新選組漫画 165 仙台市幕末紀行③

まだまだ続くよ、仙台編。

やっぱりココは来なきゃ、でしょ。
ってことで仙台城址にやってきました。

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着いたのがもう夕方の時間で、政宗騎馬像を撮ろうとしたら逆光で
こんな真っ黒くろすけに。
まぁ、これはこれでカッコイイか?

この政宗像の背後に本丸がありましたが、仙台城ってのは山城なので本丸まで
来るのにはけっこうな坂道を登ってこなきゃなりません。
戦国時代ならともかく、江戸時代に入ると「こんな坂道に毎日登っていられるかよ!」
ってんで、坂下の二の丸が殿さまの住居や、通常業務に使われたそうです。
本丸は特別な儀式や、来賓のあったときなどに使用されたんだとか。
現在は、車で一気に本丸横の駐車場まで上がってこれますけどね。

で、話は幕末ですよ。
慶応4年(1868)9月3日、奥羽越列藩同盟の軍議が仙台城で行われます。
お城のどこで軍議が開かれたのか、正確な場所はわからないらしいんですが、たぶん
本丸で間違いないんじゃないでしょうか。

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本丸の跡にはこのように縄張りがしてあって、どこにどの部屋があったのかわかる
ようになっています。写真のちょうど正面が大広間ですね。
土方歳三や榎本武揚は、ここで列藩同盟諸藩の重臣たちと会談をしたのでしょうか?

席上、榎本は列藩同盟強化のために土方を総督に推薦します。
鳥羽・伏見から最前線で戦い続けている土方のキャリアにかなう者などいないので、一同
もこれに賛成。
ところが土方は総督を引き受けるにあたって、一つの条件を出します。
それは、各藩の重臣から一兵卒まで全ての戦闘員の命は自分の思いのままにさせて
欲しいという、生殺与奪の権を与えよというものでした。

おそらく土方は、そこまで覚悟を決めないと戦に勝ち目はないよ、と言いたかったんじゃ
ないかと思います。
ただこれを聞いた諸藩重臣一同は、みんなブルっちゃう。
「それじゃ、ナンですか?土方総督の命令にNOって言ったら、殺されてもいいってこと
なんですか?」
「そんな強行が許されるのは藩主さまだけっス。そんな怖い考えについていけないっス」
キャーキャー言い出す重臣らに、土方は怒りとあきらめのあまり席を蹴って退席して
しまうのでした。
奥羽越列藩同盟の崩壊です。
もっとも、土方や榎本らが仙台入りする前に、列藩同盟のリーダーであるはずの仙台藩
からしてすでに、藩論が恭順に傾きつつあった状況だったのですがね。

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本丸跡から城下を見下ろす。
たぶん、仙台駅の方向です。
歳さんやエノタケさんもこの景色を眺めながら「ダメだ、こりゃ!」ってつぶやいたのかな。

この日はこのあと、仙台市在住のchihiroイグレシアスくんのご案内で、やたら美味くて
量の多い焼き鳥屋で演劇研究会のプチ同窓会。
知り合ってからもう30年が経ち、それぞれ別の道を歩いているというのに、〇ン年ぶりで
会ってもすぐ当時のままに戻れるというのは、ありがたい仲間たちです。
「イッセーくんさぁ、1年生のとき、6号館のホールで巨大な立て看板を一人で描かされて
たよね~、はははは・・・」(by kitacoさん)
ははは、じゃねーよ。傍から聞いてたらイジメ受けてたみたいじゃないか。
ちがうよ。制作チーフのタカエ先輩の命令に逆らえなかっただけだよ。
生殺与奪の権を握られていたもので・・・。

さて。
翌日はひとりで、残りの史跡廻り。
前回ご紹介した榴ヶ岡天満宮もこの日に行ったのですが、その前に県庁のある方角に
散歩してみることに。

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仙台駅からやや北西に位置する勾当台公園です。
写真の左側奥にある建物が宮城県庁。
この勾当台公園に、仙台藩の藩校養賢堂がありました。

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藩校 養賢堂跡の碑だけが、ひっそりと建ってます。
県議会庁舎入り口の脇にありますが、本当に目立たないので、探して行かれる方は
ご注意ください。

