久しぶりに 「里正日誌」の記事のご紹介です。 文久3年(1863)6月28日、関東取締出役から次のような廻状が回ってきました。 「このほど悪党どもが新徴組と申して宿村などへ罷り越し、金も払わず酒食 したり、又は人足たちを差し出させる者がいる。 真偽が紛らわしいので、これより新徴組の者が遠出をするときには、御用の 筋で何国筋へ行くという印紙を持参して出かけることになった。御用以外での遠出は 旅籠代や人足代などは、宿村ごとに対面で支払うはずである。別紙の印鑑を捺した 書類を一枚づつ渡すので寄場の宿村にそれを置き、紛らわしい者が現れたら、怪しい 印鑑はもちろんのこと、違う印鑑を所持していた者は速やかに搦め取り、寄場を巡回 している当出役へ訴え出るようにしなさい。
仮に正しい印鑑を持っていても不法の所業をはたらく者がいれば、その場所に留め 置くようにして、頃合いを見て搦め取り、前同様訴え出ること。 もっとも、新徴組のうち、大舘鎌太郎、中沢良之助、西泰助の 三人は郷里へ立ち戻っていて、まだ印鑑等を持っていない。
右の通り命令を出したのでその意を得て、別紙の印鑑を捺した紙を一枚づつ受け取り 寄場へ差し置き、右の内容は組合村々へも早々に通達されるようにすること。 この廻状を寄場内へ廻し、請け印と刻付けをして最後の村より吉田僖平次、安原寿作、 馬場俊蔵、百瀬章蔵方へ返すように。以上。 亥6月26日 関東御取締出役 」さぁ、幕末のビッグ・ネームが出てきました! 新徴組です。 「新徴組ってナニ?新選組と名前が似てるけど、何か関係あるの?」 そんな幕末ビギナーの方に、簡単にご説明します。 文久3年3月に、幕府は江戸近郊の浪人たちを集めて、上洛する14代将軍家茂の護衛に 当たらせました。これが 浪士組です。 ところが京に着くと、浪士組設立を建言した出羽出身の 清河八郎がとんでもないコトを 言い出します。自分たちは帝の臣下なのだから、帝の望む攘夷の先駆けにならなくてはいけ ないのだ、と言うのです。 実は清河は急進攘夷派で、幕府の力を借りて自らの兵隊を集める腹積もりだったのです。 折りしも、生麦事件の賠償問題で、イギリスの軍艦が江戸湾に入港し威嚇をするという事態 が起きていました。 清河は浪士組に急遽江戸に引き返すことを命令します。 これに異を唱えたのが、浪士組に参加していた 近藤勇と 芹沢鴨の二人でした。 我々は将軍警護の目的で来たのだから、その目的を達する前に引き上げるのでは筋が違う というワケです。 近藤・芹沢と清河はガチバトルの寸前まで行きますが、結局浪士組を二つに分けることで 決着。近藤・芹沢は自らの仲間たちと浪士組を出て京都に留まることにしました。 これが後の 新選組です。 一方、清河に率いられた浪士組本隊は江戸に下ります。 途中甲州で参加者を増やしながら、3月28日には江戸に帰り着きました。 早速イギリスにヤキ入れっぞー!と意気込む清河でしたが、イギリスを刺激したくない幕府は 攘夷の許可を出しません。業を煮やした清河は外国人居留地へのテロを計画しますが、これ は幕府へ漏れることに。 これ以上勝手な真似はさせられん!と幕府は刺客を送り、清河は暗殺されてしまいます。 江戸帰還後わずか半月、4月13日のことでした。 リーダーを失った浪士組からは脱走者なども出ましたが、新たに加入する者もいたため、当時 江戸の市中を巡回パトロールする任務に就いていた 庄内藩に預けられることになりました。 このとき、幕府から新たに 新徴組という隊名を戴いたのです。 ということで、新選組と新徴組は兄弟のようなものかもしれません。 とは言うものの、隊名が似ているのは全くの偶然でしょう。 新選組がメジャーなのに対し、新徴組はあまり世間に馴染みがないため「パクリ?」と思って いる方がいるかもしれませんが、幕府が新徴組の名前を与えたのが文久3年4月15日。 新選組が会津からその名前を戴いたのが八月十八日の政変の後ですから、新徴組の 方が名乗ったのは早いのです。 さてさて。 このような経緯を経て結成された新徴組ですが、冒頭の史料を読むとあまりいいコトが 書いてありません。 新徴組を名乗って不法をはたらく者もいたようです。 