2月17日に更新した「農兵取立ての流れを追う!」の記事において、文久3年の8月に
関東の各代官たちが農兵の取立を幕府に願い出たことをご紹介しました。
この代官たちの行動について、当ブログの読者でいらっしゃる「野火止用水さん」から
コメント欄にて「『里正日誌』文久3年7月の記事に村々に特異な空気が漂っていたこと
が伺えます」とのご指摘をいただきました。
ワタクシが見落としていた箇所ですが、確かに当時の関東地域の治安状態がわかる
記事ですので、今回ご紹介することにいたします。
野火止用水さん、どうもありがとうございました。
文久3年7月に、勘定奉行所の関東取締出役御用掛りの中山誠一郎、取締出役の
安原燾作、杉本麟次郎の3名が所沢村にやって来て、大小惣代寄場役人たちを呼び
出して演説をしたようです。
※安原の「燾」は「里正日誌・第八巻」には「寿」の下に「心」と書く。
「一、文政に寄場組合を起こした時から、大小惣代並びに道案内の者が増えたが、
特別に減らす分は一同が集まり話し合って人選を決めて、早々に申し出るべきこと。
のんびりとしてはならない。
一、最近特に、異国船が来航したことにより戦争が起こることも考え
られる。関八州に住む人の気持ちの整理もどうあればいいのか。騒ぎ立てるような
ことがあれば、それは容易なことではないと御上においてもご心配されていることである。
そこで大小惣代寄場役人が積年の悪い習慣を改め、平和であった300年来のご恩沢に
報いるべきはこの時なりと、粉骨砕身して御取締りの意味をよく立てるよう厚く理解し、勧農
教諭を尽くして泰山のごとく動揺しないようにすれば、万が一にどのような異変が起きようとも
いささかも心労を起こすことはない。
結局のところ、心配なのは貧民と悪党の二つである。
村々の有徳の者が国恩のために窮民手当の食糧を貯め、悪党が立ち廻ってきたとき
には捕り方の手筈を申し合わせておき、もしも不法に及んだときには
打ち殺すべし。
この二つを準備しておけば盤石に等しく、枕を高く安心して農家の憂いをなくすこと。
一、無宿無頼博徒の者たちが、この時勢に乗じて長脇差を差して歩き廻っているのは
もっての外のことである。例外なく差し押さえるべし。
且つ開戦になりそうになったときは、段々とのさばってきて庶民の難儀になるであろう
から、右のような異常事態を聞いたならば早々に村ごとに番小屋を備えて合図を決めて
おくこと。そして悪党共が立ち廻り次第半鐘や板木を打ち鳴らして、銘々が鳶口、竹槍、
棒その他刃物などを持って駆けつけ、搦め捕るべし。乱暴を働いたならば、打ち殺し
突き殺しても苦しからず。
もっとも殺してしまったならば、支配所や地頭(旗本領主)へ検使を願い出ること。
経費がかかるのを嫌がり、見逃してしまうようになっては御取締りにならないので、これ
より右の始末に及んだときには、早々に取締役が立ち寄っている村へ申し来るべし。
手配同様の支度をして簡単な手続きで取り計らい、取り手を遣わすので、村では一同
奮激して悪党を取り逃がすことのないように申し聞かしておくべし。
一、火付盗賊はもちろん、押し込み夜盗が侵入してきたときに、隣家が戸を閉めて自分
だけが難を逃れようとするのは甚だ不実なことである。日ごろから互いに申し合わせて
おき、右のような事を聞きつけ次第に鳴り物を立てて、用意していた道具を持って駆け
つけて取り押さえるべし。もしも手向かってきたときには、打ち殺しても苦しからず。
一、身元明らかな浪士たち、あるいは在方からの村役人の次三男、または剣道を嗜んで
いる者は、報国尽忠のために願い出たこの度の新徴組と唱えているお手当を下されて
いる者である。金品について罷り出るときには印鑑を所持しているので相改めるべし。
自ら不法に申し募っている場合はあるはずのない事である。浪人と言って紛らわしい者
はもちろん、たとえ新徴組の者でも不当を言って良民の害になる者は、これもまた差し
押さえて取締出役の廻村先へ申し出るべし。万が一手に余るようであれば、打ち殺しても
苦しからぬことである。
右の通り安原燾作様、杉本麟次郎様が御同席で厳重に仰せ渡された。なおまた、中山
誠一郎様からも御同様に御改革の御趣意を相立てるように組合村々へ申すことは、遺失
無きように丹誠を込めるべしとの厚き旨を仰せ渡された。
右は仰せ渡された御趣意書をもって申し聞かされ、一同承知仕りました。然る上は兼て
手筈を申し合わせておき、御取締りが相立つようにするべきことである。よって連印して
おくことは件の如きことである。
文久3亥年7月20日
江川太郎左衛門支配所
武州多摩郡奈良橋村 名主 藤九郎 印
同 支配所
同州同郡高木村 同 金左衛門 印
同 支配所
同州同郡後ヶ谷村 同 平重郎 印
同 支配所
同州同郡宅部村 名代組頭 繁次郎 印
同 支配所
同州同郡廻り田村 名主 九郎左衛門 印
中川行知行所
同州同郡同村 同 彦右衛門 印
浅井武次郎知行地
同州同郡清水村 同 藤右衛門 印
江川太郎左衛門支配所
同州同郡蔵敷村 同 小惣代 杢左衛門 印
大小惣代中 」 少し長くなりましたが、一気に書き出してみました。
江戸時代の後半期、商品経済は活発化して関東地方の農村部はどんどん変化していきます。
質屋や肥料、醸造業などを経営して富を蓄積する富農層が出現する一方、天明の大飢饉
などの影響から土地を失い没落する農民も出てきました。こうした没落者の中から無宿人や
渡世人などが出て、博奕や窃盗に走るなど治安が乱れる原因となっていきました。
そこで幕府は文化2年(1805)に関東地域の広域捜査官である関東取締出役を設置します
が、それで広い関東を十分にカバーできるはずもなく、文政10年(1827)に各村々が協力し
あって自衛する体制を整える寄場組合(改革組合)を設置させました。
上の史料を読むと、その辺りの状況を示していると同時に、さらに外国との戦争が始まるの
ではないかとの予想から、さらに各地域の治安が不安定になるかもしれないことを、取締出役
や勘定奉行所が憂慮していることが伺われます。
この背景には、まさにこの文久3年(1863)5月に起きた長州藩の外国船砲撃(下関事件)、
7月の薩英戦争があるのでしょう。
勘定奉行所や取締出役は、江戸近郊での暴徒化や一揆を恐れてのことでしょう。組合の村々
に「抵抗すれば打ち殺したり、突き殺しても構わない」という、かなり過激な命令を下しています。
しかし、そのためには農民たちにも戦闘訓練など何らかの準備が必要です。
現場を預かる代官や八州廻りからすれば、これらの状況が幕府へ農兵政策お取り上げへの
要求に繋がったであろうことは想像ができます。
ただし、この時点では農民に西洋銃を持たせて、軍隊式の訓練をさせるというほどの内容は
窺えないので、江川代官所以外はそこまでのビジョンを共有していたわけではなさそうです。

村雨の大吉(近藤洋介)ですね。

「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


にほんブログ村
にほんブログ村
人気ブログランキングへ
スポンサーサイト