奥羽越列藩同盟の結成に奔走した玉蟲左太夫は、養賢堂の指南頭取をしていました。
また、戊辰戦争時には仙台に集まってきた諸藩からの脱走兵の宿舎にも使われた
そうです。

現在の勾当台公園には古図広場というタイル敷のスペースがあり、
安政3年(1856)に作られた「仙台城下大絵図」がその路面タイルに描かれています。

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細かい文字とかは読み取れませんけどね。

勾当台公園を南に下って広瀬通りを西に歩きます。
歓楽街で有名な国分町通りを過ぎた辺りに、かつては外人屋という屋敷がありました。
「外人」というのは現在の「外国人」という意味ではなく、「藩外の人」という意味です。つまり、
外人屋とは藩外からの来客を迎えた宿泊所のこと。

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現在は何の痕跡もありません。
1階にTSUTAYAの入っているビルがその跡と推定されます。
もしも行ってみたい方は、「ホテルグランテラス仙台国分」を目印にしてください。
そのホテルの向かいが写真のビルです。
ここにも戊辰戦争当時は多くの人が集まったことでしょうね。


ところで前日、仙台城に行く前に瑞鳳殿にも行きました。
伊達家三代の霊廟があるところ。観光の名所ですから、まぁ行きますわな。

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霊廟はとても感心いたしましたが、それよりもっと気になったのが、いたる所に貼られて
いたこの張り紙です。

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この「お知らせ」が、20mくらいの間隔でベタベタ貼ってあるんですわ。
「こりゃ、よっぽどのコトだな・・・」と、そっちの方が気になって仕方ないス。
けど、瑞鳳殿ってすぐ裏は住宅地なんですよねぇ・・・。
全国でこの方たちの目撃や被害が相次いでおりますが、気を付けたいものです。
まぁ、山や森は本来彼らのモノなんだけどね。



この後、仙台を離れて向かった先は・・・

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白石でした。

白石城を見て、片倉小十郎参りをして、温麺を食べてきました。
・・・けど、幕末にはカンケーないので以下省略。

あ、でもひと言。
白石の史跡廻りをするのなら、駅前のレンタサイクルが便利でした。

20160628.jpg

歳さんの仙台人に対する生殺与奪の権は、山南さん切腹のときに
すでに発動されていたのでしょうか・・・!?

ところで、今回の仙台市幕末史跡廻りでは歳月堂出版の「ふぃーるど・わーく」
というガイドブックを大いに参考にさせていただきました。
幕末の、特に新選組関連の史跡ガイドには、この「ふぃーるど・わーく」の
詳細さは他に例を見ないと思います。
嬉しいことに、公共交通機関の案内もついていますしね。
残念ながら「仙台編」はすでにSOLD OUTのようですが、「京都編」「山梨編」
あたりだと、まだ入手可能のようです。

歳月堂オンライン(こちら、クリック!)


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新選組漫画 164 仙台市幕末紀行②

清浄光院を出て、次に向かうのは同じ青葉区内のお寺。
しかし、仙台市はさすが城下町というか、お寺が集中しているエリアは一方通行
や細い路地が多く、ナビ通りに進んでも迷うことしばしばです。

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で、やっと着きました~。
龍雲院です。
コチラのお寺にも幕末仙台藩の偉人が眠っておられるのですが・・・その前に、ここには
江戸時代のかなり有名な方のお墓もありますので、最初にそちらをご紹介します。

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ひときわ立派なお堂の中に祀られている林子平のお墓です。
あ、それって笑点の新しいレギュラーになった人?
・・・って違います。そりゃ三平。
この人、林家一門じゃありませんから。

林子平は江戸時代後期の学者・・・ていうか国防評論家ってカンジですかね、
今風に言うと。
お姉ちゃんが仙台藩主の側室になった縁で、仙台藩の禄をもらう身となったの
ですが、よせばいいのに藩の経済改革とか藩士教育とかやたらに首を突っ込む
もんだから「お前、新参の分際でいいかげんにせーよ!」と上級藩士から怒られて
しまいます。
すると子平、「じゃ、いーよ。自由にさせてもらいます!」と禄を離れ、身分を兄の
厄介に落として、自分さがしの旅に出ちゃいます。
全国を歩き廻り、様々な人に会い見聞を広めた子平ですが、松前まで行くと、すぐ
そこまでロシア船が来ていることに驚愕し警戒感を強めることに。