太書きで書いた3名については、文久3年2月8日の「上京有志姓名録」に 〇道中目附 奥州中村 西恭介 二十二 〇弐番 上州上田中村 大舘鎌三郎 三十九 〇六番 上州穴原村 中沢良之助 二十七 とあるので、彼らのことでしょう。 「上京有志姓名録」は浪士組の参加者名簿ですから、この3名は最初からの組士という ことになります。 吉田僖平次以下は関東取締出役の人たち。 新徴組の評判とは、実際にどんなモノだったのでしょうか? 以下次回。   「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」   にほんブログ村 にほんブログ村 人気ブログランキングへ
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沖田さんがどれほど信心深かったかはわかりませんが、江戸時代の人々にとって 神社仏閣への参詣・参拝は今の人よりもっと身近なものだったのでしょうね。 先日、S学園中学校という都内の私立中学校のご依頼で、都内にある神田明神と 湯島天満宮(湯島天神)のガイド講座をしてまいりました。 このS学園さんは、毎年中学2年生に 「江戸文化歴史検定」の3級テストを受験させ ているそうでして、その本番試験前に対策講座をするのだそうです。 その講師を、江戸検1級合格者の中から選んで講座をするようなのですが、今年の 講師はワタクシに回ってきたというワケなのです。 江戸検では、毎年「今年のお題」として、決まったテーマの問題が多く出題されますが、 今年のお題は 「江戸の神社とお祭り」になっています。 ということで、江戸の代表的な神社の中の一つである神田明神と湯島天神のガイド ということになったのであります。 講座はワタクシだけではなく、江戸検協会のスタッフの方が進行を勤めてくれました。 「3級検定試験対策」ということですので、クイズを何問か出しながら進めましたので、 生徒さんにも楽しんでもらえたようです。 せっかくですので、その中から何問か出してみましょう。 みなさんも考えてみてください。 【1】 祭りの行列が江戸城に入り、将軍様もご覧になったということから、神田明神 のお祭りは、俗に何と呼ばれていたでしょう? い) 大江戸まつり ろ) 天下まつり は) 日本(にっぽん)まつり に) 時代まつり 【2】 神田明神のお祭りは、「付け祭」といって、山車とともに曳かれる動物や物語を題材 にした、巨大なオブジェが江戸庶民に大人気でした。当時、実際にあって絵にも残っている 巨大なオブジェにされた生きものとは、次のうちどれでしょう? い) カブトムシ ろ) ナマズ は) イカ に) スズメバチ 【3】  上の写真は湯島天満宮境内にある「奇縁氷人石」という石柱です。江戸時代、この 石柱はどのような目的で置かれていたでしょう? い) 夏の暑い日に、抱きついて身体を冷やすために置かれていた ろ) 日時計として時刻を知らせるために置かれていた は) 旅人にとって距離の目安になるように一定の距離ごとに置かれていた に) 迷子や行方のわからない人を捜すために置かれていた 答えは下をクリック
正解は・・・【1】 ろ 神田祭は幕府公式の祭礼であり、幕府の費用負担により御台所(将軍正妻)や大奥女中 がオーダーした仮装行列などが巡行した。江戸城内まで行列が入り、将軍の上覧を許され たのは、他に山王神社(現・日枝神社)の山王祭で、神田祭と隔年で祭礼が行われた。 しかし、根津権現祭礼も一時、天下祭りに加えられたことがある。 【2】 ろ  江戸時代の人々は、地震は地中にいる巨大ナマズが引き起こすものだと思っていた。 ナマズの頭の上にあるのは「要石」といって、ナマズの動きを押さえている石。 【3】 に 石柱の右側に「たつぬるかた」、左側に「をしふるかた」とある。迷子を捜す人はその 特徴を書いた紙を右側に貼り、情報を持っている人が左側に連絡先などを貼った。 嘉永3年(1850)のもの。東京では他に、日銀近くの一石橋のそばにこの氷人石と 同様の「満よひ子の志るべ」という石柱が残っている。 湯島天満宮は「富くじ」が行われるなど、人が多く集まる場所だったので、このような ものが置かれたと思われる。 なお、氷人とは「月下氷人」のこと。