新選組漫画 155

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沖田さんは9歳で天然理心流に入門し、10代で免許皆伝、20歳のときにはすでに
試衛館道場の塾頭だったというんですから、近藤先生が宗家五代目に考えていたと
いうのも頷けます。
ところが一方で近藤先生は、副長助勤谷三十郎の末弟・周平を養子に迎え入れてます。

谷家は元備中松山藩の家臣、藩主は老中の板倉勝静です。「近藤は谷を帰参させて
老中に取り入ろうとしたんですゼ」と、高台寺党の阿部十郎は言ってますが、それが
周平を養子にした理由なのかはわかりません。
周平は近藤周平昌武と名乗っていますが、近藤姓もさることながら諱の昌武は勇の諱
昌宜と、周斎の諱邦武から一字づつを取ったもの。勇が周平に近藤家を相続させる
つもりだったことがわかります。
ということは、近藤先生は天然理心流宗家相続と近藤家相続を分けて考えていたので
しょうか?

天然理心流二代目・近藤三助は、後継者を指名する前に突然死してしまいます。
三助門下生で最強と云われたのは、増田蔵六という人です。
蔵六は周斎よりも年長であり、本来であれば彼が三代目を継いだハズ。
しかし、蔵六は八王子千人同心の増田家に養子入りし家督を継いだという事情があり、
近藤姓を名乗ることができませんでした。
そのスキに、というのもナンですが弟弟子の島崎周助(周斎)がちゃっかり近藤姓を
名乗り三代目を継いだのだ、とも云われております。
少なくとも四代目までは、天然理心流宗家と近藤姓はセットで引き継がれてきたわけ
ですが、勇さんはそういうことを考えなかったのでしょうか・・・?

谷三十郎が死んだ後、周平も養子を解かれています。一説には周平の女遊びがひど
かったからだとも云われています。
一方、試衛館後継者を期待されていた天才・沖田総司も病死してしまうのは、みなさん
もご存知のとおり。
結局、勇の甥の勇五郎が、勇の娘タマと結婚し、近藤家と天然理心流宗家五代目を
相続することになりました。


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農兵の取立ての流れを追う!

農兵については、過去に当ブログでもご紹介しました。
ただ、そのときは農兵が設置された文久年間の「里正日誌」がまだ出版されて
おらず、東大和市史などを参考にブログ記事を書きました。
昨年、ようやく「里正日誌」の文久編が出版されましたので、重複する部分も
あるかと思いますが、再度農兵について触れてみたいと思います。

前回、安政6年(1859)に勘定奉行から江川英敏代官に「親父を見習って精進に
励めよ」という内容の申渡し書が出されていたことをご紹介しました。
この書状を、農兵でまとめている記事類の先頭に持ってきているのが注目されます。
農兵の準備を、すでにこの頃から打診されていた傍証と考えていいのではないかと
思えるからです。
蔵敷村がそうであったならば、田無村や日野宿など農兵に協力的だった地域でも
同様の動きがあったに違いありません。

次いで日誌には次の書状が記録されています。

「天領の村々で農兵をお取立することであるが、松平豊前守殿へ伺いましたところ、
土地人民たちが難渋せずご警衛の向きが行き届くよう、主法勘弁の上なお伺うべき
旨を仰せられた。銘々、支配所の土地情勢に応じた見込みを早々に取り調べ、申し
立てられるべきことである。
      文久3亥8月14日    」


幕府の直轄領において、農兵の設置を松平豊前守へ伺ったことが書かれています。
松平豊前守は老中です。
これに続いて書かれているのは、

「一紙をもって啓上いたします。
本日14日、松村忠四郎が御勘定所へ罷り出ましたところ、天領の村々で農兵をお取
立てすることにつき、別紙の通り奉行衆から仰せ渡されたことを、星野録三郎が申し
達しました。
先ごろから非常事態のときの支配地の防衛について、法律で取り決めた通りの計画
を申し上げるべきこととお達しがありました。
農兵をお取立てすることの可能性を仰せられたお方は、この度の可能性については
及ばないとのことです。これまた同人より申し達しました内容ですので、回覧として
写しました。お廻しいただきたく一紙早々順番に送って、最後の方よりご返却していた
だきたく存じます。以上。
                                 福田所左衛門

   亥8月14日
                江川太郎左衛門様
                伊奈半左衛門様
                三宅鑑蔵様
                山田源太郎様
                木村宗左衛門様      」


