塔です。

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これも東光寺の目玉ですね。
寛文2年(1662)の庚申供養塔
彫刻もハッキリ残っていて、何よりも大きい。立派な庚申塔。

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観明寺境内にある、豊川出世稲荷
元々は板橋宿の北にあった加賀前田家の広大な下屋敷の中にあったそうですが、
明治になって軍の施設が建てられることになったため、コチラにお引越ししてきたもの。

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欄間に彫られた龍の彫刻は、左甚五郎の作であるとか。

IMG_0676a.jpg
加賀西公園。
この辺り一帯は、江戸時代は加賀前田家下屋敷があった場所。
およそ21万8000坪もあったというんですが、あまりの広さにイメージが追い付かない。
明治になって、その下屋敷跡がいろいろな施設になるのですが、軍の火薬工場も造られ
ました。このオブジェはその記念碑、圧磨機圧輪記念碑
圧磨機圧輪は黒色火薬を作る機械で、幕末にヨーロッパへ留学に行った澤太郎左衛門が
ベルギーから購入してきたもの。澤は幕臣で、戊辰戦争のときには開陽の艦長として榎本
武揚らと共に戦った人物です(蝦夷共和国では開拓奉行も務める)。

IMG_0683a.jpg
仲宿に戻りまして・・・コチラは江戸時代に伊勢孫という旅籠があった路地。
当然、その時の建物などなくなり、当時の面影はまったく無いのですが、壁に沿うように
三角の石がアスファルトに埋まっています。唯一残った痕跡らしいもの。
これは大八車など接触して、壁が壊れるのを防ぐためのものなのだそうです。
まぁ、今風にいうと、工事現場で見かけるパイロンですね。

IMG_0688aa.jpg
将軍が鹿狩りを行ったという御成道を少し過ぎた路地を入った奥、現在マンションが建つ
ところにあったのが仲宿の脇本陣。
板橋宿の名主を務めた飯田家の本家が、脇本陣を経営していました。
で、ちょうど前の土地が更地になっていまして、これを見ると江戸時代の町屋の構造がよく
わかります。間口に税がかかるので入口は狭く、そして奥行きは長くとるという作りです。

IMG_0686aa.jpg
で、こちらがその脇本陣跡。
本陣は飯田家の分家が経営していましたが、幕末の和宮一行が板橋に泊まったときは、
コチラの脇本陣が一時的に本陣となって、和宮の宿泊所となりました。
また、新政府軍東山道総督府が板橋に来たときも、この脇本陣が本陣扱いとなって本営
が置かれました。
これがよく間違われるようで、実はワタクシも以前書いた記事で、元の本陣に総督府本営
が置かれたと書いてしまっています。スミマセン・・・。勉強不足でした。自戒の意味をこめて
当時の記事は敢えて訂正しないでそのままにしておきます。

つまり、近藤勇が尋問を受けた場所もコチラということになりますね。

さてさて。
次週はまたまた別の主催者さまからのご依頼で、神田明神から湯島のあたりをガイドいた
します。


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[ 2017/11/14 ] 我が東大和市 | TB(0) | CM(2)