「月下老」と「氷人」という二つの中国の故事から できた言葉で、元々は仲人など二人の間を取り持つ人をいう。 どうでしょう? 中2用問題、できましたか? 【3】は3級レベルより、難しいかもしれません。 3級は江戸検のエントリー・クラスではありますが、中学生で合格するのはかなり難しい と思います。よほど日本史が好きで、大河ドラマは毎年見てるし、鬼平犯科帳は原作は、 もちろん、テレビドラマは中村吉右衛門だけでなく、松本幸四郎(八代目)、丹波哲郎、 萬屋錦之介の全てのシリーズを見ています!というような子なら別ですが・・・。 全ての生徒さんが歴史が好きというワケじゃないでしょうし、しかも当日は中間テストの 最終日だったそうで・・・。みんなテストを終えた後で羽根を延ばしたがっているタイミング。 こりゃ、ちゃんと聞いてくれるかな・・・と不安な中でガイド講座を始めましたが、けっこう みなさん興味をもって聞いていただき、予定通りの内容を話すことができました。 江戸検に合格するのは難しいかもしれませんが・・・。 しかし、学校や高校・大学の入試とは違い、趣味として日本史や日本文化を知りたいと 思ってる人なら、合格は近いと思います。 生徒の皆さん、がんばってね!  「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」   にほんブログ村 にほんブログ村 人気ブログランキングへ
すみません。 このところ忙しくて、「里正日誌」も全然読めてない状態です。 ブログを更新しないとスポンサー広告が入っちゃうので、場つなぎ的に恒例の企画を やっちゃいます。 7月期のドラマで、少なくとも1回でも鑑賞した連ドラは24本。その他クール跨ぎの ドラマを2本加えてのエントリーです。 では、作品賞の発表です! 10位 エイジハラスメント テレ朝 木 21:00 9位 ホテルコンシェルジュ TBS 火 22:00 8位 恋仲 フジ 月 21:00 7位 探偵の探偵 フジ 木 22:00 6位 デスノート 日テレ 日 22:30 5位 7人の刑事 テレ朝 水 21:00 4位 ちゃんぽん食べたか NHK 土 22:00 10位 設定はかなり極端でストーリーも単純ですが、もう少しカタルシスが感じられる ようだと良かったです。思い切ってコメディーにしちゃった方が面白かったかも。 9位 どこかで見たようなドラマ・・・と思いながら見てましたが、たぶん高島(弟)が主演 してた「HOTEL」ですね。「申し訳ございません・・・!」 8位 主演の3人は高校時代のシーンの方が似合ってる、と感じたのはワタクシだけで しょうか? 7位 かなり「MOZU」を意識した作りになってたような気がします。北川景子はこういう 役はピッタリですね。 6位 CGも良くできていたと思います。でも、漫画ではこれだけ極端なキャラが揃っている と面白いのだけれど、これが実写ドラマになるとキャラにしても、舞台設定にしてもとたんに 嘘っぽくなってしまうのが、この手のドラマ化の辛い所だと思います。 5位 オレデミー賞の特徴ですね。地味~な刑事ドラマが必ずランクインします。でもワタクシ 的にはヒガシ以下、同僚刑事の設定はもっと地味でもいいくらいです。たとえば、高島(兄) なんて体育会系キャラを作り過ぎ。熟練のバイプレイヤーと、ラストシーンにやりきれなさで 寝るのがイヤになるくらいの台本を用意してくれれば、それで満足です。 4位 クール跨ぎのドラマ。さだまさしは中高校生のとき、よく聞いてたのでしみじみと 見てしまいました。ワタクシはさだと吉田まさみって、長崎時代からの知り合いだと思って ました。昭和の時代感をよく表していたと思います。あの髪型とか。 3位 美女と男子 NHK 火 22:00 クール跨ぎですが、今どき全20話ってのは珍しいですね。ただ、それだけとても丁寧に作ら れたドラマだと思いました。NHKだからできるのでしょうけど、民放のドラマもこれだけの長丁場 で腹をくくってドラマ作りしてくれるといいのになぁ、と思います。 2位 37.5℃の涙 TBS 木 21:00 たぶん視聴率的には悪かったんじゃないでしょうか。地味ですしね。