
豊臣秀吉に後北条氏が滅ぼされると、後北条氏の傘下にいた吉良氏は世田谷を離れ
ます。江戸時代に入ると、世田谷20ヶ村は井伊家の領地になります。
その井伊家の江戸における菩提寺が豪徳寺です。
冒頭にも書きましたが、ここは招き猫発祥の地。

こんなにたくさんの猫'S。奉納招き猫です。
これが全部ホンモノ猫さんだったら、ある意味天国。

みなさん、写真撮りまくり。
井伊家2代藩主の
井伊直孝がたまたまこの寺の前を通りかかると、住職の飼っていた
猫ちゃんが門の傍らに座って右手で「おいでおいで」と手招きしています。
「どちたの~、猫たん~」
直孝がその猫に近づき寺内に入ると、一天にわかにかき曇り激しい雷雨になりました。
そして門前の杉の木に落雷し、直孝主従は危うく難を逃れることができたと云います。
直孝はこの猫が観音さまの化身だと信じ、以来手厚く寺を保護することにしました。
・・・これが豪徳寺招き猫伝説です。
ちなみにそれまで「弘徳院」と言っていた寺の名は、直孝の法号「久昌院殿豪徳天英大居士」
から2字を取って「豪徳寺」になりました。
黄檗様式の仏殿、仏像などを寄進し、寺を再興させたのは直孝の長女・亀姫(掃雲院)です。
豪徳寺は江戸における井伊家の菩提寺。
江戸で亡くなった藩主や、正室、嫡子らのお墓があります。
井伊家当主で江戸で亡くなった、といえば有名なのがこちら。

13代藩主、
井伊直弼ですね。そのお墓。
大老として幕末の開国政策や将軍継嗣問題に取り組みましたが、安政の大獄を引き起こし
安政7年(1860)3月3日
桜田門外の変で暗殺されてしまいました。
ところが墓石に刻まれた命日は
「万延元年閏3月28日」になっています。
これは、井伊家と幕府が直弼の死亡をしばらく(55日後)隠す必要があったから。
その間に年号も安政から万延に変わってしまいました。(改元は3月18日)
このお墓を見るポイントはそこですね。
直弼のお墓の傍には・・・
桜田殉難八士之碑。
桜田門外の変で藩主を守って殉職した8人の家臣の墓。
一方、現場から生きて帰った藩士らは「藩主を守れず逃げ帰ったとは何事か!」ってことで
処罰されてしまいました。
藩主を守って死に、生きて帰っても死に、侍とは辛いものですね。
豪徳寺を離れ、次は
勝光院という曹洞宗のお寺に向かいました。
ここは吉良氏一族の墓所があるお寺です。
吉良氏は江戸時代に世田谷を離れますが、「蒔田(まいた)」と苗字を変え旗本として存続
します。
吉良氏墓所さて、吉良といえば、みなさん思い描くのは忠臣蔵の敵役・吉良上野介でしょう。
歴史の世界では混同を避けるため、忠臣蔵の吉良氏を「三河吉良」あるいは「東条吉良」
と呼び、世田谷を治めた吉良氏を「世田谷吉良」と呼びます。
この2家は親戚ではありませんが、先祖をたどると1人の人物に行きあたります。
それは鎌倉時代の武将で、源氏の血を引く足利義氏です。八幡太郎源義家から5代目に
当たります。
義氏には4人の息子がいました。
長男の泰氏が足利家を継ぎ、その5代目に誕生したのが室町幕府をつくった足利尊氏。
次男の長氏の系統が三河吉良。吉良上野介の家系です。
三男の有氏はその子国氏のときに今川を名乗ります。織田信長に桶狭間で敗れた今川
義元はここの直系です。
そして四男の義継から出たのが世田谷吉良になります。
こうして見ると、武家としては名門中の名門ですね。
家康は名家を保護したことでは有名ですが、「吉良」の苗字は原則一家と定めたため、
世田谷吉良氏は「蒔田」を名乗ることになるのですが、赤穂事件で三河吉良が改易と
なったため、後に「吉良」に戻しています。
次に向かったのは
世田谷代官屋敷です。
ガイド当日は実にいい天気だったのですが、ブログに張り付けた写真は以前雨の日に
行って撮った写真です。不明瞭でスミマセン・・・。
この代官屋敷の前の道路は、12月・1月に
ボロ市が開かれます。
すごい人出になるそうですね。
江戸時代、世田谷は井伊家の江戸での賄い領として幕府から与えられました。
この地を管理していたのが、代官の
大場氏です。
大場氏は、石橋山の戦いで源頼朝を破った大庭景親を先祖にするといい、室町時代は
世田谷吉良氏の側近でした。後北条氏が滅亡し、一時帰農していたようですが、井伊家が
世田谷を拝領するにあたり代官としてスカウトされたようです。以降、幕末まで世襲で代官
職を継ぎました。

