新選組漫画 143

20150827.jpg


ホントは8月18日前後にアップしなければならなかった漫画です。
でホラ、だいたいその近くにコミケがあるじゃないですか。それにも引っかけて。
まぁ、コスプレ=メイド服ってのがすでにオッサンの発想なんですが、山南さんって
カチューシャが似合うんじゃないかと思いまして・・・。鉢金の代りに。

前回も書いたのですが、8月に入ってワタクシの体調が悪くてですね。
クーラーの効き過ぎからくる不良はすぐに治ったのですが、問題は頭痛でして。
持病である群発頭痛の群発期に入ってしまいまして、現在そのド真ん中であります。
毎日夜中に、目の奥をキリでえぐられるような激痛が襲ってきまして、明け方まで
一睡もできません。
夜眠れないので、昼間も眠くてしょうがないのです。ときどき昼間も痛くなるし。
頭痛期間はPCの画面とかも眩しくて、なかなかブログも書いたり読んだりできない
状態です。
ワタクシ、会社勤めだったらやっていけなかったでしょうね。

こんな頭痛と高校3年生の頃から付き合ってます。
もう、別れたいのに。

群発期間はワタクシのバヤイ、およそ1ヶ月から1ヶ月半。
9月の中頃まで苦行が続きます。

実はこのページも4日くらいかけて、ちょっとづつ書いてます。痛くないときに。
こんな自分の事情なんて書かなくてもいいんですが、同じように群発頭痛で悩まれて
いる方がいらっしゃれば、「ここにも一人いるよー」というメッセージ代りになればいい
と思って。

さて。
文久3年(1863)、八月十八日の政変で、長州藩と尊王攘夷派の七卿は御所を追われ
ます。新選組も大きな活躍としては、この時がデビュー戦でしょう。
会津藩から近藤さんや芹沢さんらに甲冑が届いているのに、自分の分が無いと山南さん
が文句を言ったという、ファンにはおなじみのエピソード。
山南さんのプライドの高さを物語る話で、「会津もそれくらいわかってやれよ」と言いたくも
なるんですが、一説には山南さんは先鋒を任され先に出陣してしまったので、甲冑が届いた
ときにはその場にいなかったとも言います。
となると、とんだ早とちり・・・。

やっぱ、カチューシャつけとけって?


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Windows10に更新してみました

ちょっとこのところ体調を崩していまして、ブログの更新も遅れております。
スミマセン。
毎日暑い日が続きますが、例年ワタクシはどんなに寝苦しい夜でも、夜中は
エアコンを消して窓を網戸にして寝ていました。基本的に冷房に弱い体質
なんです。
ところが今年の夏はそれで夜中に熱中症になりかけまして、仕方がないので
就寝時もエアコンをかけて寝るようにいたしました。
それで寝られるようにはなったのですが、どうも日中ダルくていけません。
なんか頭も痛いです。
ワタクシ、群発頭痛の持ち主で、ちょうどその頭痛発生期も来てしまいました。

そんな中、7月に予約していたWindows10の更新許可案内が届きました。
ちょうど午前中仕事がない日があったので、やれる時にやっておくかと思いまして
更新してみました。
ブログ読者の中にはすでに更新をされた方もいらっしゃるでしょうし、珍しくもない
でしょうが、今回は番外編として「Windows10更新記」をお送りしたいと思います。

そういや、去年の今頃も「iPhone水没復旧記」を書きましたっけね。
こういうのが夏の恒例行事になるのかしら?

更新を始めたのは午前10時ジャスト。
午後に仕事で出る用事がありましたが、まぁ、それまでには終わるでしょう。

IMG_1026a.jpg

更新にかかった時間は、ファイルのコピーに23分、機能とドライバーのインストールに
20分、設定の構成に15分。
おおよそ1時間です。

IMG_1027a.jpg

で、さらにアプリの設定に15分ほどかかりました。

IMG_1028a.jpg

特に操作しなければならないことはなくて、ただ待ってるだけで更新完了。
で、こちらがWindows10のトップ画面です。

IMG_1029a.jpg

左下にスタートボタンがついています。これを左クリックするとスタート画面が出てきます。
8のときはマウスポインターを右端に持って行くと、設定だの電源だのボタンが出てきま
したが、10ではスタート画面の中に入っています。
7を使っていた人には使いやすいですね。
ところが「おや?」と思いました。
コントロールパネルのボタンがどこを見渡してもありません。