でも、病児保育という 業界を知ったのと、理不尽な浅野温子ママの笑顔がとても怖かったです。蓮佛ちゃんは 「七瀬ふたたび」の頃から、いいなーと思ってます。 1位 表参道高校合唱部! TBS 金 22:00 元々、こういう「がんばっていきまっしょい」みたいな「女子高生、部活ガンバル」ものは好き なのですが、このドラマは主演の芳根京子がドラマの世界観にこれ以上ないほどにピッタリ とハマって心地いい見応えでした。次にどういう一挙手一投足をしてくれるのかと、期待しな がら見ていました。ストーリーは正直言って「最終回はこりゃ何じゃ?」みたいな終わり方で したけど、主人公の魅力で強引に1位です。同じ合唱部員役の森川葵も注目株ですね。 では、続いて深夜枠。 3位 廃墟の休日 テレ東 金 25:52 2位 となりの関くんとるみちゃんの事象 TBS 火 25:11 1位 民王 テレ朝 金 23:15 3位 台本のあるセミ・ドキュメントって感じですかね。廃墟は海外よりも日本の方が、もの 悲しい「念」を感じますね。 2位 ドラマっていうよりコントみたいな作風ですが、トミタ栞の怪演ぶりと、真野恵里菜の カワイさが際立って良かったです。真野恵里菜は「みんなエスパーだよ」でパンチラを担当 するだけの人かと思ってたら、どうしてどうして。今後がとても期待できそうな女優さんです。 1位 深夜枠で扱うのがもったいない!今期、一番面白かったドラマかもしれません。親子 を演じた遠藤憲一と菅田将暉の突き抜け感が最高に面白かったです。この2人は「ちゃんぽん 食べたか」でも親子を演じてたので、なおさらおかしかったですね。バカ息子の心が入って しまってからのエンケンの濡れた子犬のような目の演技は、一生に一度は見るべき芝居です。 各個人賞。 主演男優賞 遠藤憲一「民王」 主演女優賞 芳根京子「表参道高校合唱部!」 助演男優賞 太賀「恋仲」 助演女優賞 浅野温子「37.5℃の涙」 夏菜「ホテルコンシェルジュ」 満島ひかり「ド根性ガエル」 日テレ 土 21:00 舞台美術賞候補 経世済民の男 NHK 土 21:00 撮影賞候補 デスノート衣裳賞候補 ホテルコンシェルジュ主題曲賞候補 家入レオ『君がくれた夏』 「恋仲」 コレサワ『シュシュ』 「廃墟の休日」 総評 今期は「コレ!」といった面白いドラマがなかったように思います。 「民王」も「表参道高校合唱部!」も、ストーリーの面白さではなく、主演した俳優の魅力による 所が全てでした。 「ナポレオンの村」みたいに、特番でほとんど「お休み」になっちゃって、いつ放送してたんだ? みたいなのもあったし。 その分、10月期は各局とも面白いドラマを見せてくれるのでしょうか?   「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」   にほんブログ村 にほんブログ村 人気ブログランキングへ
前回、喜多方市に行ったことを書きました。 こちらには新選組関連のエピソードはないものと思っていましたが、コメントで 「『島田魁日記』に、米沢・庄内に向かった土方さんと分かれて大鳥圭介の陸軍と 行動を共にした新選組が、小田付に滞陣した話が出てますよ」 との情報をいただきました。 コリャ迂闊でした! 早速本棚から「島田魁日記」を取り出して確認すると、まさにそのとーり! 会津での敗戦が濃厚となりつつあった明治元年(1868)8月の終わりから9月の はじめにかけて、入城できなくなった旧幕府陸軍2000人が小田付に滞陣していた ようです。 ワタクシも一応、地元のガイドの方に喜多方の幕末エピソードは何かないか聞いて みたのですが、 「瓜生岩子(敵味方の区別なく将兵を手当したり、児童福祉に貢献)くらいですね~」 と言われて、そのまま聞き流してしまいました。 島田魁の言葉を信じるなら、2000人の将兵が屯(たむろ)してたワケで、何かしらの エピソードがありそうなモンですが、もうちょっと蔵とかで聞いてみればよかったかな。 ところで、斎藤一はこの頃名前を変えて「山口二郎」と名乗っています。 旧幕府陸軍を指揮する立場となった土方に代わって、隊長に就任しています。 新選組って、リーダーを「局長」と読んだのは近藤勇、芹沢鴨、新見錦の3人だけ なんですよね。 