表門は宝暦3年(1753)、屋敷は元文2年(1737)に建てられたものだそうです。
大名領の代官屋敷としては都内で唯一残る建物で、国の重要文化財に指定されて
います。
以前、
本田覚庵邸(

クリック!)をご紹介させていただきました。アチラが享保年間
の建築ですからやや古いわけですが、屋根はトタン屋根になっておりました。
ところがコチラの代官屋敷は表門、屋敷ともにきれいに茅(藁?)が葺かれています。
おそらく両方で金額にすれば1億円はかかっているのではないでしょうか!
拝観料も取っていませんし・・・世田谷区はやっぱ、お金があるなぁッ!

「お白洲」は畳2.5~3畳ほどのスペース。
場所は元の所から移動してるみたいですが、敷いてある石は当時のままだそうです。
白くて細かい石ではなく、河原にあるような灰色の丸っこい石でした。
代官屋敷を出て世田谷線の線路を渡り、豪徳寺に引き返すように歩いていくと、

世田谷城址公園にたどり着きます。
かつて、世田谷吉良氏の居城だった場所です。
堀や土塁の跡が残ります。
公園前の案内板にある地図を拡大してみましょう。

前半にご紹介した豪徳寺(その頃は弘徳院)も、世田谷城に含まれていたことがわかり
ます。おそらく最初は城内に建てられた庵のような寺だったのではないでしょうか。
また、世田谷八幡宮も出城の役割を担っていたようです。
今回のガイドツアーも、いよいよ最後の史跡ポイント。
13:00豪徳寺駅前をスタートしましたが、16:00を回ろうかとしています。暗くなる前に
先を急ぎましょう・・・!
国士館大学、世田谷区役所を通り過ぎて向かうのは
松陰神社。
幕末の長州藩の思想的リーダー、吉田松陰を祀る神社です。
安政の大獄で死罪となった松陰は、千住の小塚っ原に葬られますが、高杉晋作らの
手によって当時毛利家の抱え屋敷地だった若林に改葬されます。それがココ。
元々は何にもない田畑地だったようですが、長州の地所ということで埋められたのでしょう。
蛤御門の変の後、幕府にこの地は接収され松陰の墓も破壊されますが、維新後に木戸孝允
が再建しました。
世田谷の面白いトコロは、幕末の二極、幕閣の中心・井伊家と反幕府の中心・毛利家が
共に領地を持っていたことであり、そのため両藩の中心的人物であり、時代の波の中で
非業の死を遂げた井伊直弼・吉田松陰二人の墓が隣り合わせで存在しているということ
でしょう。

こちら、真ん中が
吉田松陰の墓。
右は安政の大獄で獄死した
小林良典、さらに右は同じく死罪になった
頼三樹三郎の墓です。


境内には
松下村塾のレプリカが建てられています。
ワタクシ、萩のホンモノも見ましたが、なにせ高校の修学旅行のときですから記憶が曖昧・・・。
こんなだったっけ?
当時ずいぶん小さいな、という感想を持ったような気がします。
貼ってあるポスターは当然「花燃ゆ」。
しかし、ワタクシがこの日参加された方々に「花燃ゆ、見てらっしゃいますかー?」と聞いた
ところ、挙手は0(ゼロ)。歴史歩きガイドの参加者の方々なのに・・・。
何だったんだ「花燃ゆ」、明日最終回・・・。
その後、東急世田谷線の松陰神社前駅まで移動してそこで解散となりました。
予定時間を30分ほどオーバーしてしまいましたが、無事終了。
日大商学部校友会のみなさん、お疲れさまでした。
幹事のS谷さん、T橋さん、お世話になりました。ありがとうございました。
また、今回はワタクシが世田谷に不案内なところ、豪徳寺出身でいろいろと教えてくれた
江戸検一級同期生のA山さんに、大いに感謝いたします。
年内の歴史ガイド、たぶんこれで終了でございます。

「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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