新選組漫画 169 リオ・オリンピックは終りましたが

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多摩川は、奥多摩の上流はカヌーが盛んに行われてますね。
あの辺りも、もう河童は出ないのでしょう。

秋田へ旅行に行っていたとき、友人の家で水泳競技を見ていたら萩野公介選手と瀬戸
大也選手が400m個人メドレーで金と銅のメダルを獲得して、朝食を食べながら大いに
盛り上がりました。
それで思い出したのですが、1988年のソウル五輪で鈴木大地選手が背泳ぎで金メダル
を取ったときも、その友人とアパートの部屋で見てて、大騒ぎしたんですよね。
「あれ、何て泳ぎ方?バサロ?スゲーなッ!」
とか言って。

思い出は繰り返す・・・ですね。

で、その後バサロ泳法が禁止になったら
「これはバサロが得意な日本人を有利にさせない、西洋競泳界の日本イジメだろう!」
ってことで、大憤慨したのでした。

そこからワタクシは脱藩して、過激攘夷の道を歩き出すことになったのです。
・・・って、ソコは嘘なんですが。


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尾張藩鷹場と農兵訓練②

元治元年(1864)12月に、鷹場を支配する尾張藩から農兵に対する質問状を受けた
江川代官所では、翌年2月には全て対策は整っているとの返答を出しました。
しかし、尾張藩からはその後の連絡が無かったようです。
代官所としては一日でも早く農兵訓練を始めなくてはならなかったので、その年の閏5月
(元治2年は4月に慶応と改元)に尾張藩へ書状を出し、教授方の長澤房五郎と鉄砲方の
三浦剛蔵を日野宿に派遣し、訓練を開始するのでした。

すると11月になって、尾張藩から江川代官所へ次のような書状が届きます。

「御支配所の農兵どもの銃隊お取立てが決まった武州多摩郡村々の内には、尾張藩の
鷹場もあるので、小銃の火入れ稽古をするについては、昨年末以来話し合いを尾張藩
江戸屋敷にて申し越されてきました。それを尾張藩主へ伝えましたところ、その鷹場に
ついては大猷院様の時代に元祖源敬院殿が出仕したときに、台徳院様の思し召しに
よって拝領された格別の由緒のある鷹場なので、火を用いることは旧来より特別厳重
に取締りを申し渡してきたことです。多く取締りの筋へ関わりを持たれることばかりで
なく、差支えのある道具もあることについては、最近の時勢によりお達しの通り以外の
ことしかないとはいえ、公儀御鷹場の内へ火を用いることは除くようにとされています。
尾張藩鷹場内においても、右の取り決めに準じていただかれたく、このことをお答えして
掛け合いいただくよう、家老たちも申しております。
 慶応元丑年11月                                     」


一言で言うと、尾張藩としては自分の鷹場内で小銃の訓練などしてもらっては困る、と
言ってきたわけです。
原文では「鷹場内放火の義」と書いてあるのですが、「火を用いる」と訳しました。
射撃訓練のことでしょう。
文中に出てくるちょっと聞きなれない言葉として、大猷院、源敬院、台徳院があります。
大猷院は3代将軍家光、源敬院は尾張藩祖徳川義直、台徳院は2代将軍秀忠のそれ
ぞれの法号です。
つまり多摩地域の鷹場は家光の時代に、藩祖義直が大御所の秀忠からいただいた
由緒ある鷹場なので、鷹場の取り決め通りに鉄砲の使用は控えてもらいたい。と、この
ように訴えてきたのです。

これに対し、江川代官所では翌日に返書を差し出しています。

「御書面の農兵は、拙者の支配地に限って銃隊取り立てを仰せ付けられました。
尾張藩御鷹場内の村々において小銃火入れの稽古をすることについては、昨年の12
月中に両者が掛け合いましたが、その後そちらからご連絡が無いので今年の閏5月中
に当方からご連絡の上、火入れ稽古をいたしました。
公儀の御場所へは火を用いないようにするとの決め事により、尾張藩御鷹場について
も右の取り決めに準じて、火は省くようにしていただきたいとの旨、お掛け合いの趣旨は
承知いたしております。
しかしながら、公儀御場所内については去年12月中、その筋に掛け合ったところ、即日
に差支えないとの挨拶がありました。
同月より火入れ稽古をするため尾張藩御場内についても、公儀御場内に準じてもよい
と心得て、前書の通り今年の閏5月中より火入れ稽古を申し付けたところです。
最近の容易ならざるご時勢であることについても、これまで通り火入れ稽古をいたします
ので、このことに及んでご挨拶させていただきます。
  慶応元丑11月            江川太郎左衛門                   」