江戸に帰った子平は早速「海国兵談」を執筆
「およそ日本橋から欧羅巴まで、その間ただ一つの水路あるのみ」

と書いて、日本は周りが全て海で囲まれているんだから、海防にしっかり取り組まなきゃ
ダメだお!と警告するんですね。

ところが、当時は国の軍事に関わることを発言できるのは幕府内の者だけ。
本は発禁となり、子平は仙台藩に強制連行となってしまいます。
しかし、「海国兵談」」はその後も写本などが読まれて、後の幕末の海防政策へと発展
していくのですから、幕末に縁のある人・・・とも言えるでしょう。

林子平は高山彦九郎、蒲生君平と共に寛政の三奇人と云われています。
奇人とは、現代でいうところの天才というニュアンスです。

では、ワタクシのメイン目的の方のお墓参りといきましょう。

IMG_0018b.jpg

細谷十太夫のお墓です。

彼は仙台藩では軽い身分の藩士でしたが、行商人などに変装して各地を廻り情報を
集める仕事に才能を発揮します。そして、その過程において、地回りの親分衆や博徒
といった無頼の徒とも知り合いになり、彼らを味方につけるのです。こういった人をつかう
才能に秀でていたのでしょうね。

さて、戊辰戦争が始まりますが、仙台藩は白河の戦いで敗走し、新政府軍から「大砲
1発ドーンと撃つと、5里逃げる。ドンゴリ、ドンゴリ~!」と馬鹿にされる始末。

これに怒った十太夫は、仲間となった博徒やら農民やらと共に衝撃隊という
戦闘部隊を組織し、新政府軍に戦いを挑むのです。
衝撃隊は全員黒装束を身にまとい、カラスを描いた旗を振りかざして夜襲を敢行。
武器は刀や鎗だけながら、勇猛果敢に戦い、連戦連勝。
その神出鬼没ぶりから「鴉組」と呼ばれ、新政府軍を恐怖のズンドコに落とし入れた
のです。
隊長の細谷に至っては、実際に生きた1羽のカラスを従えて指揮を執っていたといいます。
まるで、男塾の三号生、男爵ディーノそのものではないですか。

しかし、仙台藩が恭順すると、十太夫もこれに従い衝撃隊も解散。
この辺りが額兵隊と違うんですが、十太夫は裏から手を回し、星恂太郎ら額兵隊の隊士
らを榎本艦隊に乗船させる手引きをしたと云われています。

さて、上の写真からもわかる通り、十太夫のお墓は無縫塔です。
彼は晩年出家して、ここ龍雲院の住職になっていたのです。
カラス隊長男爵ディーノ(まぁ、違うんですが)が、なぜ僧侶に?と不思議に思うのですが、
彼はとても林子平を尊敬していたようで、当時荒れ果てていた龍雲院を再興したいと
いう思いが強かったからだと云われています。

星恂太郎や細谷十太夫に関係する史跡がもう1ヶ所あります。

そこへは翌日、鉄道で向かいました。
といっても、仙台駅から仙石線で一つ目の駅、榴ヶ岡駅で下車。
徒歩で3~4分ほどにある榴ヶ岡天満宮です。

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この場所は額兵隊が訓練を行ったとの伝承もあるようです。
そのためでしょうか、ここには額兵隊や星恂太郎の顕彰碑が建っているのです。

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星恂太郎碑です。
ちょっと木陰になって見えづらくなり、申し訳ありません。
この顕彰碑は明治30年に、額兵隊の幹部だった人たちや、カラス隊長細谷十太夫
らによって建てられました。

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その星恂太郎碑と向かい合わせで建っているのがコチラ。
額兵隊・見国隊碑です。
この碑は明治31年に、両隊の幹部だった元隊士が建てたとのこと。