実は10に更新したあと、スキャナーとの接続が上手くいっているか試してみたのですが、
スキャナーがPCを認識してくれないんです。
ワタクシの使っているスキャナーはエプソンの「EP-803A」という複合機ですが、もしか
したら10には対応してないのかもしれない・・・。そう思いながら設定しなおせばいいの
かも、と思ってコントロールパネルを探したんだけど、どこにもないんです。

しかし、コレはyahoo!で検索して一発で解決。
スタートボタンを右クリックで出てきました。
でまた、そーこーしているうちに複合機の方もPCを認識してくれてました。
30分くらい時間がかかるんですね。

ということで、大きなトラブルもなくWindows10は今のところ機能してくれています。
ちなみにワタクシのPCはDELLの「inspiron 15z」、2013年の2月から使ってます。
今回ワタクシはたまたま時間が空いていたので、すぐにインストールしてしまいま
したが、本当のことをいえばWindows10が十分に普及するであろう半年ほど待って
からの方が良かったかもしれないですね。
実際、10にしてから少々PCの立ち上がりが遅くなったし、マウス(Bluetooth)の
動きがたまにシブくなります。

まだ十分に10の使いかたを熟知しているワケではありませんが、面白い機能を
一つご紹介。

IMG_1036a.jpg

アプリを開くと右上に「四角いなかにペン」というアイコンがあります。
マウスのカーソルを合わせると「Webノートの作成」と出てきます。
これを左クリックすると、今見ている頁が固定されて・・・

IMG_1040a.jpg

上の写真のように、PCの画面上にマウスで絵や文字を書き入れることができます。
プレゼンとかするときに便利かも。
終了ボタンをクリックすれば画面に書き込んだものは消えますが、その前に書き込み
の入った画面をOneNoteなどに保存することもできます。

ということで、とりあえず今のところ大きなトラブルなくWindows10は働いてくれてます。
というか、自分が頭痛だったりでPCをあまり開けてないんですけど。
明日(22日 土曜日)大学時代の友達らと一泊で千葉の富津に行きます。
そこで彼らのバカパワーを吸収して、週明けから完全復帰を目指したいと思います。

メガ46

ところで、現在ワタクシの管理ページからコメントが書けない状態になっています。
何を書いても「不正投稿」としてハジかれてしまいます。
コメントをいただいた方には、返事をお返しできず真にすみません。
いただいたコメントはちゃんと拝読しております。
これってWindows10の弊害でしょうか?

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和三郎始末 幕末目明し事情

取締出役・廣瀬鐘平が、上総国市原で桜田門外の変の逃走犯人と間違えて
加藤藤次郎という侍を捕縛しますが、これが誤認逮捕でした。
当然のことながら、廣瀬は罰を受けますが、事件現場から遠く離れた所沢に住む
道案内(目明し)の和三郎という男まで連座して処罰を受けてしまいました。

和三郎は「手鎖」の刑を言い渡されます。
逮捕に直接関わったとも思えない彼が、なぜ処罰の対象となったのか詳しくは
わかりませんが、和三郎の住む所沢を中心とする組合村では名主らが嘆願書を
提出して、罪を許してくれるよう訴えます。

そして判決から約2年後の文久3年4月、次のようなお達しが出されました。

「亥(文久3年)4月御書付けの写し
                      所澤村 和三郎

右の者、道案内を再び勤めることを申し付けるまで、身分を慎み、入念に勤める
べきことを申し付けられるべきことである。
この書付けは追って返却すべきこと。以上。
       亥4月4日   関東御取締御出役 太田源助 保土ヶ谷詰めにて無印
                              吉田僖平次 印

            所澤村組合  大小惣代
                     寄場役人 中

追って和三郎へ心得方を申し渡すこともあり、5~6日中に召し連れて僖平次宅へ
罷り出るべきことである。以上。  」


時間はかかりましたが、和三郎はなんとか復職できる運びとなったようです。
ところで、当ブログの読者であり、コメントでいろいろとアドバイスをいただいている
甚左衛門さんから「和三郎は元々深谷の在であり、後年は八王子で旅籠兼飯屋を
開いて、子分を抱えていた」という情報をコメントにていただきました。
「所沢村 和三郎の受難」クリック!)
こうなると、なぜ多摩地域の名主たちが揃って和三郎の職場復帰を願い出たのかが
なおさら気になります。

