2月17日に更新した「農兵取立ての流れを追う!」の記事において、文久3年の8月に
関東の各代官たちが農兵の取立を幕府に願い出たことをご紹介しました。
この代官たちの行動について、当ブログの読者でいらっしゃる「野火止用水さん」から
コメント欄にて「『里正日誌』文久3年7月の記事に村々に特異な空気が漂っていたこと
が伺えます」とのご指摘をいただきました。
ワタクシが見落としていた箇所ですが、確かに当時の関東地域の治安状態がわかる
記事ですので、今回ご紹介することにいたします。
野火止用水さん、どうもありがとうございました。
文久3年7月に、勘定奉行所の関東取締出役御用掛りの中山誠一郎、取締出役の
安原燾作、杉本麟次郎の3名が所沢村にやって来て、大小惣代寄場役人たちを呼び
出して演説をしたようです。
※安原の「燾」は「里正日誌・第八巻」には「寿」の下に「心」と書く。
「一、文政に寄場組合を起こした時から、大小惣代並びに道案内の者が増えたが、
特別に減らす分は一同が集まり話し合って人選を決めて、早々に申し出るべきこと。
のんびりとしてはならない。
一、最近特に、異国船が来航したことにより戦争が起こることも考え
られる。関八州に住む人の気持ちの整理もどうあればいいのか。騒ぎ立てるような
ことがあれば、それは容易なことではないと御上においてもご心配されていることである。
そこで大小惣代寄場役人が積年の悪い習慣を改め、平和であった300年来のご恩沢に
報いるべきはこの時なりと、粉骨砕身して御取締りの意味をよく立てるよう厚く理解し、勧農
教諭を尽くして泰山のごとく動揺しないようにすれば、万が一にどのような異変が起きようとも
いささかも心労を起こすことはない。
結局のところ、心配なのは貧民と悪党の二つである。
村々の有徳の者が国恩のために窮民手当の食糧を貯め、悪党が立ち廻ってきたとき
には捕り方の手筈を申し合わせておき、もしも不法に及んだときには
打ち殺すべし。
この二つを準備しておけば盤石に等しく、枕を高く安心して農家の憂いをなくすこと。
一、無宿無頼博徒の者たちが、この時勢に乗じて長脇差を差して歩き廻っているのは
もっての外のことである。例外なく差し押さえるべし。
且つ開戦になりそうになったときは、段々とのさばってきて庶民の難儀になるであろう
から、右のような異常事態を聞いたならば早々に村ごとに番小屋を備えて合図を決めて
おくこと。そして悪党共が立ち廻り次第半鐘や板木を打ち鳴らして、銘々が鳶口、竹槍、
棒その他刃物などを持って駆けつけ、搦め捕るべし。乱暴を働いたならば、打ち殺し
突き殺しても苦しからず。
もっとも殺してしまったならば、支配所や地頭(旗本領主)へ検使を願い出ること。
経費がかかるのを嫌がり、見逃してしまうようになっては御取締りにならないので、これ
より右の始末に及んだときには、早々に取締役が立ち寄っている村へ申し来るべし。
手配同様の支度をして簡単な手続きで取り計らい、取り手を遣わすので、村では一同
奮激して悪党を取り逃がすことのないように申し聞かしておくべし。
一、火付盗賊はもちろん、押し込み夜盗が侵入してきたときに、隣家が戸を閉めて自分
だけが難を逃れようとするのは甚だ不実なことである。日ごろから互いに申し合わせて
おき、右のような事を聞きつけ次第に鳴り物を立てて、用意していた道具を持って駆け
つけて取り押さえるべし。もしも手向かってきたときには、打ち殺しても苦しからず。
一、身元明らかな浪士たち、あるいは在方からの村役人の次三男、または剣道を嗜んで
いる者は、報国尽忠のために願い出たこの度の新徴組と唱えているお手当を下されて
いる者である。金品について罷り出るときには印鑑を所持しているので相改めるべし。
自ら不法に申し募っている場合はあるはずのない事である。浪人と言って紛らわしい者
はもちろん、たとえ新徴組の者でも不当を言って良民の害になる者は、これもまた差し
押さえて取締出役の廻村先へ申し出るべし。万が一手に余るようであれば、打ち殺しても
苦しからぬことである。
右の通り安原燾作様、杉本麟次郎様が御同席で厳重に仰せ渡された。なおまた、中山
誠一郎様からも御同様に御改革の御趣意を相立てるように組合村々へ申すことは、遺失
無きように丹誠を込めるべしとの厚き旨を仰せ渡された。
右は仰せ渡された御趣意書をもって申し聞かされ、一同承知仕りました。然る上は兼て
手筈を申し合わせておき、御取締りが相立つようにするべきことである。よって連印して
おくことは件の如きことである。
文久3亥年7月20日
江川太郎左衛門支配所
武州多摩郡奈良橋村 名主 藤九郎 印
同 支配所
同州同郡高木村 同 金左衛門 印
同 支配所
同州同郡後ヶ谷村 同 平重郎 印
同 支配所
同州同郡宅部村 名代組頭 繁次郎 印
同 支配所
同州同郡廻り田村 名主 九郎左衛門 印
中川行知行所
同州同郡同村 同 彦右衛門 印
浅井武次郎知行地
同州同郡清水村 同 藤右衛門 印
江川太郎左衛門支配所
同州同郡蔵敷村 同 小惣代 杢左衛門 印
大小惣代中 」 少し長くなりましたが、一気に書き出してみました。
江戸時代の後半期、商品経済は活発化して関東地方の農村部はどんどん変化していきます。
質屋や肥料、醸造業などを経営して富を蓄積する富農層が出現する一方、天明の大飢饉
などの影響から土地を失い没落する農民も出てきました。こうした没落者の中から無宿人や
渡世人などが出て、博奕や窃盗に走るなど治安が乱れる原因となっていきました。
そこで幕府は文化2年(1805)に関東地域の広域捜査官である関東取締出役を設置します
が、それで広い関東を十分にカバーできるはずもなく、文政10年(1827)に各村々が協力し
あって自衛する体制を整える寄場組合(改革組合)を設置させました。
上の史料を読むと、その辺りの状況を示していると同時に、さらに外国との戦争が始まるの
ではないかとの予想から、さらに各地域の治安が不安定になるかもしれないことを、取締出役
や勘定奉行所が憂慮していることが伺われます。
この背景には、まさにこの文久3年(1863)5月に起きた長州藩の外国船砲撃(下関事件)、
7月の薩英戦争があるのでしょう。
勘定奉行所や取締出役は、江戸近郊での暴徒化や一揆を恐れてのことでしょう。組合の村々
に「抵抗すれば打ち殺したり、突き殺しても構わない」という、かなり過激な命令を下しています。
しかし、そのためには農民たちにも戦闘訓練など何らかの準備が必要です。
現場を預かる代官や八州廻りからすれば、これらの状況が幕府へ農兵政策お取り上げへの
要求に繋がったであろうことは想像ができます。
ただし、この時点では農民に西洋銃を持たせて、軍隊式の訓練をさせるというほどの内容は
窺えないので、江川代官所以外はそこまでのビジョンを共有していたわけではなさそうです。

