前回の漫画の続きです。
で、コチラのネタは実話でもあります。
ネコが持ってくる「お土産」のこと。
現在、ワタクシの家にいるネコさんたちは室内飼いなので、お土産といっても
せいぜいが夏に二階のベランダで捕まえてくるセミくらいのものですが、昔
飼っていたコは元ノラだったので外出を自由にさせていました。
すると、まぁ、捕まえてくるわくるわ。
セミ、トカゲ、ネズミは定番で、珍しいところではモグラを持ってきたこともあり
ました。
で、今回の漫画にも使いましたスズメです。
ある日の明け方、夢の中で何か物音がするな・・・と感じてはいましたが、特に
起きることもなく眠り続けていたワタクシ。
朝になってベッドから起き上がると、なんか白いものが周りにフワフワしています。
「なに?」
と思ってメガネをかけたら、そこは地獄絵図。
辺り一面鳥の羽が散らかって、枕元にはその羽の持ち主が口から何やらデロンと
したモノを出して、息絶えておるではないですか。
もう、絶叫です。モーニング絶叫。
犯人は「一運動してきましたので、眠いから寝てますが何か?」みたいな顔して
足元でヘソ天ですよ。
まぁ、ネコを飼われている方なら、一度は「お土産」の経験はあると思いますが、
このときは朝イチから遺体処理と現場清掃に追われて、さすがにヘビーに感じ
ましたねー。
ところでワタクシの経験からいうと、お土産を持ってくるネコはたいがいメスのよう
ですね。オスもセミなど捕まえてきますが、部屋に入るやすぐに食べてしまいます。
メスはまず飼い主に見せに来ますよね。セミなどは最終的に食べちゃいますが。
ものの本によるとこれは飼い主に「狩りを教えてあげてる」とか、「これ美味しいから
食べていいよ」とか、「オモチャにして遊んだらいいさ」とかって意味で差し出して
いるんだとか。メスの母性本能なんだそうです。
だから、ネコさんがお土産を持ってきても・・・それがたとえ口からデロンと何かを
出しているスズメだろうが、首がモゲてるネズミだろうが、逆に褒めてあげることが
大事なんだそうです。
だから漫画の中でちゃんとお礼を言ってる左之助さんは、エライ!
だから、ワタクシも褒めてあげるのです。
「ありがとう、テンちゃん。テンちゃんは優しいねー」
気を良くした我が家のネコさんは、さらに褒めてもらおうと、家の中のゴキブリを
捕まえに行くのでした。
「獲ってきます!」
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慶応元年(1865)になり、各農兵組合ではそれぞれの地元で射撃用の訓練場を用意し、
実弾射撃をするようになりました。
銃は幕府からの支給(貸与)ですが、各村々へどれくらいの数が廻ってきたのでしょう。
その前に、農兵の人数がどれほどいたのかを調べてみることにします。
文久3年(1863)10月に、各農兵組合の人数見積もりが出されましたが、このとき
東大和市市域が入る上新井組合は21ヵ村で41人が割り当てられました。
しかし、上新井村などが支配替えとなったため、新たに蔵敷村組合が結成され、東大和
の村々もこちらに所属します。
この組合での農兵人数は
「里正日誌」によれば
後ヶ谷村2人 奈良橋村2人 高木村1人 野塩村1人 粂川村6人 野口村5人
廻り田村2人 宅部村3人 日比田村1人 南秋津村2人 蔵敷村4人11ヵ村で、合計29人となっています。(元治2年「慶応元年」3月)
さて、銃の貸し渡しの具体的な数については、その年の7月に記述が見えます。
「お預かり証文を差し上げ申します
一 高島流小筒 拾挺
一 御紋付御胴乱 拾
但 附属の品々共
〆 但 御箱入
右の通り御品々を当村へ御預けに仰せ付けられ、確かに預り奉りました。
しかる上は、管理不足のないように大切にして、いつでも御沙汰があれば返納いたす
べきことです。これにより預り証文を差し上げ申します。
慶応元丑年7月4日 武州多摩郡蔵敷村 名主 杢左衛門
江川太郎左衛門様 御手代 増山健次郎様 」 7月の時点で、蔵敷村組合には10挺の銃が支給されました。
さらに翌5日、田無村の西光寺で増山健次郎より次のことが言い渡されました。
「後ヶ谷村 勘左衛門(名主 30歳)
廻り田村 九郎左衛門(組頭 33歳)
奈良橋村 長吉(名主見習い 34歳)
蔵敷村 啓蔵(組頭倅 22歳)
