慶応元年(1865)あたりまでの、農兵について「里正日誌」の記事をご紹介してきました。
この後、多摩・狭山丘陵地域の農兵としての大きな出来事は、「長州遠征要請」、「武州
世直し一揆鎮圧」、「相模観音崎警備」などが上げられます。が、これらの記事について
はすでに触れておりますので、興味のある方・もう一度ご覧になりたい方は当ブログの
2013年8~12月あたりまでの記事をご参照ください。
さて、戊辰戦争が始まると薩長新政府軍は農兵をその指揮下に置いて、討幕のための
兵力にしようと目論み、江川代官を名古屋まで呼び寄せます。
江川代官は、新政府軍が江戸に入った後も支配地を安堵できることを条件に、いち早く
恭順しました。しかし、農兵は地域を自衛するための組織であり、積極的に誰かを攻撃
するものではないとして、新政府軍への編入は拒否します。
この江川代官が恭順しているとき、甲陽鎮撫隊と名前を変えた新選組が甲州勝沼で
新政府軍と一戦交えているのですが、日野宿の農兵隊は甲陽鎮撫隊に参加しています。
つまり、代官とはまったく逆の立場を取っているのです。
後に日野農兵隊のリーダーだった佐藤彦五郎は新政府軍からの追求を受け、小銃など
も没収されてしまいます。
しかし、東大和市域をはじめとする狭山丘陵の農兵は、この時期の旧幕軍vs新政府軍
の戦いには干渉しなかったようです。仁義隊や振武軍といった諸隊が付近にやって来て
献金や炊き出しの協力を求められていますが、積極的な関わりは持っていません。
消滅した幕府から小銃を拝借していた農兵ですが、彼らはその後、銃をどうしたのでしょう?
「里正日誌」には次のように書いてあります。
「右の鉄砲については、文久3亥年中に御支配所の江川太郎左衛門殿の役所から、農兵
をお取立になられるとの仰せがあり、その御用のために村々より献金をして、元治2丑年
中に鉄砲を拝借させていただきました。
御一新後、農兵は御廃止となり右の鉄砲も返納すべきであると、明治2丑年に旧韮山県
官よりお達しがありました。そこで、悪徒予防のために従前通り鉄砲を拝借したいと申し
上げていたところ、以前に拝借を仰せ付けられた西洋ケヘール銃は明治3年4月中に
御引上げになり、さらに書面の西洋ミニヘール37挺を拝借仰せ付けられ、決して取締り
を怠ることのないようにしていたところ、一昨年の4月中に当御県庁より銃砲の御取調べ
があったときは、元戸長たちより手続きを書上げ申し上げましたが、なお今年2月中に
右銃類の御調べがあったときには、当区内小川村他18ヶ村と同様に書上げ申し上げる
べきところでした。
しかし、区内の蔵敷村他11ヶ村はお達しが行き届かず手違いがあり、書上げ漏れが
あったことは幾重にも恐れ入り奉ります。
今般、御県印の済んだ分を渡すとのお達しにつき、よって献金人の名前と人数を書き
添え申し上げます。なにとぞ、他の19ヶ村と同様に御沙汰くだされますように願い上げ
奉ります。以上。
明治7年7月6日 第11大区
7小区 戸長 大熊長太郎
10小区 同 内野杢左衛門 印
区長 下田半兵衛
神奈川県令中嶋信行殿 」明治維新を迎えて農兵制度は廃止となったけれど、地域の防犯のために小銃はその
まま村に預けられたままになっていました。さらに、旧式のゲベール銃は一旦回収され、
ミニエー銃が新たに貸与されたという経緯が語られています。
ただし、毎年銃の登録確認が行われていたようで、この書状は蔵敷村などで書類上の
不備があったのでそれを詫び、継続して銃を村に置いてもらえるように県に頼んでいる
という内容です。
日付は明治7年になっていますが、「里正日誌」には翌8年の鉄砲請け印帳も残されて
あり、その頃もまだ村々には小銃が装備され続けていたことがわかります。
「献金人の名前と人数」とあるように、銃を拝借する代りに献金をしたのは、旧幕府も
新政府も一緒だったようです。なんか、政府がレンタル業で金稼いでいるみたいですね。
蔵敷村は6挺借りて20円を献金。奈良橋村は3挺で25円、高木村は3挺で20円、宅部
村は3挺で8円、後ヶ谷村は3挺で14円、芋久保村は2挺で20円を献金しています。
各村で金額のバラつきがあるのがなぜなのかは、わかりません。
維新から10年近くが経ったときでも、東京中心から50km圏の多摩地域では、まだ警察
組織が脆弱であり、防犯は各村々の自衛が頼りだったことがよくわかります。
作っといて良かったな、農兵!
ただ、新しく貸与されたというミニエー銃ですが、これは当ブログで以前ご紹介した和製
のミニエー銃のことです。
「幕末和製西洋式小銃を追う!」
(クリック!)
アメリカ製のM1855スプリング・フィールド銃を、幕府が湯島の製作所でコピーして
製造した銃です。しかし、この銃は銃身にライフルマークを刻むことができなかったという
技術的な欠陥があり、おそらく戊辰戦争など実戦で配備されることはなかったろうと思われ
ます。
新政府はこの銃を「捨てるのはもったいない、防犯の役くらいにはたつだろう」くらいの考え
で村々に配備したのでしょうね。


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