村雨の大吉(近藤洋介)ですね。

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まぁ、名前をどう名乗ろうかは本人の自由ですけどね。
芸名とか、ペンネームとか。
日本人がカタカナの名前を名乗ったって、全然いいわけです。
モンキー・パンチだって、本名は加藤一彦サンなんですから。
ただ、生まれがアメリカ人とのハーフだって言っちゃったのは、マズイですよね。
あのルックスですから、なんか本当っぽいもの。
他の芸能関係者みたいに10万50歳とか、コリン星の出身とか、天草四郎の
生まれ変わりとか、そこまで突っ切っていれば経歴詐称にはならなかったんで
しょうけどね。
本当っぽく見えるウソは罪が重い。
しかしアメリカの大学卒業とか、経営コンサルタント会社経営とか、そういう経歴が
詐称かどうかなんて、放送局も起用する前にちょっと調べればわかりそうなモン
だと思うんですけどね。ゲストで呼ぶ人ならともかく、メイン起用なんですから。
高学歴とかハーフとか会社経営して海外を渡り歩くとか、日本人ってそういう
のにコロッとヤラレちゃうんだなってのを、まざまざと見せつけてくれた感じもあり
ますね。
幕末には剣術道場の免許を収めた人がたくさん出てきますが、実力だけではなく
お金を出して免許を「買った」人も、けっこう多いようですね。
道場がお金のある人を優遇して、経営を安定させたかったという理由があるよう
ですが。
これは経歴詐称とは若干違うのでしょうけど、肩書きが好きな日本人の特徴も
出ているような気がします。