見国隊も、戊辰戦争で活躍した戦闘部隊の一つです。

で、この額兵隊・見国隊碑のとなりにあるのが、見国隊の隊長を務めて五稜郭の戦いで
戦死した二関源治を顕彰する石碑です。

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二関源治顕彰碑

二関は額兵隊の隊士でしたが、新政府は仙台藩が恭順しても領地を半減するなど
の処分を下したため不満を持ちました。
同じような怒りを持つ藩士の二、三男らを取りまとめ、石巻で結成されたのが
見国隊です。蝦夷に渡って、箱館戦争を戦いました。
この二関の碑は、星恂太郎碑と同じときに建てられたようです。

幕末には〇〇隊、〇〇組といった、いわゆる「幕末諸隊」というものが各地でたくさん
発生しています。
一般によく知られるのが新選組や白虎隊、奇兵隊、海援隊といった部隊ですが、
それ以外にも各地の諸部隊を一つ一つ見ていくのも、なかなか興味深いものです。


20160623.jpg


・・・ちなみに。
ご紹介した榴ヶ岡天満宮の最寄り駅、仙石線の榴ヶ岡駅ですが、プロ野球楽天
ゴールデンイーグルスの本拠地・koboスタ宮城の最寄り駅でもあります。
ゲームのある日はけっこう混雑するようですので、行かれる方はお気を付けください!

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新選組漫画 163 仙台市幕末紀行①

先週末に宮城県仙台市に行ってまいりました。

学生時代に共に演劇に明け暮れた友人が、今仙台と秋田に住んでいまして、
ちょっとプチ同窓会でもやりましょうか、ということで集まることに。

東北新幹線にはかなり久しぶりに乗りましたが、大宮駅から「はやぶさ」に乗って
1時間ちょいで仙台駅に到着。
昼前には仙台駅で迎えに来ていた友人らと合流です。

昼食後にワタクシのリクエストとして「仙台市幕末紀行」に出かけます。
日本史に、幕末に特に興味があるというワケでもない友人たちも付き合って
くれました。Cくん、車を出してくれてありがとう!

先ず向かったのは、若林区にある保春院です。

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ハイ、こちらが保春院の山門でございます。
・・・ウソです。
駐車場がお寺の裏側にありまして、そこからの入り口がココなんです。
ちなみに保春院の本堂は、ただ今改装真っ最中。工事のため覆いがかかっていま
したので写真には撮れませんでした。

「保春院」は伊達政宗の母親、義姫のことですね。
ここは政宗が母親が亡くなった後に、その供養のために建てたお寺です。といっても、
義姫の墓があるわけではありません。
こちらに来たのは、この方のお墓参りをするためです。

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仙台藩士玉蟲左太夫です。
名前だけ見ると、丸尾末広の漫画の登場人物みたいな名前ですね。「お前の目玉を
舐めさせておくれ・・・!」とか言いそうですが、全く違います。

彼は江戸の湯島聖堂の塾頭になるほどの秀才で、万延元年(1860)の日米修好通商
条約の批准書交換使節の一員として、アメリカに渡っています。
聞くところによると、なんでもかんでもメモしまくり、正確に記録に取る特技があったそうで、
そんな真面目な性格が外交随員として重宝されたんでしょうね。
戊辰戦争がはじまると、軍務局副頭取となって奥羽越列藩同盟成立のため
に会津に走るなど活躍します。
ところが、肝心の仙台藩が新政府軍に恭順してしまったために捕まり、最後は獄中で
切腹を申し付けられるという非業の最期を遂げます。

写真の左側にあるちょっと黒っぽい墓石が左太夫本人のお墓です。
左太夫の友人が建てたようですが「玉虫拙斎之墓」と刻んであります。

続いて向かったのは青葉区の清浄光院

IMG_0012a.jpg

こちらのお寺に眠るのは、仙台藩が誇る最強洋式銃隊額兵隊の隊長だった
星恂太郎です。

IMG_0009a.jpg

山門を潜ってすぐ左に顕彰碑があります。

IMG_0010b.jpg

お墓は本堂の脇にあります。
「星家之墓」とあって、側面に代々祀られた人の法名・没年・俗名が刻まれています。
恂太郎の名もあるのですが、薄くなっていてやっと判読できるかんじです。