粂川村 太右衛門(年寄倅 21歳) ※( )内は管理人記す。
右の者どもは、高嶋流砲術を習練したことにより、農兵稽古人世話掛りを申し付ける。
なおこの上隔意無く申し合わせて、格別に奮発勉強して、みんなが熟達の域に達する
ように世話を致すようにすることである。」このように、5名が射撃訓練の世話掛りをすることになり、さらに
「蔵敷村 泰蔵(百姓倅 22歳)
佐吉郎(百姓孫 15歳)
野口村 和十郎(百姓代倅 20歳)
宅部村 初五郎(組頭倅 34歳)
綱五郎(組頭倅 27歳)
粂川村 健蔵(組頭弟 17歳)
杢左衛門(百姓倅 25歳)
後ヶ谷村 熊蔵(組頭倅 16歳)
廻り田村 作右衛門(組頭倅 26歳)
高木村 伝蔵(組頭倅 38歳)」以上10名が田無村習練場で小隊入りに決まります。
世話掛りの5名を加えた15名が小隊入りをし、正式に農兵隊に編入されることとなり
ました。この人選は、6月に田無村で行われた射撃訓練に参加した者たちのようです。
29人中15人ですから、残りの14人は交代要員ということでしょう。
しかし、先に記したように支給された銃は10挺。
これでは足りませんね。
すると10月晦日に、新たに銃を貸与するので田無村に取りに来いという代官所からの
知らせが、杢左衛門さんの元に入ります。
「右の通り御書付けが到来したので、早急に組頭重蔵の倅啓蔵が、名主杢左衛門が病気
のため代理として、人足3人と連れ立って田無村に罷り出でました。
御鉄砲御掛りの増山健次郎様が御出役され、当組へ御筒7挺をお渡しになりましたので、
これを受け取り、請け書を差し上げ申しました。文言は左の通りです。
差し上げ申しました御請け書のこと
一 舶来形ケウエール御筒 但 玉目8匁 鈕(つまみ)付 7挺
附属
御紋付御胴乱 7ツ
御胴乱背負革 7ツ
雷管入 7ツ
御筒背負革 7ツ
な鈕袋 7ツ
三ツ俣 7ツ 内三俣 3ツ 大門抜 4ツ
玉取 7ツ
万力 7ツ
御長持 壱棹
右は農兵へ御貸し渡しになります御筒、その他附属品どもです。書面の通りお渡しに
なられましたので受け取り奉りました。御筒の手入れはもちろんのこと、附属品について
も管理不足のないようにいたします。これにより御請書を差し上げます。
慶応元丑11月3日 当代官所 武州多摩郡蔵敷分
名主 杢左衛門
組頭 重蔵
百姓代 平五郎
江川太郎左衛門様御手代 増山健次郎様 」新たに7挺の銃が蔵敷村組合に貸し出されました。
9日に杢左衛門さんは組合の農兵たちを自宅に呼び出します。
銃の分配を決めるための会合だったようです。
「後ヶ谷村名主勘左衛門、農兵熊蔵・宅部村名主半兵衛・初五郎・奈良橋村名主見習
長吉・高木村名主金左衛門・南秋津村組頭伊左衛門・農兵春吉・清三郎・粂川村名主
吉左衛門・農兵太右衛門・杢左衛門・四郎右衛門・勘左衛門・倉之助・野塩村名主
久右衛門孫仙次郎・廻り田村組頭六郎右衛門・日比田村名主彦右衛門・野口村は
不参、右出会人数18人。
右出会村々の役人はもちろん、農兵人への御貸し渡しの銃7挺の渡し方を相談に及んだ
ところ、技術のことにつき出精した者へ渡すことは火を使うことでもあり、万が一心得違い
の者たちがいれば御趣意に外れることは念のため、さらに御貸し渡しされない農兵人の
気持ちはどうしたらいいものかと尋ねたところ、来る25日より稽古の怠り無く、定日には
必ず出席いたすとのこと。
少しも隔意のないことなので小隊に入った者への銃不足につき、右へ貸し渡し方の良い
方法を一同話し合ったところ、銃不足の者が小隊入りの中に7人いるので、今般渡す
ことになった。
銃並びに附属の品々とも、別紙に請書を取り置いて渡しました。
蔵敷村 泰蔵
同村 力太郎
宅部村 綱五郎
後ヶ谷村 熊蔵
廻り田村 作右衛門
粂川村 徳蔵
同村 杢左衛門
〆て7人 」銃は交代要員の分は含まれず、小隊入りした村民に割り当てられたようです。
また、蔵敷村名主・杢左衛門さんの弟恒吉さんは、新銭座で行われた幹部候補生訓練の
メンバーでした。彼は小隊入りしていませんが、7月に支給された10挺のうちの1挺が
渡されています。おそらく御出役手代の助手として、常に銃を手許に置いておく必要が
あったのかもしれません。
他の組合でも同様に全農兵の半分(交代要員以外)に、銃が手渡されたのでしょうね。