文久3年8月14日に、おそらく関東の代官たちが老中に農兵の設置のお伺いを出した
のでしょうね。支配地の民衆が困らないようによく調査せよ、と言われたようです。
しかし代官の一人、松村忠四郎が奉行所に出頭したところ、勘定奉行たちの総意として
「今までのルールでやりなさい」と星野録三郎から云われてしまった・・・ということで
しょうか。
星野は慶応2年の暮れに勘定奉行並に出世していますが、当時は勘定吟味役だったと
思われます。

松村さんから「こんな言われたッス」というのを、同じく代官の福田所左衛門が廻状にして
他の代官にも廻したようです。福田さんは松村さんと同席していたのかもしれません。

農兵といえばその立案者は江川英龍ですから、江川さんが奉行所に行けばよかったの
ではないかと思いますが、英龍の後を受けた英敏が前年に24歳の若さで亡くなっていて、
この時は英敏の弟・英武が10歳で代官です。とてもじゃないですが、奉行所で談判は
できないでしょう。

ところが、それからどういう急展開が幕閣の中であったのでしょうか。
次のような命令が下りました。

『「農兵取立ての下知 文久3亥10月6日、御殿海防掛吉田揚之助殿より達し」
   申渡し
                   御代官 江川太郎左衛門

農兵取立てについては、まずその方の支配所に限って計画の通り銃隊をつくるように
いたすべきこと。
もっとも、差あたって苗字帯刀については許可しないというご沙汰である。
右は有馬遠江守殿へ伺った上、申し渡す。

 右のことを仰せ渡されたので承知奉り恐れ入りました。早々に太郎左衛門に遣い
を出し申し上げます。以上。
    亥10月6日   江川太郎左衛門手附元締め 上村井善平 印  』


拒否られて2ヶ月後、江川代官の支配地に限って農兵設置の許可がおりました。
このお達しは江戸の代官屋敷に届き、そこから韮山の英武の元に伝わったようです。

幕府が英龍の農政政策になかなか承知しなかったのは、農民に武器を持たせるという
ことは「兵農分離」の原則を壊し一揆を誘発するのではないか?という疑念が幕閣
の間に根強くあったからだと云われています。
沙汰にも、銃隊を作るのは許可するけど苗字帯刀は許さないよとある通り、武士と
農民をハッキリと分けておきたい幕閣の思いがわかります。

しかし、江川英龍は自分の領地韮山にしても(金谷農兵)、支配地の多摩地域にしても、
千人同心のように武士と農民の垣根がそもそも低い地域では、そういった心配は杞憂
であることを確信していたのでしょう。

では、なぜ幕府はこの時期になってようやく農兵設置に許可を出したのでしょう?
●安政5年(1858)日米修好通商条約により、外国人の行動範囲が多摩川を越えない
 範囲までと決められた。
●文久元年(1861)玉造周辺や、東禅寺のイギリス人を殺傷した水戸浪士たちが立ち
 寄ったら捕縛するよう、天領に命令が下る。
●文久3年(1863)将軍家茂の上洛に合わせて、八王子千人同心もその警護につく。
ざっと見ただけでも、江川代官支配地治安維持の武装化は急務であり、そのためには
農兵に頼らざるをえなくなったと、幕府も考えたのかもしれません。

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新選組漫画 154

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新選組のファンが夢想するのが、「あの世」での隊士たちのこんなシーンでは
ないでしょうか?
「斬られた」だの「切腹させられた」だの、下界でのことは置いといて、杯を
酌み交わしながら、国の未来を激論していただきたいものです。

さて、今回なぜこんなネタの漫画を描いたのかといえば・・・。
先日、芝居をやっていた頃の仲間と同窓会をする機会がありましたので、
そんな気持ちになりました。
20年ぶりくらいに会う人もいたんですが、でまた、みんなそれなりに年を重ねて
いると思うのですが、会うなりに当時のままに戻ってしまうものですね。
昔のノリのまま、「アホか」つーくらいに盛り上がりました。

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このまま「明日、5時から稽古ね」つったら、みんな集まりそうな雰囲気です。


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江川太郎左衛門英龍の遺志

「里正日誌」の文久3年(1863)の箇所は少し編集の仕方が変わっていて、ほぼ
全編が農兵に関する記録になっています。
時期も文久3年だけではなく、元治・慶応と続き、最後は明治8年(1875)の「鉄砲
請印帳」まで記載されています。

