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粟須村の農兵献金

農兵政策を実行するにあたって、各村々が村役人を中心として献金をしていた
ことをご紹介しました。
献金について「里正日誌」に面白い記事があるのを見つけましたので、今回は
そちらをご紹介しましょう。

「恐れながら書付けをもって申し上げ奉ります

一 金5両也
右はこの度の農兵お取立についての冥加金のため、書面の金子を献納仕りたく
存じ奉ります。何とぞ、お慈悲をもって右の御用途の中へ御差し加えなされたく
願い上げ奉ります。以上。
                    武州多摩郡粟須村
                      名主 嘉門、煩いにつき
                      親類 同郡蔵敷分
                        名主 杢左衛門 印
 文久3亥年12月9日
  江川太郎左衛門様 
         御役所    」


粟須村名主の嘉門さんも、農兵のために献金したいと願い出た書状です。
しかし、嘉門さんは病気のようで、親類の杢左衛門さんが代理人を務めたようです。

面白いというのは、この粟須村が上新井村組合を構成する地域・・・つまり、所沢、
東大和、東村山やその周辺の村ではないということなんです。
では、粟須村はどこにある村なのかといいますと、ずっと南下して多摩川を越えた
日野宿組合にある村なのです(現在は八王子市の一部)。

新選組ファン・・・というか佐藤彦五郎ファンならば、村名をご存知かもしれません。
勝沼戦争で敗走した彦五郎は、新政府から追われる身となったために一家離散と
なり逃亡生活を余儀なくされますが、その彦五郎と妻のぶ(土方歳三の姉)、末娘が
一時身を隠したのが粟須村です。
「聞きがき新選組」によれば、彦五郎らは粟須村の大蔵院へ身を寄せますが、その
手配をしたのが粟須村名主の井上忠左衛門。忠左衛門は日野宿改革村組合の
小惣代を務めており、彦五郎とは天然理心流でも同門でした。

では、書状に出てくる「名主の嘉門」とは誰なのか?

いろいろ調べてもわからなかったので、八王子市郷土資料館に電話をかけて尋ねて
みました。
すると、幕末当時に「関根嘉門」という人が粟須村の名主にいたということを、資料館
の方が教えてくれました。
当時、粟須村は村内に天領と旗本領が混在していたようなので、嘉門はその一方
の名主だったのでしょう。

八王子市郷土資料館の学芸員さま。
突然の奇妙な質問に、懇切丁寧に答えていただき、誠にありがとうございました。


「聞きがき新選組」には慶応2年の武州世直し一揆の鎮圧に、忠左衛門が村で炊き出し
をしして農兵を応援したと書かれていますので、彼は代官領の名主。
とすれば、嘉門は旗本領の名主だったと思われます。

旗本領であれば農兵を出す必要はなく、献金の必要もないはずです。
しかし、5両ものお金の献金願いを出しているのです。
さらに不思議なのは、同じ村内の名主忠左衛門に頼めば良さそうなものを、親類とは
いえ組合も違う杢左衛門に、代官所への願書を頼んでいることです。
これはどういうことなのでしょう?

「里正日誌」には次の書状が続けて記載されています。

「恐れながら書付けをもって願い上げ奉ります

武州多摩郡蔵敷分名主の杢左衛門が申し上げ奉ります。
先般、私が差添えてお願いいたしました、同郡粟須村名主の嘉門より同村の小前へ
対して理解を願い申し立てた一件のお調べです。
小前方より嘉門に対して、御奉行様へ訴え出て判決を頂戴いたしたくしたことにつき、
御手限りの御吟味をされるのが難しく、願書を置いたままにされているところ、御奉行
所が御吟味されている中で、扱人が中に入ってそれぞれ示談が行き届き、和解の証文
を差し上げ奉る段階となりました。
もはや嘉門より、これ以上はお願いの筋はございませんので、なにとぞ御慈悲をもって
嘉門より上げ置いた願書をお下げしていただきたく願い奉ります。以上。
                            武州多摩郡粟須村
                              名主 嘉門、煩いにつき
                              親類 同郡蔵敷分
                                名主 杢左衛門 印
  文久3亥年12月9日
    江川太郎左衛門様
        御役所       」


日付を見ると、2通の書状は同時に出されたもののようです。

2通めの書状を読むと、どうやら嘉門と百姓たちの間に揉め事があって、百姓たちは
奉行所まで訴え出たようです。
これがどのような揉め事なのか、この史料だけではわかりませんが、扱人として間に
入ったのが杢左衛門かもしれません。
百姓が訴え出た奉行所が勘定奉行だとすると、粟須村内の代官領を巻き込んだ話
の可能性があります。
嘉門の献金は、自分の起こしたトラブルが大事になってしまったため、責任を取る形で
同日に申し出たものなのでしょうか?

あるいは、旗本領であるにもかかわらず、自ら農兵に協力したいとの思いから申し
出たものなのか?
佐藤彦五郎が天然理心流の入門者を記録した「神文帳巻物」には、元治元年(1864)
からの入門ですが、粟須村の関根姓の人物が3人(鱗造、鶴吉、浅吉)書かれています。
これが嘉門本人か、親族なのかはわかりませんが。

農兵への献金にも、いろいろな裏がありそうです。

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そういうワケで、その間は皆様のブログ訪問ができません。
すみません・・・。


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[ 2016/06/10 ] 我が東大和市 | TB(0) | CM(2)