で、当マンガでは島田魁さんを進撃の巨人のごとくデカく描いてますが、斎藤(山口) さんも身長180cmあったそうで・・・。当時の規格からすりゃ、コチラもかなりの巨人 ですよね。 そうそう。酒蔵を見学させていただきまして。 ワタクシは下戸なので飲めなかったのですが、同行者の話では「喜多方の酒は とても美味しい」だそうです。 ・・・で、最後に言い訳してもいいッスか? 前出の「島田魁日記」ですが、ワタクシは「新選組日記 永倉新八日記・島田魁日記 を読む」(木村幸比古 PHP新書)で持っております。 その文中に今回の小田付について、原文では 「夫ヨリ脱兵二千余塩川 小田付辺ニ宿陣ス、・・・・」 と書いてあるんですが、現代語訳は 「これより脱走兵二千余は、塩川 小田付近に宿陣した。」 と、「辺」を「近」に誤植してるんですよね。 ワタクシ、ほとんど訳文しか読んでなかったから、「おたづきあたりに」とは読まず、 「おだふきんに」と読んでいたので印象になかったのかもしれません。 えぇ、まァ言い訳なんですがね。 ちゃんと原文を読まなきゃダメだな、と思った二十歳の夜・・・。 でも、この「辺」と「近」の間違い2ヶ所もあるんですよね・・・。 まさか、木村さん「小田付」って地名を知らなかったのかな?  「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」   にほんブログ村 にほんブログ村 人気ブログランキングへ
 ワタクシが住んでおります 東京都東大和市と、 福島県喜多方市は友好都市の 関係を結んでおります。 元々は福島県の 山都町と姉妹都市の関係だったのですが(たぶん、読み方が 同じだから)、市町村合併で山都町が喜多方市に組み込まれたもんで、現在は 喜多方市と友好都市の間柄になっているというワケです。 毎年、お互いの市の観光事業代表が相手先を訪問して、意見交換と親睦を深める という事業をやっております。 東大和市には観光組合のような組織がないのですが、最近になり 「観光ガイドの会」という団体が市の要綱に沿って立ち上げられました。 先日、その観光ガイドの会の代表7名と東大和市職員3名が、喜多方市を訪問 いたしました。 実は、その観光ガイド代表団の中にワタクシが入っておりましたので、今回はその ときのことを記事にしたいと思います。 まぁ、ワタクシなど東大和市10名の、ほんの末席なのですがね(汗;)  朝7時30分に東大和市を出発。 市が用意してくれたバスで福島に向かいます。 ちゃんと税金を納めていますので、何のうしろめたさもなく快適です。 車窓から見える磐梯山。  喜多方市役所。 新しい建物です。上から見ると半円形をしている前衛的な造形です。 「壁がカーブしてるのにまだ慣れないんでスよね・・・」喜多方市役所職員・談  市役所の大会議室にて、両市の意見交換会。 この中に喜多方市の山口信也市長(ひまわりを熱く語る男)もいらっしゃいます。 どこでせう? 約2時間の白熱した意見交換。 喜多方市では観光の知識だけではなく「おもてなしのこころ」で観光客に接する 「観光コンシェルジュ」を育てているそうです。 本日参加された「蔵のまちガイド」のみなさんも観光コンシェルジュ。 認定試験に合格しないと取れないんですって。 その後、我々一行は喜多方市が用意してくれた宿に行き、休憩。 宿泊先は「熱塩温泉 山形屋」さん。 福島県なのに山形屋さんです。 18時から夕食を兼ねた親睦会・・・という名の飲み会。 しかし、この席でも喜多方市ガイドの方から、貴重な話を聞くことができました。 翌日は朝9時から、喜多方市の観光ポイントを視察させていただきました。 喜多方といえば「蔵のまち」。 ということで、「蔵のまちガイド」の方に観光コースである 「ふれあい通り」と 「おたづき蔵通り」をメインに案内してもらいます。  この建物は 「若喜商店のレンガ蔵」。 雪の多い喜多方ではレンガに釉薬を塗ってさらに焼き、水の浸透しないレンガを 使っているのだそうです。明治37年(1904)築。日露戦争の年ですね。 1階の中は座敷になっていますが、縞柿(しまがき)という大変貴重な木材が 使われています。 