ワタクシの持病の頭痛については、多くの方からお見舞いのお言葉をいただき
ました。この場をお借りしましてお礼を述べさせていただきます。
ありがとうございます。
おかげさまで、この2日ほど頭痛の発作がありません。
群発期がピークを過ぎると、毎日起きていた発作が2日に1度とか3日に1度
とかの間隔になってくるので、これは群発期の出口に向かっている兆候だと
思います。
んー、なんとか乗り切りたい!
てことで、久しぶりに
「里正日誌」を手にとり、面白そうな部分を探してみることに
いたします。
文久2年(1864)5月に、下里村(東久留米市)の小前百姓45人が村役人に
不正があるとして訴え出た事件があったようです。
一つの村の中で、おだやかではありませんね。
他村の出来事ではありますが、杢左衛門さんがこの一件の仲裁に入ったよう
なんですね。いたる所に顔を出します、杢左衛門さん。
では、百姓たちの訴えとはどのようなことだったのでしょう。
「 恐れながら書付けをもって申し上げ奉ります
武州多摩郡下里村小前45人の惣代である百姓代伊左衛門と、ほか2人より
同村役人たちへ相掛かり、お年貢のことその他難渋に思うことそれぞれを、
訴え」あげました一件、御吟味の最中扱人を立てることを双方掛け合い
の上で、話し合いましたことを、左に申し上げ奉ります。
一、年寄の四郎左衛門が勤めて取り扱っている10年来の年貢取立て、並びに
村用諸帳面、その他地方に関係する帳面類を取り調べ中、扱人にこれを預け
訴訟方が立合いの上、御年貢金の過不足があるならば、過分であれば割戻し、
不足であれば差し出し申すべきはずのこと。
一、貯穀について取り調べた上で、減石であれば詰め戻します。もっともこれまで
四郎左衛門の土地内に置いていた穀櫃を、これより差し迫ることのない場所を
見立てて、場所を引き直すべく願い奉ります。
一、大沼田新田の傳兵衛の水車残水堀のことですが、今後争論がないように
埋め立てます。その堀に掛け渡した敷石を、元の場所へ敷き直すように申した
はずのこと。
一、日光東照宮の御門主様が上野寛永寺へ御帰府されるとき、岩渕・川口の
両宿場へ勤めます御伝馬を買い上げたお金、並びに和宮様御下向のときの
中山道浦和宿へ勤めました加助郷入用のこと、諸帳面を取り調べた上、明白に
差引勘定を立てるべきはずのこと。
一、組頭の吉左衛門・同半左衛門が取り扱っている御年貢金取立帳10年分、
その他地方に関係した帳面について、扱人が立ち入って取り調べることに差
支えなく差し出すよう申したはず。かつ名主の安左衛門が所持している帳面に
ついても、右入用のときと同様に差支えないように差し出すように申したはずの
こと。
一、御年貢勘定のことはもちろん、臨時村入用勘定のこととも、百姓代並びに
重立った百姓が立ち会って勘定いたすべきはずのこと。
一、年寄りの四郎左衛門は追々年をとり役儀を勤めかねるようになってきたので、
諸々の勘定が済んで一件落着した上で、同人の退役を願い、名主の安左衛門に
兼任してもらい、追って村が治まったのを見計らった上で、四郎左衛門の跡を同
人の倅演三郎に役入りさせるべきはずのこと。」と、以上の点になります。
年貢納入、貯穀場所、水車残水堀の埋め立て、加助郷、村入用の帳面など記録
一切、年寄の世代交代・・・と小前の訴えは多岐に渡っています。
直接的表現ではありませんが、これらのことに不正があったという主張です。
下里村も江川代官所支配地なので、小前たちは以上の案件を江川代官所に訴え
ます。しかし大事にしたくないという考えもあったのでしょう。代官が裁断を下す前
に立会人を立てて、小前と村役人との間で話し合いを持つようにしたようです。
扱人がそれであり、蔵敷村の杢左衛門さんと上新井村(所沢市)名主の市右衛門
さんが任されたようです。
この2人は小前たちが頼んだものか、村役人らか、あるいは代官所が選んだのかは
史料からはわかりません。
しかし、下里村は蔵敷村や上新井村とは別の組合に入っている村なので、2人は
中立性があり、なおかつこの手の揉め事の解決に向いている実力者と判断されたの
でしょう。
「里正日誌」では、この後に次のように書かれています。
「前書の通り対談議定が行き届きました。そこでひとまず帰村して、扱人が立ち会って
書面を細かく取り調べた上で、訴えをお願い下げしていただきたく存じ奉ります。
何とぞお慈悲をもって右の取り調べのことを、来月20日までに一同立ち戻り帰村を
仰せ付けられたく、連印をもってこのことを願い上げ奉ります。以上。
文久2戌年5月13日 武州多摩郡下里村
小前45人惣代
訴訟方 百姓 磯右衛門
同 百姓代 庄兵衛
同 同 伊左衛門
相手 組頭 半左衛門
同 同 吉左衛門
同 年寄 四郎左衛門
同 名主 安左衛門
同州同郡蔵敷村
扱人 名主 杢左衛門
同州入間郡上新井村
同 同 市右衛門
江川太郎左衛門様 御役所 」訴訟が長引けば農作業にも影響がでるために、早々に解決させて村人たちを帰村させ
たいという思いが、杢左衛門さんらには強かったのだと思います。
それは代官所とて同じだったことでしょう。
日本史の授業で、江戸時代の農村の村方三役として「名主・組頭・百姓代」を覚えさせら
れますが、こうした一例を見ると役人たちのそれぞれの役割というのがわかりますね。
名主・組頭・年寄といった人たちは村の実力者であり、年貢納入、貯穀、土木作業、書類
作成など村の運営の全てを仕切っていることがわかります。
一方、百姓代は小前たちの代表者であり、名主たちに不正がないか監査する役目だった
ことがこれまたよくわかります。
言ってみれば、下里村の村役人システムは正常に機能しているということになりますね。
こういう例を挙げて説明してくれると、歴史の授業もわかりやすいと思うんだけどな。
さて、扱人となった杢左衛門さん。
下里村の村役人らに不正があったと裁定するのでしょうか?


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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