恂太郎は仙台東照宮の神官の家に生まれます。そのせいかゴリゴリの攘夷で、仙台藩の
開国派を斬ろうとまでしますが、逆に説得され、その後は積極的に海外の知識を取り入れ
ます。そんなところは坂本龍馬に似てますね。
横浜で西洋戦術を学び、戊辰戦争がはじまると仙台に呼び戻され、洋式銃隊部隊額兵隊
の隊長に就任しました。
しかし、仙台藩が恭順に傾くと「そんなんやってられっかーッ」と、隊を率いて脱走。
旧幕府軍に合流し、蝦夷に上陸。土方歳三の指揮下に入って活躍します。

額兵隊はその実力もさることながら、別の部分で佐幕ファンから人気です。
その理由は西洋式の隊服。
通常は真っ赤な表側、戦闘時には裏返して黒色という、イギリス式リバーシブル制服を
採用していたからです。
この額兵隊のコスプレは、今でもイベント等で大人気。
まさしく、幕末のオシャレ番長です。by ドーーーーーン小西!

20160617.jpg


いつも史跡レポは長くなるので、今回は小分けにしてアップします。

仙台のマイナー史跡廻りに付き合ってくれたワタクシの友人たちのブログを
紹介します。
人生の役にはまったく立ちませんが、面白いので、ぜひどうぞ!

chihiroイグレシアスのぼんくら日記

世界映画博


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粟須村の農兵献金

農兵政策を実行するにあたって、各村々が村役人を中心として献金をしていた
ことをご紹介しました。
献金について「里正日誌」に面白い記事があるのを見つけましたので、今回は
そちらをご紹介しましょう。

「恐れながら書付けをもって申し上げ奉ります

一 金5両也
右はこの度の農兵お取立についての冥加金のため、書面の金子を献納仕りたく
存じ奉ります。何とぞ、お慈悲をもって右の御用途の中へ御差し加えなされたく
願い上げ奉ります。以上。
                    武州多摩郡粟須村
                      名主 嘉門、煩いにつき
                      親類 同郡蔵敷分
                        名主 杢左衛門 印
 文久3亥年12月9日
  江川太郎左衛門様 
         御役所    」


粟須村名主の嘉門さんも、農兵のために献金したいと願い出た書状です。
しかし、嘉門さんは病気のようで、親類の杢左衛門さんが代理人を務めたようです。

面白いというのは、この粟須村が上新井村組合を構成する地域・・・つまり、所沢、
東大和、東村山やその周辺の村ではないということなんです。
では、粟須村はどこにある村なのかといいますと、ずっと南下して多摩川を越えた
日野宿組合にある村なのです(現在は八王子市の一部)。

新選組ファン・・・というか佐藤彦五郎ファンならば、村名をご存知かもしれません。
勝沼戦争で敗走した彦五郎は、新政府から追われる身となったために一家離散と
なり逃亡生活を余儀なくされますが、その彦五郎と妻のぶ(土方歳三の姉)、末娘が
一時身を隠したのが粟須村です。
「聞きがき新選組」によれば、彦五郎らは粟須村の大蔵院へ身を寄せますが、その
手配をしたのが粟須村名主の井上忠左衛門。忠左衛門は日野宿改革村組合の
小惣代を務めており、彦五郎とは天然理心流でも同門でした。

では、書状に出てくる「名主の嘉門」とは誰なのか?

いろいろ調べてもわからなかったので、八王子市郷土資料館に電話をかけて尋ねて
みました。
すると、幕末当時に「関根嘉門」という人が粟須村の名主にいたということを、資料館
の方が教えてくれました。
当時、粟須村は村内に天領と旗本領が混在していたようなので、嘉門はその一方
の名主だったのでしょう。

八王子市郷土資料館の学芸員さま。
突然の奇妙な質問に、懇切丁寧に答えていただき、誠にありがとうございました。


「聞きがき新選組」には慶応2年の武州世直し一揆の鎮圧に、忠左衛門が村で炊き出し
をしして農兵を応援したと書かれていますので、彼は代官領の名主。
とすれば、嘉門は旗本領の名主だったと思われます。

旗本領であれば農兵を出す必要はなく、献金の必要もないはずです。
しかし、5両ものお金の献金願いを出しているのです。
さらに不思議なのは、同じ村内の名主忠左衛門に頼めば良さそうなものを、親類とは
いえ組合も違う杢左衛門に、代官所への願書を頼んでいることです。
これはどういうことなのでしょう?