「里正日誌」の安政2年(1855)の項には、この和三郎が道案内として所沢組合の
推薦を受けて就任していたことが記されています。

「所澤組合道案内撰更の願い

   恐れながら書付けをもって願い上げ奉ります
            武州大里郡押切村 百姓 和三郎

右の者は日頃から身持ちも良い実体であるので、所澤組合の道案内にために勤めて
もらいたく、寄場役人どもはもちろん、大小惣代並びに組合村々一同話し合ったところ、
村役人どもの中で御用を勤めるべき者は和三郎以外はいないと、取り決めました。
何とぞご廻村のときは、右の者に道案内を仰せ付けくださるよう、お願い申し上げ奉り
ます。
このことをお聞き済ましなされるのであれば、身分のことはどのようにもできるように
いたしますので、私どもが引受け、お差支えがないないようにいたすべきことです。
よって一同、連印をもって願い上げ奉ります。以上。
  安政2卯年6月 」


この願い書に名前を連ねているのは、武州入間郡所澤村、北永井村、三ヶ嶋村、町谷村、
上新井村、多摩郡野口村、蔵敷村の名主、組頭たち。
とても興味がもたれるのが、
「身分之義は何様之義出来いたし候共私共引請御差支不相成様可仕候、」
の部分です。
和三郎は百姓ということになっていますが、この文面からは彼が必ずしも百姓を本業と
していなかったように想像できます。その身元を名主らが保証してまで、道案内に推挙
しているのですから、彼にはそれなりの能力があり、地元ではない所澤地域の名主らとも
コネクションを持っていた実力者だったのでしょう。

さらに続けて、このような記載もありました。

「別紙 その最寄りの道案内について、その仕事を勤めることにつき評議に及んだことを
承り、入念に勤めるべきことを申し渡されるべきことである。
もっとも、押切村に人別があったのでは差支えがあるので、所澤村に住居を移し、同所の
人別帳に入れた上で同所の百姓として認め早々に差し越されるべし。以上。
   小野路村廻り先 
     渡邊園十郎 

       所澤組合大小惣代役人中  」


関東取締出役から、所沢組合の仕事をするなら押切村に住民票があったままでは都合が
悪いので、所沢に住民票を移しなさいというアドバイスです。
和三郎は所沢村の百姓傳右衛門から借家をしていましたが、このような事情によって
住所が変わっていたことがわかります。

和三郎が元々住んでいた押切村は、幕府領と旗本領が入り組む地域だったようです。
こういう場所は捜査権が曖昧になり(そのため関東取締出役が置かれるのですが)、犯罪
者や渡世人が集まる所となります。
和三郎はこういったアウトローの世界に人脈を持った人物だったのではないでしょうか。
他の地域の人物をスカウトしてまで自らの地域の道案内を勤めさせ、それをお上も認めて
いた、というのは当時の防犯事情の参考としてとても興味深いですね。

ところが、それも数年経つと和三郎は誤認逮捕に連座する形で処分されてしまいました。
和三郎が処分を解かれる2ヶ月前、関東取締出役から以下のような廻状が村に届きます。

「当出役が廻村するときに、召し連れて歩く道案内の者どものうち風俗が宜しくなく、その他
色々な悪い行動も聞くのはもっての外のことである。今後は身分を慎んで行いも良くする
ようによくよく申し諭すべし。
この上はいかなる悪い話が聞こえた者は、厳重に沙汰に及ぶことである。
かねて取り決めておいた通り、案内人の他は召し使わないはずであり、これまで手代下使
といって御用筋に差し出した者どもは残らず止め、これより右の名目を立てて話し合い決め
ることはできなくなり、このことは今その筋よりご沙汰のあったことなのでその意を得るべし。

この廻状を寄場の元へ、請け印と刻付をして早々に順番ごとに送り、最後の村から吉田
僖平次方へ返すべきこと。以上。
    亥2月2日
                 江川太郎左衛門代官所
                    武州多摩郡蔵敷村 小惣代 名主 杢左衛門  」


これを読むと、出役が道案内を使うことは問題がないようですが、その他に手代・下使と
いう下働きを使うことは違法である、とのことです。ちなみにこの場合の手代は「てがわり」
と読むそうです。
彼らの素行が悪いので、使用するのはやめろということなのでしょう。