晴れるみたいですが、寒そうなのでちょっと心配です。

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ダウンジャケットが生まれたのは1936年のことだそうですので、幕末には存在しま
せんでした。残念!
アメリカのアパレル・メーカーのエディー・バウアーが、水鳥の羽毛をキルティングの
中に入れることで、羽毛の片寄りを防ぐことに成功したんだとか。それが、名作と
云われるスカイライナー・ジャケットです。
スズメの羽毛に防寒性があるのかは、知りません。
ワタクシはかつて、先代の猫さんをブラッシングしたときに出る抜け毛を取っておいて
クッションを作ろうと思いましたが、途中で挫折してやめました・・・。

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慶応元年(1865)、多摩・狭山丘陵一帯に鷹場を持っている尾張藩から、鷹場内
での銃を使った農兵訓練は控えて欲しいとのクレームが江川代官所に届きました。
「尾張藩鷹場と農兵訓練②」(

クリック!)
慶応元年11月に、江川代官所は「農兵訓練は幕府から許可をもらったこと」として
尾張藩からのクレームを突っぱねます。
しかし、そうは言っても相手は天下の御三家筆頭。
ただ文書で通達しただけではないよ、というのが今回ご紹介する
「里正日誌」の
記事です。
「恐れながら書付けをもってお届け申し上げ奉ります
多摩郡蔵敷村名主の杢左衛門が申し上げます。
このほど農兵お取り上げのため、支配御代官の江川太郎左衛門御役所より、御鉄砲
教授方が地方取締りで出張します。そのとき当村の山王塚において実射訓練を仰せ
付けられました。
毎日射撃をいたしますので、このことをお届け申し奉ります。以上。
慶応元丑年8月16日
右村 名主 杢左衛門
御鷹場御預御案内 村野東作様
右と同様の書状を、立川御陣屋御役人中様と書いて、同日差し出し申しました。」実弾射撃訓練を行う事前に、鷹場案内役人と立川の陣屋に届け出をしているという
書状です。立川の陣屋というのは「里正日誌」の解説によれば、鳥見陣屋のことだそう
です。
さらに、これは書状の写しではなく、杢左衛門さんの覚書としてこのような記述もあり
ます。
「丑8月22日、水子御陣屋詰めの長谷川吉右衛門様が、御鷹場お見廻りのために
お出でになり、当村で昼食を申し付けられお立ち寄りになった。そのとき砲術調練の
見分をしたいというので、ご案内いたし、その場所を一通り見ていかれた。」現在の埼玉県富士見市にかつて水子村があり、水子陣屋とはその村にあった尾張藩
鷹場陣屋のことのようです。
同じ尾張藩の鷹場内ということで、長谷川さんという役人が農兵の訓練を見学に来た
のでしょう。
ということは、前文の村野さんや立川陣屋の役人も見学に来たかもしれません。日にち
が近いですからね。
このように、訓練場と訓練の様子をオープンにすることで、農兵訓練を尾張藩にも理解
してもらおうとしていたのですね。
この書状を出したのが杢左衛門さんというところに、彼の農兵への積極的な姿勢が
見て取れますね。
一方、代官所の様子はどうでしょう。
「農兵取立御用として、三浦剛蔵を来る7日に武州多摩郡拝嶋村へ派遣するが、それ
までに先般増山健次郎が御用先に預けておいた鉄砲入りの長持を、同村へ早々に
持ってきておくこと。
この書付けは御用のはじめに返すべきこと。以上。
江川太郎左衛門 役所
丑8月朔日 蔵敷分 役人
右の通り、御書付けが届いたので、丑(慶応元年)8月6日に奈良橋・高木・宅部・後ヶ谷
4ヶ村から人足を4人出し、当村(蔵敷)にある御長持を砂川村へ差し送った。」このように交代で手代が村々の調練所を巡回していたことがわかります。
彼らの銃は村で保管されていたようで、その都度、村人らが次の調練所まで運んで
いたのですね。
このことからも、頻繁に手代が村々にやってきて指導していたことが窺えます。

水子陣屋役人の長谷川吉右衛門さんって、「長谷川平蔵」と
「中村吉右衛門」を合わせたような、イカス名前だね!

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