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文京学院大学生涯学習センターで恒例となっております
「江戸検1級合格者と巡る
江戸散歩」講座。

2月27日、3月5日、12日と、ワタクシが
「新選組と多摩」について講座を持たせて
いただきました。
27日と5日は大学校舎で講義。
12日は日野に行き、旧宿場町と新選組関連の史跡を歩いてきましたので、本日は
そのレポートです。
日野宿については、このブログでは何度も取り上げていますので、今回の講座で
どんな所を廻ったのか、サクッとご案内。

日野駅から一番近い新選組スポット、
宝泉寺。
井上源三郎の墓があります。
この日は真冬並みに寒かったので、みんなダウンコートを着込んでます。

天然理心流奉納額が納められている
八坂神社。
奉納額は見られませんけど・・・。
見事な彫刻が一面に彫り込まれている本殿も鞘堂の中。みんな、小さな窓から覗いて
ます。
どちらも、5月の新選組祭り、9月の祭礼のときには見ることができます。
受講生のみなさんにもお話したのですが、日野市内で新選組関連の史跡・資料館を
探すのはけっこう簡単なのです。
コチラのように・・・

このように、ヒジョーにわかりやすい幟り旗を立てて、観光客のみなさんをお待ちして
いるからです。
コチラは
佐藤彦五郎新選組資料館。
通常は第1・3日曜日が開館日ですが、団体予約を申し込んでありましたので、この日
に見学させていただきました。
彦五郎から数えて5代目に当たる館長の佐藤福子さんには、いつも色々と教えていた
だいております。ありがとうございます!
この日は館長がご不在だったため、ご主人の忠さんに館内の解説をしていただきました。
おもしろいんですよね、この方のお話がまた。
お聞きになりたい方は、ぜひ資料館へ!

佐藤彦五郎・のぶ夫妻の眠る
大昌寺。
大昌寺にしても宝泉寺にしても、墓域は広いですが前述の通り新選組関連の方のお墓
には幟り旗が風にはためいておりますので、スグにお分かりいただけます。
新選組に日本一優しい街、日野!
日野宿本陣。
正確には「東京都指定史跡 日野宿脇本陣」ですが、幕末には本陣になっておりますので
「これで、いいのだ!」(by バカボンのパパ)
こちらにはボランティアガイドの方がいらっしゃいますので、解説をお願いしました。
ワタクシが一言加えさせていただくなら、「幕末期に建て替えられたとき、その費用を幕府
が負担したこと」「土間から上がった部屋に多くの提灯掛けがあること」この二つの意味を
よく考えたい・・・ということですね。
本陣の前にある図書館(問屋場跡)横の脇道を入っていくとお寺があります。
普門寺です。
観音堂の垂木の配置が全国的にも珍しいそうですが、ワタクシがいつもご紹介するのは
コチラ。

鳥居がある土饅頭型のお墓です。
こちらは八坂神社の宮司を代々務めていらっしゃる土淵家のお墓。
普門寺は江戸時代、八坂神社(当時は牛頭天王社)の別当寺だったため、このような形の
お墓が今も継承されています。
神仏習合時代を残す、貴重な形だと思います。


幼少の頃の沖田総司が、その前で遊んでいたという
トンガラシ地蔵。
別名・ヤンメ(病目)地蔵とも言うそうです。
目を痛めたときに祈願するお地蔵さまですが、このような病気平癒を祈る地蔵尊はワタクシの
住む東大和市にもあります。
地蔵堂の中に平べったい石が吊るされています。これは多摩川の河原の石でしょう。
詳細を聞いたことはないのですが、おそらく最初に祈願するときに石を供えて、病気が治ると
トウガラシを改めてお供えしたのではないかと思います。
東大和の場合イボを治すというお地蔵さまですが、初めに泥団子を供え、平癒後には松かさ
を供えます。地蔵尊ではありませんが笠森稲荷などもこのパターンですね。
トンガラシ地蔵の前の道は八王子道(滝山道)です。
東大和のイボ地蔵も八王子道と思われる旧道沿いにありました。
近世以前に八王子道に沿って、このような民間信仰の形が伝わっていたのかもしれません。
多摩史を考える上で非常に貴重な史跡だと思います。
トンガラシ地蔵のすぐそばにあるのが
欣浄寺。
ですが、現在、本堂その他の建物いっさいを再建中で、墓地以外はただの建設現場に
なっています^^;
しかし、見るべき史跡はコチラです。