「里正日誌」には次の書状が続けて記載されています。

「恐れながら書付けをもって願い上げ奉ります

武州多摩郡蔵敷分名主の杢左衛門が申し上げ奉ります。
先般、私が差添えてお願いいたしました、同郡粟須村名主の嘉門より同村の小前へ
対して理解を願い申し立てた一件のお調べです。
小前方より嘉門に対して、御奉行様へ訴え出て判決を頂戴いたしたくしたことにつき、
御手限りの御吟味をされるのが難しく、願書を置いたままにされているところ、御奉行
所が御吟味されている中で、扱人が中に入ってそれぞれ示談が行き届き、和解の証文
を差し上げ奉る段階となりました。
もはや嘉門より、これ以上はお願いの筋はございませんので、なにとぞ御慈悲をもって
嘉門より上げ置いた願書をお下げしていただきたく願い奉ります。以上。
                            武州多摩郡粟須村
                              名主 嘉門、煩いにつき
                              親類 同郡蔵敷分
                                名主 杢左衛門 印
  文久3亥年12月9日
    江川太郎左衛門様
        御役所       」


日付を見ると、2通の書状は同時に出されたもののようです。

2通めの書状を読むと、どうやら嘉門と百姓たちの間に揉め事があって、百姓たちは
奉行所まで訴え出たようです。
これがどのような揉め事なのか、この史料だけではわかりませんが、扱人として間に
入ったのが杢左衛門かもしれません。
百姓が訴え出た奉行所が勘定奉行だとすると、粟須村内の代官領を巻き込んだ話
の可能性があります。
嘉門の献金は、自分の起こしたトラブルが大事になってしまったため、責任を取る形で
同日に申し出たものなのでしょうか?

あるいは、旗本領であるにもかかわらず、自ら農兵に協力したいとの思いから申し
出たものなのか?
佐藤彦五郎が天然理心流の入門者を記録した「神文帳巻物」には、元治元年(1864)
からの入門ですが、粟須村の関根姓の人物が3人(鱗造、鶴吉、浅吉)書かれています。
これが嘉門本人か、親族なのかはわかりませんが。

農兵への献金にも、いろいろな裏がありそうです。

IMG_1453a.jpg

そういうワケで、その間は皆様のブログ訪問ができません。
すみません・・・。


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新選組漫画 162 勇の拳銃

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高校時代からの友人が「今日は息子の運動会」とブログで書いていました。
ワタクシの高校生の甥も、先日が運動会でした。
ワタクシが中高生の頃は運動会といえば秋に行うもの、と決まっていましたが、
今はこの時期に行う学校も多いみたいですね。秋は展覧会や舞台発表会など
のイベントが多いので学習に遅れが出てしまうから、なんだそうですが、我々の
時代は土曜日も学校に行ってましたからねぇ。

6月の運動会は気温も高い日が多いので、やる方も応援する方も大変ですね。
熱中症などには、十分に気を付けてください。

近藤勇が佐藤彦五郎に贈った短銃は、文久元年に渡されたと云います。
まだ勇らが京都に行く前ですが、当時の幕府領では治安の悪化が懸念されて
いた時だったので、勇としては兄弟子を気遣ってのことだったのでしょう。

銃が発見されたのは平成17年といいますから、つい最近のことです。
漫画ではつい「拳銃」と書いてしまいましたが、形は先込め式の古いタイプの
もので、短銃とか短筒と言った方がピッタリします。
しかし、天然理心流の道場主であり、剣一本で戦うイメージのある近藤勇が、
実は護身用として短銃を持っていたというのは、彼の実像を探る上で大きい
遺品だと思います。

資料館に行かれたことのある方ならよくご存知のエピソードですが、この銃の
鑑定をしたのが漫画家の松本零士先生。
資料館では、この拳銃が発見された時のことや、松本先生が「新選組大好き」
だというお話を、佐藤館長が楽しく語ってくれます。


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