ここで、当ブログ「和三郎を救え!幕末ネットワーク」クリック!)をご覧になって下さい。
池田播磨守の下した判決で、和三郎の次に「下使 柳蔵」と書かれています。
和三郎は加藤藤次郎事件捜査、あるいは捕縛の際に下使の柳蔵を使ったために処分の
対象となってしまったのではないでしょうか?
もっとも、和三郎以外の他所からきた道案内に下使がいたことは書かれていないので、
そうなると「じゃ、他の道案内はなんで処罰されたのよ?」という疑問も出てきちゃうワケ
なんですが・・・。

穿った見方をすれば、この判決文はあくまでも杢左衛門さんの写し書きです。さらに、
「急度叱り」を受けた者の名前を「失念」と書いてあることから、後から思い出しながら
書かれているようにも受け取れます。
すると、他の道案内にも柳蔵のような下使がいたんだけれども、それらを一々覚えていられ
なくて、自分たちに最も関係のある和三郎についてだけ柳蔵の名前を記しておいた、とは
考えられないでしょうか?
みなさまのご想像はいかに?

さて、ここまで幕末期の道案内(目明し)和三郎について、史料をご紹介したのですが、
ワタクシの感想としましては、現場の村々や捜査にあたる関東取締出役は少しでも人手が
欲しいハズなので、他所から道案内をスカウトしたり、彼らの他に手代や下使を使うこと
を黙認していたと思うんです。
ところが、管轄の違う町奉行所は幕府領や旗本領の事情をよく把握できていないために、
お定め通りにキッチリ裁いたという所ではないでしょうか。

目明しの親分も、置かれた立場は複雑だったのかもしれません。

メガ45


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新選組漫画 142

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三たび登場、中島さんと成合くん。
マニアックな新選組ファン向けの漫画です。
中島登が描いた「箱館湾海戦の図」の写真はコチラをご覧ください
「沖田総司忌 2014年」クリック!)

この図は新政府軍の戦艦「朝陽」が、旧幕軍の戦艦「蟠龍」の砲撃によって黒煙を
上げるシーンを描いています。
この瞬間、旧幕軍の士気は一気に高まり、陸上で指揮を執っていた土方歳三
箱館方面への攻撃を仕掛けます。
しかし、歴史が結果を語っているようにその1~2時間後に土方は戦死。
それを待っていたかのように戦局は一気に新政府軍勝利に傾き、明治2年(1869)
5月18日五稜郭は開城、戊辰戦争は終結します。
思えば、旧幕軍が最後の輝きを見せたシーンが、この蟠龍の砲撃だったかもしれ
ませんね。

蟠龍の艦長を務めていたのは、松岡磐吉
江川太郎左衛門英龍の手代で、英龍の命により長崎の海軍伝習所に学んだ人です。
韮山の反射炉が世界遺産に登録され、英龍は今後多くのメディアに取り上げられる
でしょうから、松岡ももっとメジャーになればいいなと思います。

話はぜんっぜん変わりますが。
ワタクシUMAって大好きです。
小学生の頃から「水曜スペシャル アマゾンの奥地の湖に伝説の大蛇ナークを見た!」
とか、その手の番組を嬉々として見ていましたから。
「絶対に存在が決定的に証明できるようなシーンなんかでてこないんだよな」って子供
心にもわかってはいるんだけど、見ずにはいられれないんですよね。

最近は科学的な論考も進んで「ネッシーはその食糧となる魚がネス湖には十分にいない
ので生息できない」とか、「雪男はチベットの宗教観が生み出した現象」とか「超常ファイル」
で栗山千明ちゃんが何度も諭してくれるんですが、やっぱりなんか惹かれるモノがUMAに
はあります。

UFOにしてもUMAにしても、ドびっくりするような鮮明な写真や動画を目にすることもあり
ますが、近頃はCGでなんでもできちゃいますからね。
かえって目撃者のスケッチというアナログな証拠物件の方が、真実味があるように思えて
きます。
中島さんの描いたUMAは、昔、学研あたりが出していた「世界モンスター百科」みたいな
本に載っていたイギリス人が目撃した海竜を真似てみましたが、鼻だか口だかから出て
る息に臨場感が出ていませんか?