日野義貴の碑です。この方は幕末期の日野の教育者で、その死後に教え子たちがこの碑を
建てたということです。
石碑の台座には建立に関わった教え子の名前が刻んであるのですが、その中に井上源三郎
の名前があるのです。
「井上源三良」とあるのがお分かりでしょうか?
石碑の裏側の、木の枝が覆いかぶさっている所なので非常に見づらく、この日も見ることの
できない方がいらっしゃったようなので、コチラの写真でご確認くださいませ。
日野駅16:30ゴールで、およそ3時間半の「日野宿・江戸散歩」でした。
寒い一日でしたが、受講生のみなさん、ご参加いただきありがとうございました。
解散後、日野宿交流館へお土産を買いに行かれた方がいらっしゃいましたが、何か記念に
残るグッズは買えましたでしょうか?

以下はおまけ記事。
書き切れなかったコトを書いておきました。
日野巡りのお供にどうぞ・・・。
さて、今回の「日野宿・江戸散歩」では時間の関係上、廻りきれなかった場所がいくつか
ありました。
今後、ご家族、お友達、地下組織のお仲間たちなどと「もう一度、日野をゆっくり見て
歩きたい」と思われた方は、次の機会にこんな所も寄ってみてはいかがでしょう。

宝泉寺山門の前の道(旧甲州道中)を八王子方面に50mばかり進んでいくと、右側に見えて
くるのが
坂下地蔵です。と言うと写真に写っているのがそうかと思われるかもしれま
せんが、さにあらず。これはよくある六地蔵。
坂下地蔵は後の建物の中に安置されている、銅製の地蔵尊です。
そしてこの場所が、日野宿の西のはずれに当たります。

坂下地蔵の手前にあるのが
飯綱権現。
写真が小さくて分かり辛いかもしれませんが、本殿の土台に煉瓦が使われています。
この煉瓦の一部は、明治時代にこの地で作られた日野煉瓦です。

駅から図書館の方に歩いていくと、郵便局の手前にクラシックな建物があります。
渡邊家土蔵です。
味噌・醤油・酒・紙などを扱う「よろずや」でした。
通常は中を見ることはできませんが、新選組まつりの時には内部を公開しています。
太い梁など迫力があります。
普門寺墓地の前を通る八王子道を、100mほど北上してください。
そこにあるのが
精進場です。
富士講でやって来た人たちが、この場所で手足を洗い身を清めたと云います。
この場所からまっすぐ南に降りてくると、富士講の人々が集合地点とした旅籠の「玉屋」
(現日野宿交流館)がありました。
甲州街道に戻り、多摩川方面に歩いて行きます。
川崎街道入口を越えて少し行くと、道路の南側にクラシックな建物が・・・
旧日野銀行です。
後ろの家は、佐藤彦五郎の四男が養子に入った先の有山家です。
ということで、塀の隙間からチラっと本陣から切り離した「上段の間・御前の間」の建物も見え
ます。
日野銀行建物の中は入れませんので、悪しからず。
旧日野銀行を過ぎて、立日橋方面への交差点近くにあるのが、
福地蔵。別名、東の地蔵と言います。
ここが日野宿の東のはずれ。
つまり、西の坂下地蔵から東の福地蔵までが、日野宿ということになるのですね。
手前の大きい文字馬頭観音像は文化8年の建立です。
現在の甲州街道は日野橋方面に進み、橋の北詰で直角に曲がって新宿方面に向かいますが、
かつての甲州道中は立日橋方面に向かっていて、多摩川を渡って新宿方面に向かいました。
歩いてばかりもなんでしょうから、お食事処のご紹介も。

そば処
ちばい。
見た目が、まるっきりフツーの住宅なので初めて行くと、「ここでいいのか・・・?」と不安になり
ますが大丈夫です。「これで、いいのだ!」(by バカボンのパパ)
蕎麦はとても美味しいですが、ちょっと変わった店名は漢字で書くと「血梅」となります。
梅の木の種類だそうです。
枝を折ると中が赤くにじんでいるからだそうで、近藤勇がこの梅を愛したそうです。
空襲で焼かれて全滅したかに思われていた血梅ですが、奇跡的に残っていた木が見つ
かり、こちらの庭に移植されています。

