慶応元年(1865)、多摩・狭山丘陵一帯に鷹場を持っている尾張藩から、鷹場内
での銃を使った農兵訓練は控えて欲しいとのクレームが江川代官所に届きました。
「尾張藩鷹場と農兵訓練②」(

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慶応元年11月に、江川代官所は「農兵訓練は幕府から許可をもらったこと」として
尾張藩からのクレームを突っぱねます。
しかし、そうは言っても相手は天下の御三家筆頭。
ただ文書で通達しただけではないよ、というのが今回ご紹介する
「里正日誌」の
記事です。
「恐れながら書付けをもってお届け申し上げ奉ります
多摩郡蔵敷村名主の杢左衛門が申し上げます。
このほど農兵お取り上げのため、支配御代官の江川太郎左衛門御役所より、御鉄砲
教授方が地方取締りで出張します。そのとき当村の山王塚において実射訓練を仰せ
付けられました。
毎日射撃をいたしますので、このことをお届け申し奉ります。以上。
慶応元丑年8月16日
右村 名主 杢左衛門
御鷹場御預御案内 村野東作様
右と同様の書状を、立川御陣屋御役人中様と書いて、同日差し出し申しました。」実弾射撃訓練を行う事前に、鷹場案内役人と立川の陣屋に届け出をしているという
書状です。立川の陣屋というのは「里正日誌」の解説によれば、鳥見陣屋のことだそう
です。
さらに、これは書状の写しではなく、杢左衛門さんの覚書としてこのような記述もあり
ます。
「丑8月22日、水子御陣屋詰めの長谷川吉右衛門様が、御鷹場お見廻りのために
お出でになり、当村で昼食を申し付けられお立ち寄りになった。そのとき砲術調練の
見分をしたいというので、ご案内いたし、その場所を一通り見ていかれた。」現在の埼玉県富士見市にかつて水子村があり、水子陣屋とはその村にあった尾張藩
鷹場陣屋のことのようです。
同じ尾張藩の鷹場内ということで、長谷川さんという役人が農兵の訓練を見学に来た
のでしょう。
ということは、前文の村野さんや立川陣屋の役人も見学に来たかもしれません。日にち
が近いですからね。
このように、訓練場と訓練の様子をオープンにすることで、農兵訓練を尾張藩にも理解
してもらおうとしていたのですね。
この書状を出したのが杢左衛門さんというところに、彼の農兵への積極的な姿勢が
見て取れますね。
一方、代官所の様子はどうでしょう。
「農兵取立御用として、三浦剛蔵を来る7日に武州多摩郡拝嶋村へ派遣するが、それ
までに先般増山健次郎が御用先に預けておいた鉄砲入りの長持を、同村へ早々に
持ってきておくこと。
この書付けは御用のはじめに返すべきこと。以上。
江川太郎左衛門 役所
丑8月朔日 蔵敷分 役人
右の通り、御書付けが届いたので、丑(慶応元年)8月6日に奈良橋・高木・宅部・後ヶ谷
4ヶ村から人足を4人出し、当村(蔵敷)にある御長持を砂川村へ差し送った。」このように交代で手代が村々の調練所を巡回していたことがわかります。
彼らの銃は村で保管されていたようで、その都度、村人らが次の調練所まで運んで
いたのですね。
このことからも、頻繁に手代が村々にやってきて指導していたことが窺えます。

水子陣屋役人の長谷川吉右衛門さんって、「長谷川平蔵」と
「中村吉右衛門」を合わせたような、イカス名前だね!

「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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