農兵については、過去に当ブログでもご紹介しました。
ただ、そのときは農兵が設置された文久年間の「里正日誌」がまだ出版されて
おらず、東大和市史などを参考にブログ記事を書きました。
昨年、ようやく「里正日誌」の文久編が出版されましたので、重複する部分も
あるかと思いますが、再度農兵について触れてみたいと思います。
前回、安政6年(1859)に勘定奉行から江川英敏代官に「親父を見習って精進に
励めよ」という内容の申渡し書が出されていたことをご紹介しました。
この書状を、農兵でまとめている記事類の先頭に持ってきているのが注目されます。
農兵の準備を、すでにこの頃から打診されていた傍証と考えていいのではないかと
思えるからです。
蔵敷村がそうであったならば、田無村や日野宿など農兵に協力的だった地域でも
同様の動きがあったに違いありません。
次いで日誌には次の書状が記録されています。
「天領の村々で農兵をお取立することであるが、松平豊前守殿へ伺いましたところ、
土地人民たちが難渋せずご警衛の向きが行き届くよう、主法勘弁の上なお伺うべき
旨を仰せられた。銘々、支配所の土地情勢に応じた見込みを早々に取り調べ、申し
立てられるべきことである。
文久3亥8月14日 」幕府の直轄領において、農兵の設置を松平豊前守へ伺ったことが書かれています。
松平豊前守は老中です。
これに続いて書かれているのは、
「一紙をもって啓上いたします。
本日14日、松村忠四郎が御勘定所へ罷り出ましたところ、天領の村々で農兵をお取
立てすることにつき、別紙の通り奉行衆から仰せ渡されたことを、星野録三郎が申し
達しました。
先ごろから非常事態のときの支配地の防衛について、法律で取り決めた通りの計画
を申し上げるべきこととお達しがありました。
農兵をお取立てすることの可能性を仰せられたお方は、この度の可能性については
及ばないとのことです。これまた同人より申し達しました内容ですので、回覧として
写しました。お廻しいただきたく一紙早々順番に送って、最後の方よりご返却していた
だきたく存じます。以上。
福田所左衛門
亥8月14日
江川太郎左衛門様
伊奈半左衛門様
三宅鑑蔵様
山田源太郎様
木村宗左衛門様 」文久3年8月14日に、おそらく関東の代官たちが老中に農兵の設置のお伺いを出した
のでしょうね。支配地の民衆が困らないようによく調査せよ、と言われたようです。
しかし代官の一人、松村忠四郎が奉行所に出頭したところ、勘定奉行たちの総意として
「今までのルールでやりなさい」と星野録三郎から云われてしまった・・・ということで
しょうか。
星野は慶応2年の暮れに勘定奉行並に出世していますが、当時は勘定吟味役だったと
思われます。
松村さんから「こんな言われたッス」というのを、同じく代官の福田所左衛門が廻状にして
他の代官にも廻したようです。福田さんは松村さんと同席していたのかもしれません。
農兵といえばその立案者は江川英龍ですから、江川さんが奉行所に行けばよかったの
ではないかと思いますが、英龍の後を受けた英敏が前年に24歳の若さで亡くなっていて、
この時は英敏の弟・英武が10歳で代官です。とてもじゃないですが、奉行所で談判は
できないでしょう。
ところが、それからどういう急展開が幕閣の中であったのでしょうか。
次のような命令が下りました。
『「農兵取立ての下知 文久3亥10月6日、御殿海防掛吉田揚之助殿より達し」
申渡し
御代官 江川太郎左衛門
農兵取立てについては、まずその方の支配所に限って計画の通り銃隊をつくるように
いたすべきこと。
もっとも、差あたって苗字帯刀については許可しないというご沙汰である。
右は有馬遠江守殿へ伺った上、申し渡す。
右のことを仰せ渡されたので承知奉り恐れ入りました。早々に太郎左衛門に遣い
を出し申し上げます。以上。
亥10月6日 江川太郎左衛門手附元締め 上村井善平 印 』拒否られて2ヶ月後、江川代官の支配地に限って農兵設置の許可がおりました。
このお達しは江戸の代官屋敷に届き、そこから韮山の英武の元に伝わったようです。
幕府が英龍の農政政策になかなか承知しなかったのは、農民に武器を持たせるという
ことは
「兵農分離」の原則を壊し一揆を誘発するのではないか?という疑念が幕閣
の間に根強くあったからだと云われています。
沙汰にも、銃隊を作るのは許可するけど苗字帯刀は許さないよとある通り、武士と
農民をハッキリと分けておきたい幕閣の思いがわかります。
しかし、江川英龍は自分の領地韮山にしても(金谷農兵)、支配地の多摩地域にしても、
千人同心のように武士と農民の垣根がそもそも低い地域では、そういった心配は杞憂
であることを確信していたのでしょう。
では、なぜ幕府はこの時期になってようやく農兵設置に許可を出したのでしょう?
●安政5年(1858)日米修好通商条約により、外国人の行動範囲が多摩川を越えない
範囲までと決められた。
●文久元年(1861)玉造周辺や、東禅寺のイギリス人を殺傷した水戸浪士たちが立ち
寄ったら捕縛するよう、天領に命令が下る。
●文久3年(1863)将軍家茂の上洛に合わせて、八王子千人同心もその警護につく。
ざっと見ただけでも、江川代官支配地治安維持の武装化は急務であり、そのためには
農兵に頼らざるをえなくなったと、幕府も考えたのかもしれません。


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