そういえば、茨城の海水浴場にサメが出たそうですね。
普段は沖縄以南の海にしかいない「オオメジロザメ」とかいう種類の、哺乳類をも襲う
大型のサメかもしれないとのこと。
今年は茨城以北の海水温が平年より4℃も上昇しているらしく、それで亜熱帯の海に
いるサメも北上してきた可能性があるそうです。
そういえば、何年か前からやはり温かい海にしかいないハズのヒョウモンダコという
猛毒のタコが本州沿岸でも見られるようになったと聞きました。

UMAはなんか夢がありますが、大型のサメや猛毒タコはリアルに怖いです。


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和三郎を救え!幕末ネットワーク

「桜田門外の変」の犯行グループの一味と間違われ、市原の今津朝山村で捕縛
された加藤藤次郎。
そして、その捕り物一件に関わったとして、市原から遠く離れた所沢に住む和三郎
がこれまた捕らわれてしまいました。
藤次郎は桜田門の事件とは無関係であることが後にわかりますが、和三郎は
どうなったのでしょう?

翌年の文久元年3月19日、この誤認逮捕一件について、南町奉行池田播磨守の
裁定が下りました。

「中追放  神保山城守組同心  加藤藤次郎
押込   同人組同心  同人倅 加藤栄之丞
役義取上押込  関東取締出役  廣瀬鐘平
手鎖   上総国市原郡姉ヶ崎村大惣代  名主 三右衛門

手鎖  同州同郡同村道案内  逸作
手鎖  中山道板橋宿道案内  忠次郎
手鎖  武州所澤村道案内   和三郎
手鎖  同人 同居 下使    柳蔵
手鎖  野州梁田組合野田村道案内   藤次郎
手鎖  下総舟橋宿道案内   文之助  
手鎖  同国宝珠鼻村道案内  豊吉
手鎖  同国関宿町道案内   平吉

三貫文過料  上総国市原郡今津朝山村  名主 半左衛門
三貫文過料  同国同郡同村          名主 源左衛門
急度叱り   右村地主世話人    名前失念
急度叱り   同             同    」


先ず、加藤藤次郎ですが、彼は旗本の神保山城守組の同心だったようです。
職務を勝手に離れていたということなのでしょうか。中追放にされています。その子も
押込ということですから、謹慎の処罰を受けました。
誤認逮捕をしてしまった廣瀬鐘平も押込の上、役職を取り上げられてしまいました。
以前ご紹介したように盗賊・博奕打ちを捕えて活躍していた廣瀬さんですが、(関東取締役
事件控)
クリック!)ちょっとココでミスっちまいましたね。

さて、注目したいのは手鎖を言い渡されズラッとならんだ8人の男たち。
いずれも身分は道案内となっています。つまりは目明し。
この中に和三郎も入っています。
彼は逸作(一作)と同じく、目明しだったのですね。
一作らと共に廣瀬さんの誤認逮捕に協力してしまったということでしょう。

しかし驚くのは、和三郎を含めて一作以外の道案内が、全て他国から来ているという
ことです。板橋、下野(栃木)など、かなり広範囲に渡る場所から捕り物に協力して
いたようです。
彼ら個人個人がどういう関係にあったのかわかりませんが、道案内同志でこのように
広いネットワークができていたとするならば驚きです。

さて、前回ご紹介したように和三郎の赦免をお奉行様に嘆願した杢左衛門さんたちでしたが、
手鎖の裁決を受けてしまいました。
さらに和三郎が道案内の差止めを受けたことを知るや、組合の村々では和三郎を許して
もらえるように嘆願書を提出します。

「恐れながら書付けをもって嘆願奉ります。

           武州入間郡所澤組合 元道案内 和三郎
右の者は去る酉(文久元年)5月にどのような風聞をお聞きになりましたか、御用の筋に
携わることができないと仰せ渡され、一同畏れながら承知奉っております。
和三郎も恐れ入り奉り謹慎しております。
しかしながら、同人のその後の様子はどのような風聞もいささかも見聞きしておりません。
先般、心得違いのあったことを後悔し、今になって明らかにしてお慈悲のご沙汰を願い上げ
奉ってくれるよう、ひたすら取りすがり、実にもって改心し歎いており、その様子は不憫で
嘆かわしく存じ奉ります。
恐れいることも顧みず嘆願奉りますが、なにとぞ特別のお慈悲をもってお聞き入れくださり、
ことの節々をお許し下されたく願い上げ奉ります。

同人がそれより心得違いの行動に及んだ場合は、私どもよりお届け申し上げ奉ります。
別して精を出し勤めますことを申しますので、幾重にもお憐みのご沙汰を下されたく、連印
をもって嘆願奉ります。以上。