現在もだし醤油の店舗として活躍中。 いよいよふれあい通りへ。  かつてはアーケード街だったそうですが、観光に力を入れるに当たって見通しが いいようにと屋根を取っ払ってしまったそうです。 それと、車道と歩道に段差がないのがわかりますでしょうか。 公道を使ってのイベントをしやすいように、だそうです。電柱も無くして電線は地下に 埋めたとか。お金もかかったでしょうが、観光地化への意気込みが感じられますな。 では、その蔵のまちから、いくつかご紹介。 「甲斐本家蔵座敷」大正時代の建造です。 明治以降、一般の商店や家でも土蔵を作ることが許可されたので、多くの蔵が 建てられたのだそうです。  土蔵部分は黒漆喰。 現在も生活住居として使われております。  さて、一方こちらは、通りに面した1階は青果店。 店内をおじゃまして、奥にずーっと入っていくと・・・  そこは 「三十八間蔵」。 こうなるともう長屋ですね。 こんなに長い蔵にナニをしまっておいたんだかって思います。 こんな珍しい蔵もありました。  こちらは 冠木薬局という、江戸時代から続く薬屋の中庭にある蔵なのですが、何の 蔵だかわかりますか? 正解は・・・ 厠蔵です。 明治後期に作られた土蔵だそうですが、今でも残してあるのが素晴らしい! まぁ、今は実際に使っちゃいないでしょうがね。 喜多方の町中はこのように土蔵やレンガ蔵が多いのですが、一時は開発のために これらを取り壊す話があったそうです。 ところが市内に住む一人の写真家が 「それはもったいない。この町の土蔵の風景はイケてるんだよ」 と言い出したのをきっかけに、土蔵を観光に利用しようとなったそうです。 町中の土蔵は、個人の庭にあったり、商店などに使われたりしています。 それを観光客がひと声かければ、たいていは無料で見学させていただけるのです。 地域の人々がスクラムを組んでやっていかないと、なかなかできないコトですね。  こちらは、おたづき蔵通りにある 「小原酒造」。 喜多方つったら、やはり酒屋ですからね。 享保2年(1717)創業。大岡越前が町奉行になった頃ですよ、スゴイ! 酒蔵も案内してくれます。  こちらでは仕込みのときに「もろみ」にモーツァルトの曲を聞かせるのだそうで、 この日も梁の上に設置されたBOSEのスピーカーから、クラシックの名曲が 流れておりました。 なんかね、ジャズとかポップスとか、いろいろ試して聞かせたんだけど、モー ツァルトを聞かせたときが、いちばん酵母の醸造具合が良かったんだそうです。 スゲーな、モーツァルト!オーストリアなのに日本酒の気持ちがわかるとは! てことは、ウラを返して清元延寿太夫とかワインに聞かせたら、案外イイ出来に なったりして。  酒屋といえば、このスギ玉。 通常は古いのは処分しちゃうらしいんだけど、コチラでは御主人の趣味で軒下に 残してあるんだとか。なんかイイ感じだよね。 これがスズメバチの巣だったら、とんでもないけどね。 これらをガイドの方に案内していただいて、ざっと3時間弱のコースでした。 喜多方市では「蔵のまちガイド」が2時間2000円(ガイド1名)で、町中をガイドして くれます。 お昼は喜多方ラーメンを食べましたけど、食べるのに夢中で写真撮るの忘れました。 それがいちばん見たかったって? スンマセン  てことで、1泊2日の交流都市訪問を無事終えました。 喜多方市にはホントに良くしていただきました。ありがとうございました。 でも、やっぱ東北。寒かったです。 この日、東京は気温が28℃あったそうですが(それもまた暑いけど)、喜多方は日中 17℃でした。まぁ、曇り空ってのもあったんでしょうけどね。 夜は気温もひとケタでしたから、ジャージを持っていって正解でした。 11月には、喜多方市からの御一行様を、東大和市側がお迎えいたします。  喜多方市には佐川官兵衛夫妻の墓がある長福寺があるそうです。  「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」   にほんブログ村 にほんブログ村 人気ブログランキングへ
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