農兵政策は「幕府末期における天領の防衛策」と考えがちですが、明治の世になって
幕府もなくなり、あさちゃんが「びっくりぽんなカッパを作らなアカンのだす!」と言って
いるご時世になっても、農民の自衛政策が事実上生きていたということですね。
農兵の制度自体は御一新で廃止になったハズですが、警察・軍隊がまだ整っていない
時代の現れではないでしょうか。西南戦争が終わるまで「江戸時代」は終わってはいない、
という考え方があるのもわかるような気がいたします。
(※カッパ・・・カンパニーのことですがな by 近藤正臣)

さて、「里正日誌」文久3年の巻頭は次の言葉で始まります。

「文久当役日誌第三

文久3年癸亥8月、御代官江川太郎左衛門殿より支配所から一般農兵をお取立になる
ことを仰せ出された。引き続き組合村々で、農兵の編成、修練、そのほか鉄砲の御貸し
渡しなどに関し、慶応元乙丑年12月までの諸筆記、もっとも同年丙寅からはその年の
日誌中に記しておく。この件について別集するのは、この編に依るものである。
農兵の発端は先々代の太郎左衛門英龍君が常に幕府へ致されてことである。
先代の英敏君においても深く苦慮なされ、当代の太郎左衛門英武君に至り、その筋より
御下知となった。
安政6未年2月12日をもって、御鉄砲方附きの教授方が常々出精勤め、一層研究して
いる・・・云々の申し渡し書を巻頭に揚げ序言に代える。」


農兵政策は英龍が幕府に何度も建白し、3代に渡って訴え続け、英武の代になってようやく
採用された経緯が書かれています。
では、その「安政6年の・・・云々」とはどのような申し渡し書でしょう?

「                            江川太郎左衛門へ

御鉄砲方附きの教授方を始め、常々出精勤め、砲術に関することを追々一層研究している
ことである。
なおこの上は互いに隔てなく意見を話し合い、年の若い者どもが格別に奮発勉強して、いずれ
も熟練の域に達するように、精一杯世話をされるべきである。

もとより、自分だけの功をひけらかし、方々の能力を競うことは毛頭ないはず。
つまるところ国家の御為に心力を尽くすことであり、追っては銘々新しい発明品もあるべき処、
あれこれと内輪の意味合いなどを生じるようでは、自然と以前と同じ工夫も進まぬようになって
しまう。先代太郎左衛門の報国精忠の遺志を厚く守り、幾重にも精勤いたすべきである。
そもそも誰も文武の心がけを厚く、気概を厳然として、淀むことがないのは全て先代の太郎
左衛門が国家のために教育を丁寧に行った故のことで、本当に感激に堪えないことである。
そのような中、近来はいろいろな方面からの引き合いが広くなるに従い、自然にあれこれと
気向の心配をしているが、なんとなくやさしく流してしまおうということを止めるものがなく、
万が一にも惰性となるような、遊びや怠けが生じるのはもっての外のことである。
くれぐれも先代太郎左衛門の丹精を込めたことを忘れずに、砲術のことは申すまでもなく
平素から文武を怠けることなく心がけるように率いられるべきことである。
そのうちに、御用を見計らって銃術やその他の訓練を検分いたすべきことである。

もっとも、特別他人へ打太刀を頼みこむのは無益のことなので、銘々相互に打太刀をいたす
ようにして、部屋住みや厄介などの者でも希望する者は前書を差し出すことは苦しからず。
このことを申し渡しておく。

    安政6未2月12日

右 土岐下野守殿より佐々木道太郎殿へ御直渡  」


この書状は安政6年(1859)2月に勘定奉行(土岐下野守)から江川英敏に対して渡された
申渡書です。
安政2年に英龍が亡くなっていますが、その先代の遺志を守り西洋式銃砲をはじめとする
近代戦術の習得に励むように書かれています。
幕府の中で江川英龍の功績がいかに評価されていたかが、わかります。

冒頭書きましたように、ほぼ全てが農兵に関わることで占められている「里正日誌」文久3年
の項目の最初にこの申渡書をもってきて、「序言に代える」と杢左衛門さんは言っています。
多摩・狭山の江川支配地域の農民たちにとって、農兵政策は文久になって降りてきた命令
ではなく、すでに英龍生存中から計画されていた政策とみてよいのではないでしょうか。
少なくとも、杢左衛門さんのような名主クラスの指導者層には、その心構えはできていたと
考えてもよさそうです。

メガ57


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