カフェ
花豆日野銀行のある有山邸の真裏にあるお店。
こちらも住宅をそのまま利用してお店にしているので、アットホームな雰囲気で食事や
コーヒーがいただけます。ワタクシはランチの野菜カレーと、パイ包みシチューをいただ
いたことがありますが美味しかったです。
テラス席もあるので、これからの季節にいいかもですね。
両方のお店とも、御主人が日野の歴史などにお詳しい方なので、混んでいないときで
あれば、新選組関係の話をお聞きになってはいかがでしょうか。
あくまでもお仕事の邪魔にならない範囲で・・・。
どちらの店も、彦五郎資料館の前の道を日野駅側に進めば「ちばい」、多摩川方面に
進めば「花豆」があります。

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もう時期が過ぎてしまいましたが、「ひなまつり」の話です。
2月の下旬から今月の6日まで、いつもお世話になっている東大和市の
郷土博物館で「ひなまつり」の企画展がありましたので、
見てきました。
このひなまつり展は、郷土博物館でこの時期に毎年行われています。
市内の手芸サークルの方々が作った「つるし雛」と、市民から提供された昔の「雛飾り」が
飾られています。

なかなか華やかでございます。
アンティークの雛飾りには、けっこう珍しいものがありますのでご紹介。

こちらは
御殿飾りという雛飾り。
小さな雛人形が御殿の中に飾られています。
「いつかは立派な家に住めますように・・・」との願いを込めて、関東地方の一部では
大正から昭和3、40年代まで作られたそうです。
こちらの御殿飾りは昭和29年頃のもの。
とにかく、御殿の作りが立派です。
高さは50~60cmくらいなのですが、その中にきれいな彩色と細工が施されています。
収納するときには細かいパーツに分かれるそうで、長い間に紛失してしまうモノもあるん
だとか。まぁ、そうでしょうね。雛人形って子供のものだし。
また、組み立てるのも大変だそうで、知らない人が組み立てるのはまず無理だとか。

こちらは、やや人形が大きめ。
三人官女が御殿から出て、アクティブな演出が加えられています。

こちらは
大正時代の雛飾り。

顔の作りが現代のものと微妙に違いますね。
さて、これらの雛人形は毎年飾られるのですが、毎年市内から新たに提供された
「新作」の雛人形もお目見えします。
今年のニューフェースがコチラ。

丸っこいキャラクターにデフォルメされた雛人形。
大きさは台を入れないで50cmくらい。それほど大きなものではありません。
台が箱になっていて、仕舞うときはそちらに収納します。
こちらは
昭和20年の雛飾りだそうです。
ものの無い時代に、よくこれだけの雛人形があったものだと思います。
すぐに箱の中に収納できるのも、いざという時のためでしょうか?
それにしても、この人形たちを見てください。