気持ちイイほど、ズバッとした回答。
尾張藩の申し出をものの見事に拒否しています。
幕府からは支配地については勝手次第の許可が出ているのだから、それは鷹場であろ
うが関係ないよ、ということです。

これまで代官支配地でありながら鷹場でもあるということで、二重支配を受けていた
東大和地域を含む一帯でしたが、農兵政策は家光時代からの旧来の慣例を退け優先
されることが決まった一瞬でした。
時勢が時勢ですから、鷹場よりも農兵を優先させるのは現代人の目から見れば当然
と言えば当然ですが、江戸時代270年間の武家社会は慣例としきたりの社会です。
行政官と農民の活動が御三家の御威光に勝ったというのは、驚くべきことかもしれま
せん。
逆に言えば、尾張藩の面子はツブされたワケです。

戊辰戦争が起こると、尾張徳川家は御三家筆頭でありながら、さっさと将軍家を見切っ
て新政府側についてしまいます。
まぁ、尾張家は将軍継嗣で吉宗に敗れてから幕府と溝があった関係ではありますが、
このような鷹場一件も幕府との溝をさらに深めた要因となったのかもしれません。

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新選組漫画 168 秋田・竿灯祭りに行く

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コチラ、源さんが焼いた焼きそばではありません。

先日の土曜日、秋田県秋田市に行ってきました。
大学時代の芝居仲間が現在向こうに住んでいまして、「8月の竿灯祭りは面白いから見に
おいでよ」と誘われ、行ってきた次第です。

竿灯祭り。
初めてでありますが、どんなモノかと友人に付いて見にいきますと・・・

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これが、なかなか壮観です。

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提灯の明かりは電球かと思ってたら、ホンモノの火なんですね。
なので竿が揺れると提灯の火も揺れて、これが何ともいえず美しい。
お囃子に乗せて竿がどんどん継ぎ足され、竿灯が空へと伸びていきます。

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竿が伸びると、竿灯が見る見るしなっていきます。
この日は祭りの最終日のせいか、どの竿灯も竿を次々と継ぎ足していきます。
「今日はけっこう無理して伸ばしてるよ」
友人が言ったとたん、しなった竿がバキバキと音をたてて真っ二つ。

竿灯が伸びれば竿を支える人もコントロールを失って、他の竿灯と接触してまたもや
バキバキ・・・。

こういうハプニングにも観客は拍手喝采。
なるほど、こういう楽しみ方もあるのね・・・と改めて知った次第であります。

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竿が倒れたら、また提灯に火を入れて竿灯を立てますよ。

こうして3ステージ、堪能させていただきました。

竿灯を見終わったあとは、市役所そばの屋台村にて夕食。
で、最初の写真の焼きそばですわ。
しょっつるで味付けしてるそうで、ソース味とはまた違いサッパリと、しかしコクの
ある味でした。美味しかったです。

ついでにもう一つ、秋田のB級グルメ。

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「ババヘラアイス」
妙齢のマダムがヘラでアイスをすくって作ってくれます。
この薔薇の形にキレイに盛るのが難しいんだそうで、写真の作品はかなりの
名人技。
シャーベットみたいなアイスです。美味しいよ。


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尾張藩鷹場と農兵訓練①

幕府領の江川代官支配地にて農兵の取立てが行われることになりました。
支配地の村々では幹部候補生が選ばれ、芝新銭座の調練場で訓練が行われます。
訓練を受けた幹部候補生たちはそれぞれの村に帰り、村役人宅の庭や寺社の境内、
あるいは新たに作られた村内調練場で、村の農兵たちと訓練を行うことになります。
代官所からは手代・手附が教官として派遣されてきました。

多摩地域は行政的には代官から支配を受けていますが、しかし一方で尾張徳川家
の鷹場に指定されている地域があり、土地の利用については制限がかけられても
いました。
今まであまり注目されていないようですが、尾張藩は自分の鷹場に農兵が設置される
ことについてどう感じていたのでしょう。
そして、代官所と尾張藩の間でどのようなやりとりがあったのでしょうか?
「里正日誌」にはその辺りのやりとりが詳しく記されています。

元治元年12月、江川代官所は尾張藩に以下の書状を提出しました。

「尾張殿御城付                     江川太郎左衛門

拙者が支配している武蔵・相模・伊豆・駿河国において、農兵の取り立てを伺いま
したところ、拙者の支配地に限り銃隊を取り立てるよう致すべしと御下知があり
ました。
ところで、武州多摩郡村々のうちには御鷹場もありますが、来年の春より小銃火入
訓練をいたすつもりです。もっとも羽鳥を撃ち殺すことはいたさぬように、きつく申し
つけますので、右のお達し方々についてはお問合せください。