   文久2戌年7月7日 
      江川太郎左衛門代官所 
           武州多摩郡野口村 小惣代 名主 勘左衛門
      同 御代官所
           同州同郡 蔵敷村  同    同  杢左衛門
      同 御預り所
           同州入間郡下安松村 小惣代 名主 新助
      同 御預り所
           同州同郡 北野村  同    同  善兵衛
      武蔵美太郎知行所
           同州同郡 町谷村  大惣代 同  民右衛門
      江川太郎左衛門預り所
           同州同郡 北永井村  同  同  重左衛門
      同 御預り所
           同州同郡 所沢村  役人惣代 名主 助右衛門

関東取締御出役
  吉田僖平次様
  太田源助様

     (朱書き)右和三郎道案内差し止めにより、文久元酉年5月20日御両人様より
      寄場役人へお達しがあった。                   」


組合村の惣代たちが、和三郎の道案内差し止めの撤回を求めて名前を連ねています。
組合村全体が、和三郎を救うために動いていることがわかります。
しかしこの時には効果がなかったのでしょうか、12月にも彼ら惣代たちは同様の嘆願書を
関東取締出役に提出しています。

さらに和三郎を救う嘆願書は、所沢組合だけではなく他の組合からも提出されました。

「前書の通り申し上げ奉ります。和三郎は先の間違いを後悔し、恐れ入り奉り、私ども
へも取りすがり嘆願奉ってくれるようしきりに歎きます。
なにとぞお慈悲をもって、大目に見るご沙汰を下され置かれますよう仕ります。
然る上は私どもができるだけ気を付けて、今後は特に正しき道を勤めるようにさせます。
もし、またこれから噂など立つようなことがあれば、早々に申し上げ奉ります。今回の
ことは右の願いの通りお聞き済まされますよう願い上げ奉ります。以上。

     江川太郎左衛門御代官所
          武州多摩郡拝島村 寄場 名主 甚五右衛門
     同 御代官所 
          同州同郡福生村 大惣代 名主 重兵衛
     同 御代官所 
          同州同郡砂川村 同    同   源五右衛門
     同 御代官所
          同州同郡柴崎村 同    同   平九郎
     同 御代官所
          同州同郡日野宿 名主 彦五郎
                      同  芳三郎
     同 御代官所
          同州同郡横山宿 名主 市郎右衛門
                      問屋 七郎兵衛
                八日市宿 名主 佐次右衛門
                       問屋 勘右衛門
     同 御代官所
          同州同郡田無村 名主 下田半兵衛  」
  

拝島、福生、立川、日野、八王子、田無と、江川代官領多摩地域の惣代、名主たちが
和三郎の嘆願に名前を連ねています。
日野宿の名主・彦五郎は、そうです。土方歳三の義兄の佐藤彦五郎です。

一人の道案内の現場復帰のために、これだけの村の代表者らが嘆願しているのですね。
これまた地域のネットワークに驚かされました。
さぁ、和三郎の罪は赦されるのか?  

メガ44
そんなコト言っていいんですか、左之助さん?
あなたの人生に大きく関わっている名前じゃないスか!

甲州勝沼の戦いで敗れ江戸へ引き上げてきた新選組は、今後の方針を巡って
近藤と永倉・原田の間で意見が分かれ、その結果永倉・原田らは隊を脱して
しまいます。
その後、両名は永倉の剣術仲間だった芳賀宜道(ぎどう)と「精共隊」を組織して、
新政府に対抗すべく会津へと向かいます。
ところが行軍の途中で「ゴメン、ちょっと用事を思い出した。すぐ追いつくから
先に行ってて」と言い残し原田は江戸に戻ってしまいます。永倉は、原田は京に
残した妻子が気になったんじゃないか、と言っています。
しかし、新政府軍に包囲された江戸で原田は身動きが取れなくなり、そのまま
「彰義隊」に参加。そして明治元年5月15日の上野戦争で被弾し重傷を負い
ました。
運ばれた場所が本所の旗本屋敷。そこで原田は29年の生涯を終えるのです。

その旗本屋敷こそ、神保山城守屋敷であります。
つまり左之助さん、あなたの人生終焉場所の主の名前じゃないですか。
もっとも、重傷を負っていた左之助さん。自分がどこに運ばれたのかわからな
かったかもしれませんが。

原田には、「実は生き残って大陸に渡り馬賊になった。日清・日露戦争では日本
に味方する老兵がいたが、それが原田だった」という異説もあります。
まぁ、一種のトンデモ説なんですが、いかにも左之助さんらしい話で、ワタクシは
この話が好きです。
              

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