みんな、丸々としてカワイイでしょ。
戦時中にも、こんな雛飾りが作られていたんですね。

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文久3年(1863)11月に幕府は農兵取立ての許可を出しました。
しかし、支配地の代官には以下のように付け足すことも忘れてはいませんでした。
「里正日誌」には
「別紙」として、次のような長い注意書きが添えられています。
「関東幕府領の取締りを決めて以来、関東を支配する者たちは残らずこのことを
申し合わせ、取締出役たちをそれぞれ両人づつ差し出し、これまで陣屋が無かった
場所には見立てて陣屋を建設し、在陣するようにすること。
もっとも馬喰町詰め、並びに地回り担当の者は江戸御用の仕事もあるので、手近の
場所に出張陣屋を建てて、折々罷り越しなさい。在陣のときでも御用の都合によって
は、出かけていくことは勝手次第である。
出役たちを指揮して取締りを第一に世話すべきこと。
ただし、陣屋を建設する場所については、各代官の支配所に便利だというだけに
拘らず、なるべく御府内の警備、且つ関東一円の取締りが可能な場所にやりくり
して建てること。
もっとも、1万石以下の領地は地元の者を差し向け、各最寄りの陣屋へ身分次第で
3、4人づつ地元の者が仰せ付けられる。万が一異変があったならば、互いに助け合う
よう仰せ渡されたはずなので、そのつもりで申し合わせの場所を決めたら早々に申し
聞かされること。そのほか、出役が増員されたときは前々の通り人選した上で達する
べきであるが、各々にて然るべき見込みのある者もあるであろうから遠慮なく申し聞か
されたい。
一、各々一同については関東取締の心得として、過分のことなく諸事申し合わせ、支配地
私領地をも面倒を見ることはもちろんのことであるが、最寄りの陣屋に応じておおよその
持場を決めておくこと。心がけることは持場に拘らず、相互に申し合わせて便宜をとる
よう取り計らい、出役たちには誰の手附手代に拘らず捕物・戦いに召し遣わし、出役たち
が廻村するときは各持場に拘らず御用第一にいたすべきこと。
一、取締出役たちへ自分たちより御用の筋を申すとき、又は出役より自分たちへ申立て
があるときは、直ちに申し立てたことはこれまでの通り心得るべし。、
一、百姓たちが武芸いたすことはご禁制であるが、この度より陣屋ごとに稽古場をつくり、
取締組合大小惣代そのほか村役人、または平百姓でも身元宜しい者、あるいはこれらの
倅などのうち、真面目な者で武芸を希望する者には農業に支障のない範囲で鎗・剣の
稽古を免じ、心底の見届けられぬ者や困窮身薄の者はこれまでの通り決して武芸をさせ
まじきこと。
一、稽古人のうち、天領百姓で身元宜しき者の厄介などで、陣屋に詰めていても農業の
妨げにならない者のうちより選んで、陣屋詰めの者を定め置き、平日日割りで詰めて、
そのほかの稽古人大小惣代村役人らは異変が起これば早速駆けつけること。かつ、銘々
が暮らす村に異変があったときも相互に助け合い、陣屋でも早速対応するよう、兼てから
鳴り物などで図るよう定めておくこと。もっともこのような時は、村中の壮年の者は残らず
出てくるように申し渡しておくこと。
ただし、陣屋へ普段から詰めている者たちは20人までは、わずかではあるが日数に応じ
てお手当をくだされるので、人数を取りまとめ次第申し聞かされたい。
一、御旗本や御家人の厄介などのうち、槍・剣が得意な者は両3人宛に各々へ附属仰せ
付けられ陣屋ごとへ差し遣わされる。これらの者は稽古の世話を致すが、他所の者を門人
にしたり、他所の者を留め置いたり、内々に供行きすることは厳しく制するようにいたす
べきこと。
一、鉄砲については、筒、玉薬など陣屋ごとに備え置き、農業の間を見計らって誰でも
稽古をすることは構わない。そのときには教授も差し遣わす。もっとも陣屋警備用として
準備されていない筒、玉薬を貯めておくのは、返って取締りに不都合だとも申しがたく、
このことは算段した上で追って申し聞かす。
一、隠し鉄砲については厳重に相改め、見逃すことのないようにいたされるべきこと。
右の通り、百姓たちが武術修行をいたす上は、万が一に限らず急用が生じることもある。
あるいは悪事を企てる輩がいれば耕作が放棄される土地もできてしまう。
各勤め方はいよいよ肝要になってくるので、年貢をはじめ村々に決められていることに
格別精を出すことを申し入れ付ける。
気が付いたことは遠慮なく申し聞かせよ。かつ取締出役たちはもちろんのこと、各々も
手軽に廻村し、このほど前書の通り仰せ出されたことも、つまるところ百姓たちの難儀
にならないようにとの意味があるのだということを申し諭す。
そのほか、村民の心得ることをも絶えず教え諭すように致されるべきことである。
文久3亥年11月 」長い文章にお付き合いくださり、ありがとうございます。
幕府が農兵取立を許可した際に、代官たちに改めて言い渡した書状と見受けられます。
前半では関東取締出役についての注意点が書かれており、地域防衛の柱は八州廻りで
あることが強調されています。
また、旗本や御家人の次三男で鎗や剣術が得意な者を教授方にしようとしていたり、調練
を武芸と表現したりしています。江川英龍が目指していた農兵は西洋式歩兵軍隊ですが、
幕閣はこの段階で武士団的なイメージを持っていたのかもしれません。
最後の2~3行の部分に、幕府にとって一番大事なことを約束させられています。
村民の心得ること=農業による年貢を納めること、これを教え諭すことが代官にとって重要
なことなのだ、というわけです。


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