 元治元子年12月  」


全く同様の書状が、鷹場役人の後藤与兵衛、田口小右衛門、石田久次郎の3名に
も出されていて、彼らからは

「御書面と御問い合わせにつきましては承知いたしました。羽鳥殺生はいたさぬよう
きつくお申し付けくださる上は、御鷹方としては差支えのことはありません。」
                              (石田久次郎)


このような回答が出されています。
鷹場内の鳥を撃つことがなければ、役人としては農兵訓練をすることに差支えはない
と答えたようです。
しかし、翌元治2年(1865)2月に「尾張殿御城附」から江川代官に問い合わせの
書状が届きます。
尾張藩はどのようなことを聞いてきたのでしょうか?

「農兵どもの銃隊をお立てになったことにつき、村々の百姓どもへは特別に取締りの
心得を話すことがいろいろあるが、右のことを承知させたのか。

農兵どもの角打ち(射撃)並びに調練場等を、いずれの村方に設置するのか。右の
度ごとに御支配所からの者の出張もあるのか。そうであれば、出張の者の御役名
と姓名を知らせていただきたい。

農兵どもが稽古場へやって来る途中、筒袋入れに木札などの目印をつけて鉄砲を
持参するのか。又は貸袋に入れないでそのまま持参するのか、これまた承知してお
きたいことである。
ただし、農兵どもが所持する鉄砲の目印などがついているのであれば、鷹場内の
取締りのために合わせ札を受け取りたい。また、鉄砲を銘々が居住する村へ持ち帰り、
筒払いなどをすることはことはないのか。農兵どもはどこの村の人別が出てくるのか。
村名、名前どもを毎回承知しておきたい。」


さすがに鷹場役人とは違うようで、城代ともなればいろいろと細かい所を聞いてきます。
この質問に対しての江川家の回答が、次の通りです。

「御書面の最初の条項の農兵取締りについてです。先般にお問合せました書面にも
ある通り、羽鳥殺生はいたさぬようきつく申し付け、稽古中は取締りのために手附・
手代を差し出しおくつもりです。

二ヶ条目の角打ち銃隊調練場の場所、出張する鉄砲方ともども手附・手代らの姓名は
別紙に上げます。

(別紙)
武州多摩郡
田無村 小川新田 箱根ヶ崎村 青梅村 氷川村 檜原村 中清戸村 蔵敷村
砂川村 福生村 拝嶋村 中藤村 三ツ木村 山田村 柴崎村 上谷保村 
本町田村 日野宿 八王子宿 駒木野・小野宿
相州高座郡
小山村 藤澤宿 瀬谷野新田 
同津久井県
日連村 中野村
同大往郡
寺山村

教授方
山田清次郎 中村小源二 田那村淳 長澤房五郎 齊藤四郎之助 森田留蔵
岩嶋廉平 中村惣次郎 長澤三治
御鉄炮世話方
松岡正平 柏木総蔵 上村井善平 根本慎蔵 雨宮新平 手代・増山健次郎
手代・三浦剛蔵

三ヶ条目の農兵は特別に印鑑などはありませんが、御貸し渡しの銃なので、いずれの
胴乱にも御紋が付いているので紛れることはありません。
もっとも銃を御貸し渡しにならない間は、そのままで稽古場を行き帰りします。
農兵どもが銃を家に持ち帰るといっても、自宅にて筒払いなどをするのではありません。
農兵人別については、拙者の支配所が武相豆駿州でありますが、未だ武相州は取り
立てが始まりません。ご挨拶の教授方並びに世話方の手附・手代らの出張人を選んだ
上申し付けますので、未だその者らの姓名は決まっておりませんが、差掛りこのことに
ついてはお差支えの有無もあり、早々にご挨拶できますよう存じております。
この段、下げ札をもってお答えいたしました。
                                    江川太郎左衛門
 丑2月                                                」


最初の質問では、農兵が銃で鳥を撃たないことなどの取締りの徹底を要求しています。
次いで調練をする村、代官所から出張してくる役人について聞いています。
やはり注目するのは「三ヶ条目」でしょうか。
尾張藩としても農兵の銃や、誰が農兵になるのかを管理しておきたいという考えが見ら
れますし、農兵たちがそれぞれの家に銃を持ち帰ることにも警戒感を表しているようです。
やはり、農民が銃を持つことへの心配があったのでしょうね。

メガ70

ワタクシの卒業した高校の正門前の道路は「鷹の道」と呼ばれています。
尾張藩の鷹狩りに使う道だったのでしょうね。
高校時代はそんなコトも全く知らずに、通っていましたが。


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